現地調査 伊万里市大川町戸石川 安田雅俊 山田康介 7月5日8時15分六本松正門に集合し8時30分に六本松を出発した。 バスに揺られながら少しずつ周りの風景がさびしいものになっていきし まいにはあたりには田んぼしかないようなところに出てそこで僕らはバ スからおろされた。 バスから降りて炎天下の中まず自分たちの調査地である戸石川の場所を 地図と照らし合わせながら探しはじめた。200mほど行ったところで 自分たちの進んできた道が戸石川から少しずれていることに気がつき、 道路に地図を広げてもう一度確認して、もと来た道を戻ろうとしている と、車が近くに止まって、中からおじいさんが出てきた。話を聞いてみ ると大川町長野の人で池田さんといい、区長さんが昔の土地の呼び名な どのことについてあまり詳しく知らないので話を聞かせるように頼まれ たらしい。 ちょうど自分たちは道に迷っていたので、戸石川への行き方をたずねた。 確かに道は外れていたが、池田さんは戸石川までの近道を教えてくれた。 周りは田んぼばかりで、道らしい道は少なかったが池田さんにいわれた 通りに田んぼのあぜ道を通っていった。「まむしが出るかもしれない」 といわれたので駆け足であぜ道を通り抜けた。あぜ道が終わり普通の道 に出るとすぐに牛小屋があり臭い匂いをかぎながらそこの横を通り過ぎ、 地図を確認してみると自分たちがもうすぐ戸石川につくのではないかと いう気がしたので、近くにある民家に戸石川の場所を尋ねに行った。 原さんという人でいえのベルを押すとおじいさんが出てきて、もうここ は戸石川であることを教えてくれた。すぐに自分たちが調査しようとし ている田んぼのしこなにつて聞けばよかったのだが、まさかここがもう 戸石川であるとは思ってもみなかったので、心の準備もできていずに、 話を切り出すことはできなかった。 住宅図を確認して、学校の戸石川のめいぼにあった原口勝彦さんをまず 最初にたずねることにした。けれども実際原口さんの家へ伺ってみると、 若い人しかおらず話を聞くことはできなかった。 結局一番最初に戸石川の場所を尋ねた原さんはとても親切で話すやすか ったので、そこに話を聞きに行く事にした。原さんの家に着きいえのベ ルを押すと、目的のおじいさんではなく、40歳くらいのおじさんが出て きた。自分たちが調査しようとしている事を伝えると、おじさんはわか らないといわれた。家の中にいたおばあさんにも話をしてくださったが まず第一に「しこな」というものを理解していただけなかったらしく、 そこで話を伺う事はできなかった。 けれども原さんは戸石川の事について詳しい人を知っているという事で その人の家に案内してもらった。行く途中に畑仕事をしているおばあさ んに会ったので話を聞いてみたがそのおばあさんにも思い当たる節はな かったようだ。 戸石川にはこの部落を研究している人が2人いたらしいが、その一人の 大久保さんという人は去年なくなられたらしくもう一人の馬場崎さんと いう人を紹介してくださった。馬場崎実造さんといい明治40年生まれで 昔は学校の先生をなさっていたそうだ。生れたときから戸石川に住んで いて、いろいろと戸石川の歴史などについて昔研究されていた。 原さんがいきさつを馬場崎先生に説明してくださって話を伺う事ができ た。お宅にお邪魔して早速しこなについての話を切り出したが、かなり の年齢という事であまり覚えていないというような事をおっしゃられた。 けれども昔の戸石川の様子については覚えていらっしゃったらしくその ことについての話をまず伺った。 今はもう埋め立てられてしまったが、昔は家の前に川があってそこを「き どんかわ(木戸川)」といい、うなぎやなまずを捕ることができたらし い。「なげこみつけ」といい、夜に川に網をかけて朝になってその網に 魚がかかってないかを見るというものだった。それが毎朝の楽しみだっ たとおっしゃっていた。また木の先を割ってそこにくぎをさしたものを 使ってえびを捕ることもできたらしい。当時のそのようなことを本当に 楽しそうに話してくださる反面、今は川も埋め立てられて一匹の魚やえ びも捕ることができなくなってしまったことを残念そうに思われている のが伺われた。うなぎやなまずは食事のおかずになったらしい。交通の 便がかなり悪かったらしく生の魚は自分で釣ったものくらいすか食べら れなかったそうだ。魚は伊万里市場に買いに行くことがほとんどで、生 物は自転車が普及してから普通に食べれるようになり、それ以前は塩つ けや干物ばかりだったそうだ。 当時の貴重な話を聞くことができたが、本題のしこなについての話しは なかなか聞くことができなかった。馬場崎先生もかなり考えていらっし ゃったが思い出すことができなかったらしい。 けれどもしこなというのは田んぼだけでなく人間にもつけていたという ことをおっしゃられた。馬場崎先生の代にはもうなかったらしいが、馬 場崎先生のお父さんの代にはそれが存在していたらしい。馬場崎先生の お父さんの戸籍上の名前は「治太郎」だが、しこなは「久吾」でしこな で呼ばれることの方が多かったらしい。 自分が思うにはなんとなく人間のしこなというのは今で言うあだなのよ うな感じであったので、田んぼのしこなというのもその地の人々によっ て勝手につけられたあだ名のようなものである気がした。 馬場崎先生は相当戸石川のことについて研究なさっていたらしくノート 何冊にも調べた内容が及んでいた。 それらの文章の中の最後に「如件」と書いてあるものが多々あった。こ れは「くだんのごとし」と読み、「件(くだん)」とは顔は人間、体は 牛の架空の動物で、件が言うことに間違いはないということから、これ を文章の最後につけることによってこの文章は間違いありませんという ことを表すそうだ。 いろいろと戸石川のことについて聞くうちに「まゆ山」という山のしこ なを聞くことができた。戸石川から井手口に向かうところの山とおもわ れるがはっきりとした場所を聞くことはできなかった。 またそのまゆ山の中に「獅き(しき)」と呼ばれる場所があり“しんぜ んしろうためとも”が獅きという動物を倒したことから由来するという ことも教えてくださった。 いろいろ資料がある中、馬場崎先生が調べていらっしゃったものは、そ この区長さんのところに保管してあるものを書き写されているものもあ った。 何年か前までは戸石川に詳しい人も数多くいたらしいが、馬場崎先生と 仲良かった同世代の人はほとんど他界してしまったらしい。馬場崎先生 も「歴史を調べることは本当に楽しいだ。」と何回も繰り返しておっし ゃられていたが、本当に熱心に自分たちの調査に協力してくださって少 しでもたくさんの知識を伝えてくださった。そんななか馬場崎先生の資 料の中に先生のまた先生が書いたという戸石川で一番古い資料があった ので見せていただいた。そこの中にはいろいろ変わった土地の呼び名が あったので以下に記す。 モリイエマツ 盛家松 盛家が討死にした場所でそこに一本の松があ った。 タチアライガワ 太刀洗川 盛家の血がついた太刀を洗った所。 カクレ 隠れ しばらく隠れていた所。 フクショ 伏所 敵の兵のいた所。 セイリュウ 勢溜 軍人をたくさん集めた所。 ゲンカケイワ 弦掛岩 源太郎が弓に弦を掛けて神を祭った所。 ヒアリジョウ 日在城 城山を築いた所。 ムカタ 牟形 一番早く焼き物を焼いた所。 マイブチ 舞淵 川の方向が変わり為水が渦巻いている所。 ヤゴロウ 弥五郎 一番深い所。15尋 1尋=両手幅 イシザカバ 石坂場 舟が唐津まで通う所。 シライワ 白岩 耶馬溪にも劣らぬ名所。 ソエゾノ 添園 兵をそろえた所。 ダイモ 県道の土橋の近辺 エボシダケ 烏帽子獄 これらたくさんの地名を知ることができた。ほとんどすべての地名に由 来があるようだ。戸石川の最古の資料というのはかなり古く地図もつい ていなかった。そのためもっとも肝心な地名のあらわす場所というのが まったく把握できていないのが悔やまれる。馬場崎先生に聞いてもわか らなかったのでこれらの地名はただ戸石川の中の地名であるということ しか分かっていない漠然としたものである。しかし本人もわからないし もちろん僕らも分かるはずもないので仕方ないのかもしれない。また資 料を読んだ感じからするとこれらは田んぼのしこなではないことは間違 いないと思われる。何とか田んぼのしこなを得ることはできないものか と馬場崎先生に尋ねてはみたが、馬場崎先生は農業を営んでいたわけで はないので深く頭にのこってはいず、結局情報は得られなかった。 ただ農業を営んでいる人ならば多分田んぼのしこなについて知っている だろうという先生の言葉から、田んぼのしこなについてはそういう人に 話しを聞いてみることにした。 先ほどの資料で分かったことだが、現在使われている松浦はもともと末 羅だったらしい。二人ともかなり驚いたので論述の筋からは多少ずれる が記しておく。 最後に馬場崎先生の資料に自分たち二人の住所と名前を書くように頼ま れて喜んで書かせていただいた。 次にたずねようとしている農家の人の場所を住宅図を広げて教えていた だいた。 何の連絡も無しに突然押しかけてたくさんの貴重な話を聞かせていただ いて本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。 2時間くらいお邪魔していたので外に出たと気化なり太陽の光が眩しか った。早速汗が吹き出しながらも次の調査へと向かった。 |