村の名前  大川町長野

話者    池田 達造  大正9年生まれ
      柳田 輝次  昭和2年生まれ

調査者   S1−15 
        松下 雄一
        山下 耕生


しこ名一覧

ミズモチ(水持)、 アカサカ(赤坂)、 ヤツエ(八ッ江)、
カワハラダ(川原田)、 ハタケダ(畑ヶ田)、 ユブネ(湯舟)、
ソエゾノ(添園)、 ナカドオリ(中通リ)、 ヨドヒメ(淀姫)、
ギンペ(吟平)、 オイカゼ(追い風)、 ヤマテ(山手)、 
オサカ(小坂)、 トメダ(溜田)、 ハコバ(箱場)


使用している用水

 主として大溜池から引いている。昔干ばつが起きたときは、溜池 頼りであったが、昭和40年代になって、松浦川から水を引き上げ るポンプが設置された。

村の過去

 大川町長野は、昔から専業農家が多く非農家は一つで病院を経営 していた。つまり農業以外の現金収入はなかった。

今回我々が調査した大川町長野は、明治22年の地名変更により3 字名から2字名へ変わった。
      大川ノ村 → 大川町

洪水が起こり、地形が変更するたびに地名が変更されるそうで、今 までに3,4回あったそうだ。

今の大川町長野の特産品は、なし、牛(大川牛)、焼物である。

今回聞いたしこ名の中で、由来がわかったのは、次の二つである。
 ・ヨドヒメ(淀姫)…近くに淀姫神社がある。
 ・ユブネ(湯舟)…昔温泉が出ていた。


 今回の調査は、思った以上に困難をきわめた。まず電話でアポイ ントを取ろうとしたところ、担当者であった堀田和則さんが調査当 日に不在なので、他の人に頼みましたとのことで、担当者が、池田 達造さんという方に代わってしまった。
 当日バスから降りて、延々と続く日に焼かれた道路を歩いている と、民家が見えてきた。まず其の民家で堀田さん宅を尋ねてみるが 分からない.とりあえず、長野の方向を教えてもらった。ところが 何と来た道が間違っていたそうだ。もと来た道を、帰ることに…・。 すると其の道路上で他の学生たちが集まり老人に何かを尋ねていた。 すかさず其の輪の中に私とパートナーの松下は、入ることにした。 何か私たちの事情を知ってる人のようだ「すみませんがお名前は?」 すると、「池田です。」「もしかして、池田達造さんですか?」「はい私 が池田達造です。」…・私と松下に笑みがこぼれる。なんと其の方は、 担当者の堀田さんが依頼していた人なのだ。
 まず池田さんは、歩いて行くのが困難と思われるほかの学生たち を車で送ってくださるようになった。其の間、私と松下は、歩いた 道程さえ忘れるほどに安心していた。すると池田さんが戻っていら した。そして車に乗り込み目的地である堀田さん宅へ向かった。(堀 田さんは、不在であったが、堀田さん宅でお話を伺うことになって いた。)
 池田さんは、堀田さん宅へ向かう車の中で、昔のことを話してく ださった。それはマニュアルにあった通りたずねるべきことだった のでたずねる手間が省けた。
 そして堀田さん宅に到着するとすぐに、「このあたりについてもっ と詳しい人がいるから、探しに行ってくるバイ。」と言い残し、探し に行かれた。あの家にいらしたおばあさんは、堀田さんの奥さんで あろう。私たちを手厚くもてなしてくださった。堀田さん宅で待つ こと数十分、其の人がやってきた。其の方は、柳田輝次さんという 方であった。其の方は気さくな方でした。大川町長野についてお話 を伺うこと数時間、とうとう帰らなければならない時間となった。 「もう帰らなければ…・」というと、寂しそうに「もう帰りなさっとね え?」といってくださった。そこで私たちは丁重にお礼を言って帰る ことにした。帰る際のおばあさんと柳田さんの悲しそうな顔は、忘 れることができません。

 大川町長野の皆さん、世間知らずの私たちを我が子のようにやさ しく接していただき誠にありがとうございました。調査に協力して いただいたことにも、本当に感謝しています。この感謝の言葉を以 って佐賀作戦の終了とする。