大川町 川原 話者:古藤 悟 昭和2年生まれ
調査者:原口 知子
藤田 和子
しこ名一覧
村の水利について 私たちは松浦川という川が流れているのにどうしてこんなにも溜め池が多いのか疑問 だった。だが話を聞くにしたがってその理由がわかった。大川町は昔は天領(幕府の 直轄地)になったこともあったが鍋島藩の領地であった。しかし松浦町は唐津藩の領 地であり川原の人々は松浦川から水を引くことをゆるされなかった。そこで溜め池を 作り自然の勾配を利用して水を引いた。現在はコンクリートの水路だが昔は水路を維 持するのにたいへん苦労したそうだ。 1994年の大旱魃にはやはり水争いが起こった。本来水の権利はないがポンプでく み上げたので大きな被害は受けなかった。しかし松浦川には深みにしか水がなくなっ てしまった。 川原の水害について 上にも書いたが、川原町には、松浦川がすぐ側にあるにもかかわらず、松浦川が唐津 藩の領地であるがために、松浦川の水の使用を一切禁止されていた。 それだけでも川原町は農業にかなりの損害を受けていたのに、400年前、松浦町が 田畑に水路をひくために松浦川に井堰を作ってから、より一層の損害をうけることと なった。 井堰を作ったために、大雨や台風などが来ると前以上に川の氾濫が起こりやすくなっ たのだが、地形的に松浦町より川原町の方が低く位置しているため、氾濫した水がす べて川原町の方へ流れてきてしまうようになってしまったのである。このため、川原 町の田は、より一層貧しくなってしまった。 村の耕地について ・川原は山間部のため田畑は段々であった。良い田、悪い田は段ごとに差があった。 だからこれを地図上に書き入れることはできない。 ・ 化学肥料が入る前は反当たり5から6俵であったが、入った後は8から10俵とれ るようになった。戦前は草の上にたいひをかけ、石灰をかけてくさらせたものを肥 料としていた。 ・ 部落の中でも4つの隣保藩に分かれていてそのグループで山林は共有していた。杉 を植えていた。戦後、共有の財産は没収されるという噂が広まり、個人名義とされ 今もそのままである。 米の保存について ・ 昔は土間の上の周りに2本の木を組み合わせ、そこに米俵を保存していた。しかし、 昔は5俵とれたうち1俵ぐらいしか自分たちの家で確保できず、残りの4俵は安い 価格で売らされたり、年貢として収めたそうだ。 ・大地主になると、自分たちで土蔵を持っていたので、そこに保存しておき、皆の米 が なくなったときに売ったりしてまた一層もうけていた。 ・昔、家では薪を使って家事をやっていたし、家の中にいろりもあったので、そのと きに出るすすで家中真っ黒だった。いろりから出る煙が米を保存するうえでの虫除 け・除菌になったのかもしれないと話してくれた。その後はトタンで作ったかめみ たいなものに保存するようになった。 村の過去から現在 ・ 50年前、この村には現金収入となるようなものが全くなかった。(もっともお 金を生活に必要としなかった。)そのため川原はとても貧しかった。作物は米・麦 が主流だった。現在は果樹園で梨を栽培している農家が多くさかんである。道路の 整備が周辺地区よりはやく進み伊万里市に近く、交通が有利なため企業の工場が2 つ建ち、川原は変わった。この部落ではほとんどの農家は兼業となり、今では専業 農家は3軒ほどである。戦後は米の増産を国も掲げ、米の値段は高かった。当時は 労働者となったり、学校の先生になったりした川原の人々を周りは差別的な目で見 ていた。しかしこれは川原の人々が広い平野での米作りには太刀打ちできないと気 づいたからである。その結果川原は大川町で一番の発展を遂げた。(米の値段は5 0年で4倍くらいにしか上がっていないが、賃金は30倍以上にもなったので。) 今では周囲の人々にうらやまれている。このことを考えると川原の人々は先見の目 を持っていたといえる。 その他の話 ・ 川原には4つの隣保藩(川原組 16、原組 9、中組 15、尾坂組 13、 計53軒)があり、今でも組ごとにお葬式をしたりするということだ。 ・ 薪についてだが、昔は冬に雑木を切ってきて、たきもん小屋という小屋に芝や薪 をぎゅうぎゅうにつめこんでいた。またその仕事は年配の人(60から80歳) がする仕事だった。 ・ 昔はお風呂が各組に1つしかなかったので、老若男女問わずいっしょにお風呂を 使っていた。しかし他の村からお嫁に来た人や、若い女性は恥ずかしいだろうか ら、皆が入ってしまった後にぬるま湯に入ったりしていたということだ。 ・ 昔、川原には番所(小さな関所のこと:領地の境目だったので)があり、そこで あやしいとされると先の方にある処刑場で首をはねていた。 ・ 処刑を行う身分の人々は(その人たちが住む地区を断頭といったが)白木は高貴 で恐れ多いものだといって、新しく建てた家でも白木が見えないように色を塗っ ていた。その習慣は何十年か前まで続いていた。 ・ 他の村との交流はもちろんあったらしいが大規模な物品交換みたいなことはやっ ていなかった。 ・ 農業は肉体労働なので、1日4食食べていたそうだ。(朝食・あさがい 10時 ・ひだがい 2時・ばんとう) また肉は1年に1回食べるか食べないかの貴重なものだったので、山からうさぎ や山鳥をとってきたり、家で飼っている鶏をさばいたりして食べていた。おやつ はほとんどがさつまいもで、オオバコなどの草を料理に入れたりしておやつにし ていた。 ・村の風習として、4年に一度閏年の2月に「くねきり」といわれる独特の行事が 行われる。これは、隣の木の枝がのびてきて自分たちの土地に入ってきたりするこ とがあるとその木の処理に困るということで始められたそうだ。(相手の木だから 勝手に切るわけにもいかないし、かといって相手に文句を言うのも角がたつから) くねきりの日には村の皆が集まって、1軒1軒回っていき、皆で判断して余分な枝 ・ じゃまな枝を切り、最後に酒を飲み交わして終わるということだ。この風習は村 の人が自慢できるものであり続けていきたいと古藤さんはおっしゃっていた。 村のこれからを考える 古藤さん談 現金収入の道が見付かった今の状況を維持していきたい。現金収入があるからと いって次の世代に農業を捨ててほしくはない。農業を通して村のつながりを大切 にしていきたい。 |