歴史と異文化理解のレポート 末吉 仁 鶴見 有貴 調査日 7、5、日 調査場所 佐賀県伊万里市櫨の谷 協力者 池田晴男 s27、11、6 吉野靖義 s16、9、3 池田 勇 t8、4、22 まずこの調査で最初に述べることは、現在では櫨という字は使わないことが 多い。もちろん、地図上では使われているが最近ではもっと簡単な文字を 使うことが多いらしい。 ・ 村の歴史・ もともとこの地域は唐津でししがたに城の管轄であったという。伊万里市は 肥前の国であるが・・。ある時唐津の領主が秀吉の怒りをかい 筑波に 島流しにあった。 唐津藩は取り潰しにあい姫が太宰府から唐津へ逃亡していた。その途中で 隠れ場所と して最適な場所が現在の櫨の谷だった。この場所で生き延びる ことができた。 その当時は浦田家が密かに暮らしているだけだった。 またこの事に関して面白い言い伝えが残っていた。 今でもこの地域では正月にはお雑煮を食べないという。餅は焼きもちで 食べるという。上記の姫が生き延びてこの場所に到着したのが大晦日 だった。 逃げ延びたわけで鍋などなかったわけで雑煮など出来るわけがない。 そこで刀で切って焼いただけの餅を食べたというところから この言い伝えが残ったそうだ。 でもこの地域には5軒の家があるがこの言い伝えを実行しているのは 3軒でありのこりの2軒は正月にやきもちを食べないで、 雑煮を食べる習慣だという、食い違いが生じている。 ・四股名に付いて・ 初めに四股名に付いて聞いたところ櫨の谷自体が小字みたいなもの であり、四股名はそうたくさんは存在しないということである。 櫨の谷には以下の9つしか小字は存在しない。 また四股名の位置はあとの地図に示すので参照してください。 (櫨の谷地区内の地名について) 1、琵琶石(びわいし) 2、角 (つのつき) 3、古畑(ふるはた) 4、奥の木場(おくのこば) 5、櫓切り(やぐらぎり) 6、板屋川内(いたやがわち) 7、岩坂(いわさか) 8、神山谷(かみやまだに) 9、仮屋が谷(かりやがたに) ・村の水利・ 川から引水(自然の河川から)また水路に名前などは一切ついていない とのこと。用水は単独で利用(隠里と呼ばれるくらいなので共有村 などはある訳がない。 もちろん単独で利用しているため村同士の争いもない。 しかし村内では多少小競り合いもあったと思われるが、基本的に昔から 上流優先ときまっていた。 これは了解事項なので大きい争いはなかった。 H、6の干ばつの時もそうだが、自然の川から引水しているため 天気任せでどうしようもないのが現実。昔からなすがままである。 狭い地域なのでもちろんため池などもない。 また昔は開発が進んでないため、今よりも水持ちがよかった。 つまり、今よりも干ばつに強かった。 ・村の耕地・ この地域での米の取れ具合・場所による差は主に地質・土壌の質による。 全体的には昔も今も日照時間は短い。 また上流のほうが水は冷たいので、収穫量は減少する。 この地域の良田・悪田の出来方はやはり土壌の質による。 この事は昔から変わってないが雨が降ると、山から有機質が流れ込む。 その有機質が・・・沈殿する場所ーー良田 沈殿しない場所ーー悪田 、となるわけである。 またこの地域では水はけが悪いため裏作がほとんどできなかった。 それでも完全に裏作ができない場所は、全体の約3割であった。 昔は少ないながらも小麦・菜種の裏作をやっていた。 しかし今はやっていない。 良田・悪田の差については、収穫量として目にみえるほどの 差はほとんどない。 この地域では上流の方が収穫量は少ないが味は良い。 これは先程も述べたが 、上流の方が水が冷たいためである。 次に肥料のことについてだが、化学肥料の使用によってもちろん 収穫量は増加したが味に関していえばむかしのほうがよかったとのこと。 昔は肥料は草などのたい肥を利用。 しかし、味が落ちた理由は肥料のせいではない。 理由は他にもあるかもしれないが、1番の理由としてあげられるのが、 昔より土壌の質がおちたといううことである。 それは狭い田を広くするためにいくつかあわせて一緒にしたためである。 入会地(山)・・・後谷と呼ばれているところがある。 (地図参照) ガス普及以前の燃料としては、周囲の山から薪として活用。 ・村の道・ 櫨の谷では道・水路などになまえはついていない。 一般の呼び名としては作場道・里道・赤道などと呼んでいた。 幅はリヤカーが通れるくらいの幅・・(約1、5Mくらいの幅) *実際見てまわったが現在は舗装している為、多少広く 感じられるがもちろん車は通れない幅である。 其のような道では、・・山から木材などを運んでいた。 ・・牛・馬などの通り道。 ・米の保存方法・ 丸俵にいれて家に保管・・(蔵のようなものはない) または缶缶(がんがん)と呼ばれるものに保存。 がんがんとはブリキ製の入れ物でこの地方の方言である。 ・虫害・風害・ 今は農薬、昔はこれといった対策はなし。無農薬で育てていた。 ・村の過去・ 基本的には米主体、少ないながらも木炭・和紙・養蚕も 現金収入の一部を担っていた。 特に養蚕については、昔は各家に存在。 後は牛・馬を使った材木運び、 出稼ぎなどはほとんど無いに等しかった。 林業はあまり見られない。(これは植林に適さない為である。) ・村のこれから・ 自然のまま永久保存していきたい。 <行動記録> バスを降りてからずっと山を登り、結構傾斜のきつい坂だった。 当初の予定では、歩いて40分から50分であったが、1時間半かかってやっと 到着した。なかなかここがきつかったと思う。 そしてアポをとった家へ、そこは伝統ある陶芸の家で偶然にも字や地名を まとめている時だった。そして、忙しい中僕たちに付き合っていただき また、帰りには実際にその場所を見せていただき。集合場所まで おくっていただいた。 <感想> この調査を通じてまだまだ僕たちの知らない地名は数え切れないほど ある事を知ることができた。また地名それぞれには昔からの言い伝えがあり それがもととなってつけられた地名が多い。この授業をとっていなければ そんな事も知らずにいたかもしれない。 |