大坪町上古賀 調査者 池松 路子 朝来 淳子 話者:中島 三男(昭和09年生まれ 64歳) 池田 安一(大正01年生まれ 88歳) 山下 恒夫(昭和10年生まれ 63歳) 字名 笑川(わらいがわ)・三本杉(さんぼんすぎ)・一ノ坂(いちのさか)・勝根尾 (かつねお)・前山(まえやま)・二本杉(にほんすぎ)・梅ノ木谷(うめのきだ に)・牛隠(うしがくれ)・前原(まえばる)・上原(うわばら)・古賀(こが) 堂ノ本(どうのもと)・中道(なかみち)・鳥越(とりごえ)・戸次郎堤下(とじ ろのつつみのした)・長田(ながた)・戸次郎谷(とじろのたに)・都川内(みや こせんだい)・猪子谷(いのこだに)・上ノ山(うえのやま)・浪瀬(なみせ)・ 蜂ノ久保(はちのくぼ)・憩場(いこいば)・蔵谷(くらたに) 通称(しこ名) 田畑 戸次郎谷 いかり・ちゅうちゅうこば・くらたに 前山 うらんたん[裏の谷という言葉が訛ったもの] 古賀 かきうち 二本杉 田原(ちゅうばー) 三本杉 じんだろう・かしきぐち 上山 うえのやま 前原 やんべた 浪瀬 かみなみせ・しもなみせ 堂ノ本 田原(ちゅーばー) [上古賀の一番広い田を総称していう] 川 さまざまな字に流れている川は、その字名を付けて呼ぶ。 例:とじろつつみのしたのかわ・うえのやまのかわ等 上古賀について もともとは上古賀と下古賀に分けられていなかった。明治の半ばまでは上・下 の長は一人であって、その人は総代と呼ばれ、古賀の全域をまとめていた。 その後、古賀の領内に流れている川が南から北へとながれることから、川上と 川下の土地の資質が違うことにより、川上と川下で上古賀と下古賀とに分けられ るようになった。そのため、上古賀と下古賀の行政はかなりの部分で、共通して いる。 行政について ・ 上古賀区の戸数は平成10年現在97戸 ・ りんぼうはん(隣傍班)というものを設けている りんぼうはん(隣傍班)とは、隣組の少し大きいものと考えればよい。 上古賀と下古賀に分けられた原因の一つとしては、このりんぼうはんも 多少関係しているらしい。 このりんぼうはんは上古賀・下古賀にそれぞれ7つずつある。それぞれ に代表がいる。市長のもとに組長がいる。 上古賀のりんぼうはんは次の通り。 一ノ坂組 笑川組 前原組 新村組 本通組 恒内組 田原組 村の水利 使用しているため池 蜂久保・戸次郎・都川内・梅木谷・笑川・大井手・ なつぎん谷・今岳・堤久保 どれも上古賀と下古賀の共有のため池で、一つ一つに責任者がいる。その 責任者は皆で選ぶ(自分がしたいといって責任者になれるわけではない)。 責任者は水の出し入れの管理をして平等に水がいきわたるように調整する。 年払いの手当てがこの責任者には払われる。もしも、自分の田に水をひいて ほしい場合には、この責任者に申し出て、責任者が水をひく(誰でも水を扱 えるわけではない)。 ため池など、共有物を工事しなければならなくなった時は、水の使う割合で 金額負担を配分することになっている。そのため、負担額が0ということも ある。 昔の配水の慣行 昔から、川をせき止めて水を得ていた。川が上古賀から下古賀、つまり 南から北へ流れていることから、上古賀の方が水利が良い。水は水田には 非常に重要な要素であるため、昔、水争いが少しはあった。けれども、こ のような水に対しても調整する人を設けていて、その人もまた、皆から選 ばれた人だった。 実際のところは、自分の田に水がほしいため、夜、こっそりと「せき」を はずして水をひくというようなこともしばしば行われた。このように、多 少水に関するトラブルはあったものの、「水番」が田の様子を見て配水す ることで、共同で使用していた。 水のひきかた 昔から、水田の落差を使って水をひく方法がとられている。極端な場合 はポンプを使用してひくこともある。もう一つ、今は、風船のようなもの でせき止めたりもする。風船のようなものの中の空気を抜いて水を通し、 適度なころにまた、風船をふくらませて、水が通らないようにせき止めて いた。 1994年(平成六年)の旱魃の時の対策 部落会を開き、水を割り当てる役(水番)をさらに選び、水の比較的多い 地域から少ない地域へと、平等に水が行き渡るようにした(この時は、時間 給水を行った)。しかし、やはり中にはかれてしまう田んぼもあった。犠牲 田のような田を作った地域もあったかもしれないという話。 そういうわけで、この旱魃は少なからず、被害に遭った。 もし、この大旱魃が40年前の出来事であったとしても、おそらく、同じ ような対策をとっただろう、とのことだ。 旱魃などの被害等で、県にため池工事の申請なんかをする。 平成10年現在、梅木谷のため池の工事をしている。 過去の例を挙げると 国営今岳工区換地 平成7年10月 古賀工区換地 平成10年2月 上 水田 296,731u 下 水田 383,175u 計 679,906u 村の道 古道:赤道と呼んだりする 縄手:あぜ道のこと りどう:車が通れるようになって *古道は穀物(米・麦など)が運ばれてきた。 *米の保存には、かん(亜鉛でできたもの)に保存 村の耕地 田んぼ ・乾田では、戦前には7〜8俵、現在では9俵の米が、一反当たりとれて いる。 ・湿田では、裏作ができない状態になっている。 ・良田(一級田 517ha、二級田 162ha)と悪田には、多少の 差はあるが、ほとんど差はない。 肥料 今となっては全国に知れわたっている森永乳業は、このあたり一帯が発 祥の地であることから分かるように、この地域では酪農(特に乳牛)をし ている人が多くいたため、昔は、この酪農農家から、肥料としてたい肥を もらっていた。たい肥の中には、草木灰のように草を焼いたものも用いて いた。 現在は、なかなか、酪農農家も減ってきたこともあって、化学肥料を用 いているところがほとんどである。 米の質は、化学肥料よりもやはりたい肥の方が良かったという話。 山野 部落内に山はない(個人持ちの山などは、他地区にはあった)。 そのため、燃料となる薪は、ガスが普及する以前は「原野」(田んぼに 関する日照権の関係で、木などを植えられない土地のこと)から、とって いた。この「原野」は、部落の共有である。 大坪塾 大坪地区の区長さん達が、自分たち(大坪)の地区の勉強をする会。 自分たちのと土地のことについて積極的に勉強している。 例:平成10年度の年間学習実施計画の一部 6月 今岳城(伊万里本城)の変遷 ・「今岳城と伊万里家利」について 7月 大坪地区、市内の名木・古木や叢林 ・今岳神社の杉並木 ・境内や社寺の叢林をたずねて 8月 大坪地区の伝統行事 ・地区内の年中行事の調査、記録を5グループで (新天・白野・永山・屋敷野・古賀・円蔵寺・六仙寺・祇園 ・柳井・渚等) 大坪町の主な史跡探訪 [屋敷野、永山、白野]地区 3グループ研の調査をもとに 歩いて学ぶ郷土の歴史 9月 大坪町の地名考・・・地名の移り変わり ・町名 字名 川名 ため池 旧道名 ねど掘り起こし 10月 名護屋城史跡探訪と特別企画展講演会 11月 大坪地区の伝統行事 ・地区内の年中行事の調査、記録を5グループで報告、発表 12月 伊万里水源池設置と伊万里まちの飲み水 ・岩粟の水神尊 ・常入岩井戸・ 伊万里水道 大坪地区の名物伝統行事 「つうわたし」 毎年12月14日に「今岳権現さんまつり」というお祭りが行われる。 この「今岳権現さんまつり」は、区・全組・組ごとに会所で全員でおま つりするものである。 権現様の世話をする当番の順はくじぶきで決まっている。 前年の当番から、次年度の当番へと、引き継ぐための行事が、「つうわ たし」という行事である。この行事は、88歳の池田安一さんが8歳の頃 から覚えていることから、最低80年は続いている。100年は続いてい ると伝えられている。 行列の順序 旗(今岳大権現)―――――二人で持つ 塩ふり ―――――一人 さいせんばこ ―――――一人 大権現(神座主)―――――一人 神官 ―――――一人 山法師(法螺貝をふく)―――――一人 長持ち ―――――一人 人足 ―――――一人 お供 ―――――大人数が一団となる |