櫻井 洋介 片村 嘉孝 歴史と異文化理解A 現地調査 佐賀県伊万里市大曲の調査 目的 失われつつある事柄を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。あわせて昔の暮らしについてじかに土地のお年寄りからお話を聞き理解を深める。 聞き取りした人の名前 南波田町大曲 小林 春義一家 昭和生 しこ名 カミガタ(上方) ・・大曲の市道から二つに分けてある ウラノハラ(裏ノ原) ・・大曲の市道から二つに分けてある ミャーブラ(前原) ・・字と呼び名が違う。今も残っている。 イシドーヤマ(石堂山) ヤマノカミ(山ノ神) ・・今も残っている田の呼び名 ツジ(辻) ・・今も残っている田の呼び名 タチノハナ(立ノ花) ・・果樹園になっていて、いま地名がのこっていない。 イデリュー(井手流) ・・川沿いにあるためそう呼ばれているらしい。 マエダ(前田) オクノスエ(奥ノ据) カメエビ(亀えび) ・・漢字はくわしくわからないらしい。 ナカハラ(中原) 大曲は他の部落と違って、それぞれの田のしこ名というものがないらしい。そのかわりに昔から番地が振り分けられてあり542番地まである。上のしこ名は、数少ないものであり、田それぞれでなく土地ごとに大まかに分かれてある。しかしこの名を知っている人は今では数人しかいなく、ほとんど亡くなってしまった。 村の用水について 大曲にはため池が三つと川が流れてあり、そこからそれぞれの田に水を送っている。昔からの水利はほとんど使われていない。なぜなら田が果樹園に変わっていることと、田を区画整備したために、昔の水利と大きく変わってしまったからである。 1994年に干伐が起こった時は、このため池と果樹園にあるボーリングでまかなった このボーリングというのは普通の井戸は10メートル掘るのに対して、80メートルから100メートルの地下まで掘って地下水を使うことである。このボーリングは各家庭で飲料水として使ってる。昔の飲料水は湧き水などを使っていたらしい。もし30年前に干ばつが起こっているならばため池のみでまかなわなければならなかったので、被害が大きいだろう。 ため池には水当番というものがあり、ため池の水をそれぞれの田に均等に流し私欲がないようにするためであり田に水を入れる順番もきちんと決まっているらしい。また、水路が市道をはさむためにさいほう式と呼ばれる方法でみずを送っていた。このさいほう式は 下図のように水路が市道(現在の国道)よりも高い位置にある。市道のしたに水を通して 水を上げて水路としている。 村の歴史 昔からあって変わっていない道は、市道で、これは現在の国道202号線である。大曲の人々は、前原、石堂山のあたりでで炭、薪、小枝を取り、他に田で取れた野菜を伊万里や唐津炭坑へ市道を通って売りに出かけていた。衣服などは、伊万里から買っていたらしいが、他のものはほとんど自給自足だった。 馬頭観音堂 大曲の北にある。隣には阿弥陀如来があり年に一度の例祭は八月十日に一緒に行われる。観音堂建立の由来はこの地方を襲った天災にある。大川町保管の野田日記によると下図の災害筆記による 天保元年 冷害 虫害 二年 大洪水 虫害 三年 日でり 四年 大洪水 虫害 大飢饉 日でり 五年 大洪水 虫害 大飢饉 日でり 六年 暴風雨 七年 虫害 大飢饉 八年 虫害 九年 大洪水 以上のように十年続きの天災で収穫は年貢にも足りない。隣接した南波多もこの日記と変わりない。山林原野の狭い大曲の人々の生活は、一段と惨めであった。それでも百姓たちは根気強く来年に希望を抱いて農業に精根を傾けながらも不安は消えない。ついに、大曲でも長老たちの願いを入れて、悪魔退散のため馬頭観音をお祈りすることに決まり、村人総出で天保9年7月10日、阿弥陀堂の横に八尺四面の観音堂が落成。豊前の国から馬頭観音をお迎えして同日盛大なお祭りが行われた。観音様の霊験はあらたかでこの年の秋から、慢性的な災害が収束し、久しぶりに実りの秋を迎えた。観音像は木造、身長40の立像で創建当時のものでたびたび漆の塗り替えがあっているらしい。(本抜粋) 住吉神社 観音堂の境内の東側に住吉神社がある。祭神は上筒男命、中筒男命、底筒男命、水の神様である。本殿は昔は小林哲氏宅の近くの森の中にあったが、昭和の始め水田開発のため、現在地に移された。神社の建立年次は記録もなく、古老たちも知る人はないが、手水鉢には天保6年、鳥居には明治15年世話人筒佐東次、小林円作両氏の名が記されてある。 何にしてもこの神社が大曲村の神様である事は間違いなく、また鳥居も手水鉢も本殿と同時に移されたものである。 感想: バスから降ろされて大曲の区長である小林さんの家に向かった。小林さんの家の前には畑がある。家に行き事情を話すが、この日は神様に田畑の方策を祈る祭りがあるらしく、小林さん本人がいなかった。しかも、大曲のしこ名などは分からないだろうと言われ、ここの地史を書いてある本を見せてもらうだけとなった。ひとまず本だけで調べることにして、書いてあると大曲の昔の地図を見せてもらった。しかしその地図には、番地で区別されていてしこ名などは書いていなかった。何人か知ってそうな老人に電話で聞いてもらったが、やはり知っていなかった。祭りから帰ってきた小林さんに聞くが、祭りでほとんどの人が集まっていて聞いてみたが知らないらしく、あきらめていたが小林さんのお母さんに聞くと知っていたので、少ないが分かった。他にも、昔の生活などもたくさん聞くことができた。話しながら「あんたたちには分からんやろ」と言っていた。それほど時代の違う話だった。しかし、学ぶことはたくさんあった。 櫻井 洋介 佐賀県に行くと聞き、まだ行ったことのなかった僕にとっては未知の世界だったので、いろいろな想像を膨らませていた。佐賀についてみると、その日はとても天気が良かったので気温は35度くらいあったと思う。そして、周りを見てみると民家が所々にあり、あとは田んぼと山と木ばかりだった。こんなところに来たのは久しぶりだったので、少しひいた。パ−トナ−の人と1キロくらい歩いて、目的の家について話を伺うことができた。家の中では冷房がきいててすごく涼しかった。しかも、麦茶まで出してくれて田舎の人は親切だなあと思った。そして、そこのおばあちゃんが畑から帰ってきていろいろと話してくれた。おばあちゃんたちが僕らくらいのころには麦飯や芋ばかり食べていた。彼らが一生懸命作ったお米は売ってお金に変えていたと聞いて昔の苦労が分かった。「あなたたちには想像がつかないだろうね」と言ったおばあちゃんの一言が僕を感動させた。お昼ごろになると、「何かとってあげようか?」と言ってくれたがお昼を持ってきていたので断った。本当に親切にしてくれて人の温かさを知った。目的の調査もうまく行って、今回の現地調査は有意義なものであったと思う。 片村 嘉孝 |