大川町東田代 浜口 涼吉 林 啓一 前田 祐希 原田千都 話者:松尾勇(昭22) 江口政信(昭25) 小字 カタクサ(片草) コウビラ(香平) トヤガワチ(十夜川内) タカミ(高見) ダンノカワチ(段ノ川内) ヤマダ(山田) ツツエ(筒江) オノウエ(尾ノ上) ヤジュウロウ(弥十郎) ナカノコバ(中ノ木場) コブキ(小吹) イワノ(岩野) シカワチ(志川内) ワダ(和田) マエサカ(前坂) フナノモト(船ノ元) キタタシロ(北田代) カワバル(川原) ヤーダケ(箭竹) カミノツジ(上ノ辻) タシロ(田代) ハイガワ(拝川) サカイガワ(境川) カミバヤシ(神林) 村の範囲 東田代川がこの地区の中心を流れ、その周りに集落が点在している。東田代は 田代と筒江の2地区に別れており、上側を田代、下側を筒江という。東田代に ある大溜池がこの地区の水を供給している。主に川を境界に地区を別けている 、昔から水害が多かったために水害が起こるたびに川の水路が変わってしまい それに従って地区も変わってきたそうだ。 村の水利 東田代地区は田代にある乾鼓岳のふもとの大溜池、中溜池、清水池などの溜 め池や川の水を水田に引水して農業を行っている。大溜池は特に広範囲にわた る地域で利用されており、水利権は田代にあるが、その水は筒江・田代で共有 している。 1994年、今から4年前の大旱魃この大溜池がこの地区の水の供給に大変役立っ た。中溜池をはじめほとんどの溜め池は枯れてしまったが、大溜池だけが旱魃 をしのいだそうだ。私たちは実際に大溜池に連れて行っていただいたが、池と いうより湖と言えるような大きさで、大溜池の供給量も納得できた。だからこ の溜め池が枯れそうになるほどの旱魃は想像できなかった。旱魃のときにはベ テランの水番責任者が現状に応じて話し合いをした上で水の量を調整できた。 ベテランの方だったからこそ大溜池の水だけで旱魃をしのぐことができたのだ とおっしゃっていた。溜め池がないところの人は出水を大切にした。また、田 代は山の上腹にあるため山の傾斜が激しく川が小さいので水溜まりがなく水を 水上ポンプや20ミリ呈度のビニールパイプで水を引いて直接田に流した。少し の水もパイプでつないで持ってきた。長野などさらに下流の地域ではもっと被 害がひどかったそうだ。またこの地域では水害も頻繁に起こっている。今から およそ30年前の大水害が更にひどく、当時木造だった橋はすべて流れてしま った。今ではコンクリートや石垣の工事がなされている。その上、その水害か ら2ヶ月近く雨が降らず今度は大水害が起こったそうだ。 5・6年前にも大水害が起こり、松浦川に入りきらない水があふれてしまった。 水害があまりにも多いため、今ではダム建設について検討しているそうだ。 村の耕地 稲作は、日当たりが良く、水の量を豊富に確保できる土地で行われている。水 量を保つことのできない土地はみかんを栽培し、それ以外の土地は杉による植 林を行っている。しかし、最近は米の値段が下がり、300M四方あたり12万くら いの収入しか得られず、稲作をやめる農家が出てきた。 また、数年前から始まった、オレンジの輸入自由化によって、みかん自体とし ての需要が減ったわけではないが、果汁の需要が減少し、みかんを栽培するに は手間暇がかかることから、みかん栽培をしている農家は東田代ではわずか2 件になってしまった。農業を放棄された土地は、放棄した農業者が他の農業者 に貸すことでまだ農業が行われている土地や、野菜などを栽培している自給自 足用の農地として使われている土地や、そのまま荒れ地になっている土地もあ る。 村の過去 現在の農業以外の現金収入は、牛を育て、それを売ることによって得ている。 1年間育てた後、子牛として20万、2・3年飼育した牛は肉牛として80万程度で 売れるらしい。 昔は、牛とは別に、雑木林の木を焼いて木炭を作り、山を掘って石炭を掘り出 してそれらを下の町まで売りに行って収入を得ていた。 また30年前の洪水のときは、東田代川沿いにある村の主要の公道(’あかみち 'と呼ばれていたらしい)が壊れていた。そのため、その頃は新たな道を整備す るための人員が必要だったので、農業以外に土方の仕事を村の青年のほとんど がやっていた。 ガス・電気がなかった頃は、薪が使われていた。山は庄屋や地主が所有してい たために、薪をとるためにはそれらの許可が必要だったらしく、現金を払った り物々交換などの必要はなく村人の誰もがとる事ができたらしい。 米の保存 150年ほど前までは、庄屋に米を納めていて、米俵や大きなつぼやびんに入れ て保存していた。50〜60年ほど前になると、自給自足が徐々に普及していき、 生産した米は米の倉庫の中にあるカンカン(をさらに大きくしたようなもの) に入れて保存するようになってきた。現在もそうして米を保存しているところ もわずかに残ってはいるが、農協ができた事によりその頃とは少し変わってき た。今は、村で作った米のいくらかを農協に出して紙の袋などに入れ、他の町 に出荷している。残った米は以前と同様にカンカンにいれて保存している。 村の道 東田代は、600年の歴史があり、大溜と中溜との間にある道を殿様が通って いたそうで、そこからこの東田代のむらは発展を遂げたそうである。さらに、 この東田代から田代、大川町へと村は発展していった。実際私達も大溜へと 連れていってもらい、その道を歩かせてもらった。私達が話を聞かせて頂いた 松尾さんがしきりに時代劇で水戸黄門が通る様な道とおしゃっていたが、まさ にその通りの道だった。池と池の間にあぜ道のような細い道が続いていた。そ の後、小さなお宮にも連れていっていただいた。そこは勉学の神様を祭ってあ るそうで、草を抜いてそれを束ねてお祈りすると願いがかなうということだっ た。その場所にも殿様が通っていたと見られる細い道があった。そこは特に見 晴らしがよい場所で今ではベンチらしきものも備え付けてあった。他にも炭鉱 を閉鎖した時の記念碑もあった。 現在の道は、40〜50年近く前に舗装された。松尾さんの高校時代(昭和 40年頃)は砂利道で、その道を自転車で駅まで通っていたそうである。昭和 50年位までは自家用車を持っている家庭はほとんどおらず、交通手段は徒歩 や自転車が主であったようである。また、現在マイクロバスが一日二回通って いるが、利用者が少なく、バス会社から廃止の声が挙がっているそうである。 村のこれから 現在、東田代の村では、ダム建設のために半数近くの家屋がダム建設のため に半数近くの家が沈むことになるかもしれないそうで連日会議が開かれている そうだ。ダム建設のために沈んでしまう予定になっているのは筒江の大部分で あり、11戸の家屋がダムの底に沈んでしまうことになる。小字でいうと香平や 高みの辺りである。 ダム建設については筒江・東田代それぞれの大字で対応している。東田代では 筒江がダムの底に沈み個数が減少することによって様々な影響が予想される。 減少した個数のぶん、それだけ東田代の住民の負担が増える。役職等の問題、 共有林の管理、山の清掃、むらの行事等、様々な問題があるらしい。また、 人が出ていってしまう可能性があり、さらに過疎化が進むといった問題も出て くる。東田代では過疎化がかなり進行しており、高齢者の二人または一人暮ら しが12件ほどいるそうである。その原因の一つとして米の値段が下がり収入 を補うために都市部に働きに出なければならない現状があげられる。昔は他を 作ってさえいれば暮らしていける収入があったそうだが。最近では田を他人に 貸したり、放棄する人もいるそうだ。またみかんの栽培も盛んだったが、オレ ンジ輸入自由化のため、思うような収入が得られなくなった。去年に至っては 大豊作だったためにみかんがあまり、収穫したみかんを捨てなければならなか ったそうだ。松尾さんは小牛を売る仕事も行っているが、昔は1頭80万程度で うれていたのがいまでは35〜40万くらいにまで値下がりしてしまった。 村では村のこれからについて話し合う会議が17,8年も続いているそうだ。地 方自治体からの援助が得られれば良いがそれもうまくいかず、東田代は今危機 を迎えている。 |