歴史と異文化理解A
 佐賀県伊万里市 現地調査レポート

木幡容子
佐々木英子

調査目的

 失われつつある事柄を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。あわせて昔の暮らしに ついて直に土地のお年寄りからお話を聞き理解を深める。


調査場所

 佐賀県伊万里市井手野地区 一般世帯数127±α 
                文書配付数138    半数12 


お話をうかがった人

 江口強さん 1920年7月24日生まれ
 江口吉正さん 生まれは秘密にされてしまった。(先生と呼ばれていた)
 その他、道でであった人達


井手野村について 

慶長絵図には、大野岳の麓に井手野村の名がでているが、隣接の小麦原、大川原、原屋敷の地名 はない。これは、小麦原、原屋敷などは、一集落であって独立した村ではなかったのであろう。 井手野の地名は新久田四郎から十代目の城主、オサムが地名をとって名を井手孫兵衛と改めた記 録があるので、おおよそ十四世紀頃、既に井手野という地名が存在したことになる。


井手野村「城山」

字新久田にある城跡である。松浦叢書には天歴三年、前田信濃守新久田城を開くと書いてあるが、 信濃守は荘官として派遣されたものか、北面の士として西下したものかは明らかではないが、この 山に舘を建てたことは間違いない。
その後、1150年、松浦久の四男新久田四郎が此処を城に改め、子孫は約400年間続いた。
文録三年、波多三河守親が秀吉の怒りを買い、波多家滅亡、一族である新久田城主、井手飛弾守 も三河守と運命を共にし城はとりつぶされ、今は寂しく空堀だけが昔の面影が残している。


  井手野村「鳥居原」

井手野地内、原屋敷川の河口の左岸一帯を鳥居原という。井手飛弾守が新久田城主になってから、 祖先筒井久が女山及び眉山地方の賊徒討伐の時、戦勝祈願のため古川に建てた白山神社を鳥居原に 移して、所管六ヶ村の鎮守の神とされた。
その後、寺沢志摩守の代、新田開発のため更に宮地に還座されたので、鳥居原の旧境内は水田と なった。


しこ名と小字について

村の人たちは「ら」を「る」、「の」を「ん」と発音していた。

名前の由来  (しこ名) ナガリゴ (流川)
        川の流れが速いことから

       トリゴエ (鳥越)
        人間は越えることができないが、鳥は越えられるような所だから

      ナンゴエ (難越)
       越えることが難しい峠がある

      コウラ (川裏)
       川の裏側にあるから

      ハタミチ (畠道)
       畠の中の道

      ヤリバ
       やじりが出ることから

      シロヤマ(城山)
       昔、中世の頃までここに新久田城があった

   (小字)  キョウノミネ (京の峰)
       この辺りで一番古い地域。お坊さんが埋葬されている

      フカセ (深瀬)
       川が深い瀬をなしていることから。

        「原」が付く名前
  「原」が付く所は、昔から開拓した所である。
・ハラ(ル)ガシラ (原頭)   ・ナッコラ (中川原)    ・マツバル (松原)
・カナシキバル (金敷原)    ・トリイバル (鳥居原)   ・オモテンバル (表原)
・ ウランハル (裏原)


しこ名の位置について

小字「上対(カミコトリ)」のうちに「ヤキヤマ(焼山)」
小字「下対(シモコトリ)」のうちに「ヤリバ」
小字「岩原」のうちに「ナンゴエ(難越)」
小字「松ノ本」のうちに「オモテンダニ(表谷)」
小字「新久田」のうちに「ウランダニ(裏谷)」
小字「鳥居原」、「赤坂」の辺りに「ナガリゴ(流川)」
小字「立石」、「杉ノ本」、「石井手」、「松原」の辺りに「トリゴエ(鳥越)」
小字「深瀬」のうちに「コトウゲ(小峠)」


米の保存について      

大正時代 俵で保存していた。にわに10 〜20俵くらいをつんでいた。自分の家の食料分を残 しておいて、それ以外のものは売って、お金にしていた。
その後、「かます」というものに変わる。俵もかますも60kgくらい積んでいた。 戦後の初めごろから、缶に入れるようになった。この缶はそれぞれの家で大きさが違っていた。 一件一件、もみを入れてまわっていた。
今はライスセンターで、処理をしている。8部落一緒にやっている。

35ヘクタールあった土地は、3回基盤整理をした。
また、28ヘクタールで7ヘクタールの減反政策をした。
基盤整理のとき、いくつかの田んぼをくっつけて大きいものにした。今もまだ小さい田んぼがあ るが、そこは基盤整理のときに合体するのを嫌がった人達の所。

今小学校のあるところや、農協、ふるさと村、果物の出荷場、ファミリーマートのところももと もとは田んぼだった。


草きり場について

ゲンヤと呼んでいる。畑にならないような所をゲンヤにしていた。
百姓の肥料となる山林や堤防のあたりがそうであった。約一ヵ所が4ヘクタールである。
昔は大野岳まで馬を引いて、ゲンヤの草を積み、もって帰っていたらしい。そしてその後、積ん できた草を競売にかけていたそうだ。今も時々お遊びとしてやっているらしい。私達が行ったとき も、お酒を飲んだ人たちが酔っぱらいながらやっていた。(1回100円くらいの安いもの)しかも お酒を飲んでいた人たちにからまれた。 


水路について

井手野には原屋敷川と、徳須恵川が流れていて、昔から水に関してはあまり困らなかったらしい。 また、水のことでほかの地域の人たちとも、争いはなかったそうだ。

川端橋のあたりの松ノ本、杉ノ本のあたりはポンプで水を汲んでいる。
辻の裏橋のあたりの立石の一部はイセキ(漢字がわからない)をして川から出している。今工事 をしている。イセキとは、川の水を塞き止めて水を田んぼに引くこと。ダムの小さくしたようなも のだそうだ。

原屋敷と井手野の境目に中川原下ため池(上ため池もある)がある。ここは原屋敷から水を入れ て溜めてあり、その水を井手野の立石、石井手などが使っている。このあたりは川とため池の両方 から水を手に入れている。中川原ため池は、雨が降らなくても水が溜まっている。また、浅い。 ため池の近くには、水を通すためのトンネルがある。

昔は田んぼから田んぼへ水を引いていたが最近はほとんど水道。


その他、井手野について

南波多小学校(旧京の峰小学校)は今は南波多中学校の隣にあるが、前は京の峰にあった。 今の小学校は二つの学校が合体したものである。

 井手野の東のほうに稲荷神社という神社がある。ここは、地域的には隣の地域で井手野ではない のだが、毎年5万円くらい隣の村に払って、井手野の神社にしている。
ここでは毎年、3月の初め、馬の日と呼ばれている日に「初馬祭」というお祭りがある。村では かなり大事なお祭りらしい。

昔は米が収入源だったが、その後みかんにかわって、今は梨とブドウ、最近は牛肉も収入源。牛 肉は一ヵ所に集まって育てている。米よりも果物や肉のほうが、お金になるらしい。

井手野は今、村おこしの一つとして、モデル事業で色々なことをしている。例えば下水工事。3 部落一緒に今年、または来年に工事が終わり、再来年には水洗便所になる。

 この前、自然保護や環境問題などで優秀な村として、天皇杯で、井手野が表彰されたそうだ。九 州でここだけらしい。(非常に嬉しそうだった。)


行動記録

1998年7月5日(日)8時30分頃出発
朝早くて眠い。しかも天気が良すぎて気温も高い。行く前から疲れた。
約2時間で井手野のふるさと村に着く。約束していた時間は11時だったので時間がまだあった。
住宅地図では江口強さんは南波多小学校の近くに住んでいるようだったので25000分の1の地図 を見ながら南波多小学校を目指して行った。しかし、どう考えても地図が変な気がしたので、人に 聞きながら学校へ行った。
小学校だと思って入ったら、なぜかそこは中学校だった。中学校と小学校は地図ではかなり離れ ていたので道に迷ったのかと思ったが、とりあえず中学生に江口さんの家がどこにあるのか聞いた ら、すぐ近くだった。

11時ちょうどに着いた。江口さんは果物を作っているそうだ。そこで、奥さんにお茶をもらった 後、江口さんが「先生の所へ連れて行こう」といって、江口吉正さんの所へ連れていってくださっ た。(江口強さんの家にとても大きなテレビがあったのには驚いた)
江口吉正さんの家は、とても広く、8人ですんでいる。この家では牛肉を作っているらしい。吉正 さんはかなり年を取っていらっしゃるようで、きちんと言葉がわかるか心配だったが、とてもはっ きりとお話して下さった。

この時解ったのだが、25000分の1の地図は昔のもので、かなり今と違っていた。私達が最初に 目指していた小学校はもう無くなってしまっていた。中学校の隣に、ほかの小学校と合併して移っ たらしい。

昼頃、女性が(たぶん吉正さんの娘)お茶と和菓子とスイカをだしてくれた。ここの村のスイカ は、甘くてとても安い。1個600円は安すぎ。江口さんに福岡では1500円くらいするといったら驚 いていた。

途中で強さんが現在の井手野の地図を持ってきて下さった。それを見ながら私達の地図を修正。 また、吉正さんも井手野についての資料を持ってきて下さった。 
それらをコピーするために、ファミリーマートへ行こうとしたらわざわざ強さんが車で送ってく れた。私達がコピーしている間、強さんは白山神社で集まっていた人たちにしこ名について聞いて 下さっていた。神主さんもいたが、まだ若い人で何も知らなかった。(ここで酔っぱらいにからまれ た。昼まっから飲んでは行けない、と思うのだが)

モデル事業をやっているから、最近はみんな一生懸命働いていて、大変だと言っていた。でもや っぱり嬉しそう。

約3時間、2時頃まで私達に付き合って下さった。
最後に吉正さんが「梨を送ってやる。」といって住所を聞かれた。(嬉しくて、即書いた)本当に 親切な人たちだったと思う。
井手野の人達はいい人が多い。道を尋ねたときも親切に教えてくれたし、中学生がすれ違い際に 挨拶してくれたりもした。

まだ集合までには時間があったので、今は無くなってしまった南波多小学校を見に行った。(結構 遠い)そこにはもう何も無くて、老人の方々がゲートボールをやっていた。「南波多小学校跡地」と いう石碑とお地蔵さんのようなものだけあった。

伊万里市に来るまでは特産物が何かも知らなかった。結構いろいろあったのに驚いた。 ここは非常に暑い。山の中だからきっと涼しいだろうと思っていたのに。
とにかく、井手野はいい所だと思う。福岡の暮らしに慣れているので、何もかもが新鮮だった。 カラスを驚かすための大きな音にはかなりびっくりした。ここにすんでいる人達は慣れているんだ ろうか。

 帰りのバスは疲れて寝ていた。佐賀県は初めて行ったが、全然私達と違う文化がある事が知れて、 よかったとおもう。福岡県のすぐ隣の佐賀県でこれだけ違うのだから、日本のほかの地域も、もっ と違う文化があるのだろうと思った。