月曜4限 歴史と異文化理解A (服部)
佐賀県伊万里市現地調査レポート

堀 直斗
平川 敏弘

《 調査日 》 7月4日(土)

大坪町丙 六仙寺 話者: 岩永 鐵男 昭和10年 2月 1日生
山口 達雄 大正 7年 6月24日生
力武 満 大正10年 9月20日生
野中 秀夫 大正14年11月18日生
大坪町丙 祇園町 話者: 山口 正次 明治42年生


六仙寺

【しこ名一覧】

田畑  小字 加志田のうちに アンノンドウ(庵音堂)
        田中 〃 ミオ(三尾)
        辻畑 〃 カキグチ(垣口)
        辻前 〃 マエノバル(前ノ原)、ツジ(辻)
        辻畑、小式原のうちに ウデゴ(腕御)
※円蔵寺では"腕郷"らしい
池   小字 小式原のうちに ウデゴノイケ(腕御ノ池)
      上ノ原 〃 コヅツミ(小堤)
用水  小字 上ノ原のうちに ハジノキイデ
山   小字 上ノ原のうちに タキタカ山
坂   小字 小式原のうちに ミネノサカ(峰の坂)
神仏  小字 小式原のうちに ハチテング(八天狗)、ハノカミ(歯の神)
※ハノカミはもとは小式原にあった
【村の水利】

--用水の名前--   --用水源--   --共有している村--

ハジノキイデ      伊万里川     六仙寺のみ

・ ハジノキイデの水は六仙寺のみに供給しているので他村との水争いはなく、個人同士の 小競り合いがあったのみ。
・ 辻畑の下に水源があるため、加志田、辻畑は渇水でも水不足になることはほとんどなか った。
・午戻の北東にある水車小屋は現在ではポンプになっている。
・1994年(平成六年)の大旱魃では六仙寺地方では大きな被害はでていない。

@@@ 4279水害 @@@
・ 1994の旱魃よりもこの地方にとって被害が大きかったのは昭和42年7月9日の 大雨による「4279水害」である。
このときの雨量は一時間に120mmというとんでもない量で、田中、午戻といった低 地などは完全に水に浸かってしまい、少し高い所にある筑肥線の線路だけが水の上に出 ているといった状況だった。
伊万里川にかかっていた橋などもほとんど流されてしまった。
・ また、この水害の直後の日から10月9、10日までまったく雨が降らず、大旱魃に見 舞われたそうだ。

【遺跡】

・ 辻畑、加志田、午戻には弥生時代の黒曜石の遺跡が残っており、古代人の墓など見つか っている。
また、午戻の遺跡は現在も調査中である。

【村の耕地】

・ 六仙寺では稲のあとに小麦や大麦(はだか麦)をつくっていた。また、家の茅はこの小 麦で葺いていたそうだ。
・六仙寺では燃料がとれる山がなく、松ノ木を切った後の葉などを他の村から買っていた。 ・戦後には古高さんという肥料商売人が化学肥料を導入した。

【村の道】

・ 六仙寺は伊万里川に面しているために他の村にいったり、通学するためには川を渡る必 要があった。橋はもちろんあったのだが、現在の六仙寺橋付近と辻前にある米つき用水 車小屋付近に川に石を並べた「飛び石」があった。これが交通手段の一つになっていた そうだが4279水害で流されてしまった。

【米の保存】

・ 六仙寺での米の保存方法はモミビツ(籾櫃)である。モミビツは家の壁の四隅を使って、 木で覆ったものである。のちに缶に入れて保存するようになった。
・米櫃にはクロルピクリンという薬を入れて防いだ。

【村の過去】

・ 村の米以外の現金収入には2つあった。1つはタタミの裏のムシロの生産である。もう 1つは乳牛の酪農で、祇園町の森永さんが導入した。
実はこの森永さんは森永乳業株式会社の初代社長である。この話を聞いたときは驚いた。

祇園町

【しこ名一覧】

・ 祇園町は昔は地北と呼ばれていた。しかし、この地の住人は他の地方から移り住んだ人 が大半を占めまた古くからこの地方に田は少なくそのため昔から田を作って暮らして きた人は大変少なくなっており、しこ名は不明であった。また、水利権を古くから管理 する者もいなかった。また、山、道、岩、等にも特別なしこ名はなかった。
この地方を含め伊万里地方の田のほとんどが数人の大地主のものであり、田を作るもの のほとんどが小作人であった。しかし、1945年の農地改革で、1つの田が1000円ほ どで小作人たちに売り渡された。

【水利】

・ 用水源 伊万里川 (伊万里川沿いの村はこの川を利用)祇園町は、地図の点か ら単独の用水をひいていた。

【昔の配水の慣行、約束事】

・ 伊万里川には、地図上の岩栗橋付近まで海の塩が上がってきていたため、円造寺公園付 近に用水路を通しその橋より下流の地域水を送っていた。 昔は、水争いはなかった。 また昔、森永の本社が祇園町の図の地点にありそこからの工業用水を流すため祇園橋の 下流の地点に井樋を作っていたが工場がなくなったために、その井樋は役立たずとなり 廃止された。また現在市では森永本社跡地を30年間借りるという形でその土地を利用 して森永公園を造る予定がある。

・この村の田は全体に乾田であった。また化学肥料は昭和30年以後用いられるようにな りその前は灯油を足でけ飛ばしてばらまいたり、人糞をまいたりして肥料にしていた。

・昔は今岳ごうと呼ばれ、今岳という山を中心にだいたい伊万里市全体の米が祇園町の中 心地に集められそこで精米をしていた。また昔、米は家のなかに長方形の木の板を縦向 きに何本も積み上げそのなかに米を入れていた。そして米が減るたびにその板を取って いくようにしていた。そうすることによって米は空気に触れることが少なくなるので、 米につく虫を防ぐことができた。また、そのような害虫を防ぐため特別な薬品等は使わ れていなかった。

・ 入り合い山はなかった。しかし近くには祇園町所有の山があり、また遠く離れたところ の町は山を持っていた。よって薪はその山から取っていた。

・ 道は現在ある道とほとんど変わりはなかった。また昔の祇園町の子供たちは、町中心の ある御地蔵さんの前に集まりそこからいっしょに町の小学校にいっていた。今の子供た ちはバイパスの道が車の往来が激しいため裏道をとおっているらしい。

・ むらの昔の農業以外の収入としては、町に山があったため薪をほかの村に売る者もあっ た。
また焼き物の販売、仲介、その焼き物を梱包するときその中の焼き物が互いににぶつか りあい割れるのを防ぐ目的でわらを細長く編んで焼き物を固定しそれを収入にしてい る人もいた。

・ 祇園町内のは祇園公園がありその中に祇園神社がある。そこには肥前鳥居と呼ばれ慶長 以前に作られた高さ3メートルくらいの鳥居がありそれは佐賀県には10個もないとい う。もちろん伊万里には一つしかないのだがその神社は昔、伊勢神宮に参拝しに行く者 が、その道中の安全を祈願するため旅に出る前に必ず立ち寄った神社だった。

・ プロパンは昭和44年代に村に入ってきた。水道は大正4年にできた。また下水道は伊 万里市で最もはやく昭和50年の始めにできた。

【伊万里市について】

・ 2件目に聞き取り調査した山口正次氏は元伊万里市長だったため、伊万里市のために山 口さんの行った事業の話などをしていただいた。よって以下は山口氏の話をまとめてみ た。

・ 伊万里川は昭和42年7月9日に大水害が発生した。そのため川は大氾濫を起こし周辺 の田に大きな被害をもたらした。その当時市長だった山口氏は、思い切って伊万里川の 大改革を行った。それはまず伊万里川の幅を35メートルから75メートルに拡大しそれ にともなって岩栗橋以下すべての橋を新しく建設しまた川周辺の家屋200件あまりを 移動させた。また川にはラバー(ゴム製)のダムをつくった。これは、圧搾空気を活用 し、たとえ川が大雨で増水しようとも川の圧力でこのラバーの樋が自然に下がり水が抜 ける構造になっていた。これは全国で始めての採用でありこの川の大改革の後50年1 度も氾濫は起きてない。
・ しかしこの事業での唯一の失敗はそのラバーダムの樋には、魚道がなかったということ であったが偶然この伊万里川では漁業が行われていなかったため何の問題にもならな かったといっていた。また大正4年から現在円造寺公園付近にあった上水場は、その地 点はデルタ地帯であり、効率が悪かったため有田川の方に移動させた。

・ 次に工業の面であるが昔、伊万里市には大通山、城山あたりに5から7個の炭田があっ た。しかし、その炭田から出る石炭は、炭層が狭く質も悪いため効率が悪かった。その うえ経営者が福岡県人だったこともかさなり、利益が出ないと思った経営者はすぐさま その炭田を閉山し、8万人位いいた人工は6万人となった。その時市長の山口さんは、 伊万里湾を整備拡張し、日本の軍港の誘致を長崎県佐世保市と争った。結局その争いに は負けたが港の南側の埋め立て地に、外材を輸入し日本国内に持ち込み家具を作るとき の中継地として利用した。だがその外材置き場の東側の埋め立て地はいまだに工場の誘 致ができず、現在300億円ほどの赤字があるらしい。またその港の北側ではなかなか工 場の誘致が進まなかったが市長の努力の結果、セメント工場と造船工場ができたと言う。 また、これら山口市長の大改革は、当時の九州大学院にいた山口氏の友人や後輩の協力 によって達成できたものであると述べた。

【赤穂四十七士のウラ話】

・ 山口さんの話の中に赤穂四十七士の討ち入りについてのウラ話があった。山口さん本人 が地元の人から聞いた話だそうで、浅野の殿様が吉良からいやがらせを受ける前に、浅 野の殿様が吉良に対して製塩の技術を教えなかったという伏線があったらしい。
当時、浅野藩は一等の製塩技術を持っており、吉良藩は三等だったらしい。
なかなか興味深い話だった。

【行動日程】

10:30 六仙寺バス停到着 すぐ迷う

11:00
〜 六仙寺 岩永さん宅で聞き取り調査
12:30
〜 タキタカ山に登って八天狗をみる
13:00

13:20
〜 祇園町山口さん宅で聞き取り調査
14:30
〜 祇園公園内の祇園神社で昼食
15:00
〜 ボーリング場入り口でボーっとする
16:30
帰る

【感想】

・ 今回初めてこのような現地調査をしたがいろいろ村の昔のことを教えてくださった区 長さんや古老の方は急にこのような調査を依頼したにもかかわらずとてもやさしく接 してくれて大変うれしかった。1件目におじゃました岩永さんのお宅では、古老の方を 3人も呼んでいただき大変参考になるお話をたくさん聞けたし、そこにいらっしゃった 古老の一人は僕たちに水害のときの写真や古い文献を前もって用意していただいてお り大変わかりやすかった。また僕たちはバスを降りてから岩永さんの家のある場所を勘 違いして全く違う場所に行ってしまっていたが岩永さんにわざわざ迎えに来てもらえ 大変助かった。そして、聞き取りが終わった後六仙寺地方の山の上に古くからある御地 蔵さんの場所を途中まで案内もしていただいたし次に行く山口さんに電話もしていた だいて大変お世話になった。
・ 2件目の山口さんのお宅では、もともとバスから降りてすぐに行く予定だったが、連絡 が取れなかったため後から行くことになり、そのため山口さんを待たせてしまい大変迷 惑をかけた。山口さんは元伊万里市長でありさらに九大出身のかたであったため、祇園 町のみでなく市長時代の話や大学の話などいろいろしてくれてたのしかった。また山口 さんからも手作りの祇園町の地図や市から送られてきた伊万里市の都市計画図などを いただいて大変参考になった。

・ 今回の現地調査をして僕は伊万里市六仙寺や祇園町の歴史を知っただけでなく田舎の 人たちの優しさ、心の温かさも知ることができたような気がした。