歴史と異文化理解A −伊万里市南波多古川(ふるこ)について 神一 優子 後藤 沙智 堤川 万奈美 話者:井上 雪正;1908年生まれ 井上 みえ;1910年生まれ 井上 四郎;1920年生まれ ○村の水利について * 水田の水はため池から引水されている。(山が近くになく、川はあるが小さいため、ため池を多く作った。) * ため池はほとんど個人のもの。(地図に個有と共有のものを示した) * 古川共有のため池は3つ。そのうち烏帽子ため池は全面的に共有のものだが、残り二つはほぼ個人が管理している。(ただし、火事などの緊急時には、自由に使ってよいとされている) * 水争いはなかった。 * 旱魃のときの対処として、ため池の水を利用し、それがなくなったら、手の施しようのなく、田はひからびた。 * 山がないので昔から旱魃には弱い。 * 昭和29年に伊万里市になり、それから、かなりたって水道が引かれるようになった。それまでは、すべて、井戸水を使っていた。井戸水で一番大変だったのは、お風呂の時、熱い湯をうすめるのに、水をたくさんくんでこなければならなかった事である。 * 井戸水は昔、竹をつないだものに、水を流して、水田に利用していた。今は、ビニールホースを利用している。 ○村の耕地について * 特に米がとれる所、とれない所があった。特によくとれたのは、集落沿いの道周辺である。このほとんどは、昔、庄屋の土地だった。 * 70年前から、梨作りが始まり、現在、特に盛んで、古川24世帯のうち21世帯が、梨作りをしている。その他、何世帯かはぶどう作りをしている。 * 傾斜の緩い所は、上平(かみんだら)、下平(しもんだら)、平原(ひらばら)である。 * 田は、湿田であった。(裏作ができない。) * 車が普及し、遠くまで行けるようになって、田の面積も広がった。 * 田んぼでは、化学肥料が入る前、4,5俵くらいとれていたが、品種改良後は、米をたくさんとれる米を作っていたので、最大で10俵くらいとれるときもあった。しかし、現在は、味の良い米を作る事を第一の目的をしているので、それほど多くない。 * 燃料は、昔からまきで、現在も、ガスと併用してまきを使用している。 * 戦前には、人の糞や、馬の糞を畑にほどこしていた。(炭坑の人々の糞も使っていた。)人糞は、かめにおいて数日間さらしてから使っていた。 * また、牛(各家、少なくとも1頭の牛をもっていた。)の糞は、牛の下にわらをひき、たまった堆肥を20日ぐらい発酵させて、肥料にしていた。昔、この辺りは、レンゲ畑で、そのレンゲや野の草花、米のとぎ汁などを餌として、牛に与えていた。 ○ 村の道について * 〜ノウテと呼ばれる道はない。 * 道は、昔と今では、ほとんど変わらない。 * 昔は、かごをかついでとれた野菜を売り、その代わり芋などを仕入れてきた。 * 小学校へ行く道は、地図に記した。昔、小学校まで行く道は4kmだったが、合併して5km先くらいのところになった。5kmからは、バスが出ているので、現在、古川の小学生は、バス通学をしている。 * 中学校は、南波多が統合されるはずだったが、遠くなるということもあり、南波多だけが反対したため、一緒に統合されなかった。しかし、近い将来、統合される可能性はある。 ○米の保存について * 昔、米は俵にして、家に入ってすぐのところに大きな木を二本渡して、五俵くらいまとめておいていた。あるいは、高いところに二十俵くらいまとめ、それをブリキ缶にいれ、二硫化炭素(防虫剤)をいれていた。ねずみは猫を家に2,3匹飼う事で追い払っていた。 ↓<少したって> 薄いトタンで作った丸い入れ物に、米を俵のまま入れ、下に出し口を作り、下から出していた。虫がつくので、虫殺しの薬をまいた。 * 外に売る前の半刃米の保存方法は、現在、かますに米を60kg<ますめで4ト>いれて保存。 ○村の過去について <歴史> ・ 1041年 後朱雀天皇 長久二年 松浦郡(ごおり)に、はびこる豪族平定のため、渡辺綱吉の子 久(ひさし)は、加賀の国(名古屋)一の宮、白山神社を勧請して、古川に祈願所を設立。 ・ 1573年 大内義隆 滅亡 義隆の従弟 義信の第三子 義賢(よしかた)客死 今坂全之丞(ぜんのじょう)に一緒に古川の地に隠小屋として、落下永住する。 * 境塚一件(文政二年) 唐津藩(古川)と鍋島藩(松浦)の争い。 昔は、関所があって村と村の行き来が困難。村の境界線を決めるので争いとなった。 また、唐津藩と鍋島藩は、法がかなり違っていた。(例えば、唐津藩では、村芝居などは一切許されていないなど) ・ 400年前 他の村の人が、自分の村に入ってこないように、庄屋が、化け物屋敷を作った。 ・ 女子谷(おなごだに) ―― 松浦との境 ・ 鬼穴(おにゃや) ―― 大川との境 ・ 終戦後 村の人々と、台湾など海外から帰ってきた人々は、力を合わせて、自給するため、原野や山を開拓して、食料を作った。主に、その開拓地に、畑、五反ぐらいで、かんしょ(芋)、野菜、乳牛をした。 また、その他にも、日雇い人として働く人もいた。 ※10年間だけ、国の援助金がでた。 * 大久保開拓 開拓して20年たてば、その土地は、自分達の土地になった。 古川の人々は20年後、松浦地方の人に高い値段で土地を売った。(平らな場所)そして、現在も松浦の土地の一部になっている。 <人口推移> 昭和27年 古川の人口 最大34世帯 ↓ 平成10年 現在 24世帯(そのうち21世帯が梨作り) ↓ 10年後は三分の一になると村の人は予想する。 ○これからの村について * 経済情勢も傾いている今、梨は贅沢品なので、消費者も減り、梨が生産過剰になり、今後、梨作りは難しくなる。 * 村の人口は三分の一に減る。 * 圃場整備で、田の面積が現在の三分の一になってしまう。 ○村の人の考え * 現在は農村人口が減りつつある。それを防ぐために、人が定年退職した後、年金がおりるが、それプラス、退職した人々を農村に導くというような、何らかの対策をしてはどうだろうか。 ○村の人の取り組み * 現在、昔からの言い伝えや、伝統を忘れないために「昔を語る会」を集い、 20〜30人集まっている。 * 村の人達で、歴史や古くから伝わる物語などを本にしている。 ○つながり * 古川は大川とのつながりが強い。 ・ 大川町の淀姫神社には、古川とカサジ、重橋、谷口という4つの氏子がまつってある。 ・ 南波多では古川だけが天領で、同じ天領である大川と文化が似ていた。 ・ 大川町には、古川の田んぼがあり、現在でも、大川まで行き畑仕事をする人が多い。 ・ 古川の神社で、祭事をする時は、大川の神主を呼ぶ。 ○しこ名 →しこ名はいくつかあるが、古川では、田の事を『大山口(小字)の下の田ん中…』という風に、小字を利用して、おおざっぱに呼ぶ事が多い。 <小字> <私称地名> ・ 城名 ナシノキダニ(梨ノ木谷) ・ 柳谷(ヤナギンダニ) シモンダラ(下平) →平は、多良とあてる事もある 多良:庄屋(大内義隆御兄弟の子)が山口から来て大内家は多々良を名乗っていたため、それをとった。 平:平らでなだらかな所だったから。 ・ 大石ヶ倉 カミンダラ(上平) マルタ(丸田) ナナガゼマチ ・ 佩川 トウボシダ オナゴダニ(女谷) イデゴンゲン(井手権現) オニャニヤ(鬼ノ穴) ヒャーゴ(佩川) ・ 牟田谷 ニタダン ・ 大久保 (※大久保開拓) ミダレバシ(みだれ橋) エザラギ(キ)峠 ・ 大陣岳→勝利谷 オオイシガクラミチ エボシミチ →大陣岳を村の人は枝折山(しおりやま)と呼ぶこともある。ここは昔、姥捨て山だった。 枝折山:息子に捨てられた母親が息子への目印にと、木の枝を折った事から。 ○感想 バスを降りてから、古川までが、こんなに遠いとは思わなかった。 古川の人は、どの人もあたたかく迎えてくれ、とても親切にしていただいたので、とても嬉しかった。 村の人は教授の出している本などを批判していた。農業について出している本でも、村の人から言えば、全くデタラメである事が多いらしい。たまにTVにでて、当たり前のようにして、語っている教授でも、デタラメなことを言っているそうだ。 やはり、どんなに専門について、深く学んでいても、実際に、その物に触れ、そこで生活している人とふれあわなければ、ほんのうわべだけのものしか、つかめないのだと思った。 村のある人は、『目先だけを事実だと思うな!本当の事をみきわめられる人に、なりなさい。』と私たちにいった。これには深く納得させられた。 他にも、『例えば、人がおしゃれするように、"人から見られる自分"ばかりを意識するのではなく、"自分から見る自分"について、もっと意識せよ。』と言われた。 私たちは、これを内面を磨けという意味と受け取った。 このように、村に行って考えさせられたことが多かった。 やはり、古川の人は、古川の人で、苦労が多い分、深く考え、内面を磨いてきたのだなと感心させられた。古川の人と接する事ができて、本当によかったと思う。 |