月曜4限歴史と異文化理解A 現地調査結果報告書

宇佐美 郁代
小出 真司
坂本 夏絵
天満 類子

調査目的:失われつつある事柄を古老から聞き取り、それを記録して後世に残す。
昔の暮らしについてじかに土地のお年寄りからお話を聞き理解を深める。

調査対象:伊万里市南波多町原屋敷
世帯    文書配布数     班数     郵便番号
81     82        7     848―0016

調査協力者: 井手 稔   大正12年
井手 匠   昭和7年
古賀 光雄  大正15年

行動記録:

7月5日、朝8時15分集合のところメンバ−の一人が遅れ気味に来たが、バスはほぼ予定通りに出発した。途中、トイレ休憩が取れなかったので同じバスに乗っていた生徒3人が途中下車し、民家にトイレを借りに行った。
ふれあい村でバスを下車し、早めの昼食をとった。ガソリンスタンドで原屋敷まで行く道を聞き、井手野まで歩いたが、その道は山を超える道だと後で判明した。途方に暮れていると、先に井手野に来ていた生徒2人の紹介で井手野の区長さんに原屋敷のゲ−トボ−ル場まで車で送っていただけることになった。
先に送った手紙で、話をしてくださる人とゲ−トボ−ル場で会う約束になっていた。そこで井手匠さんと古賀光雄さんと出会い、車で各地を見てまわることになった。すいかをごちそうになった。
まず最初に、桑木原と呼ばれるところへ行き、村の水利やサイフンの話や圃場整備計画の話を聞いた。殉国忠魂碑、圃場整備記念碑を見に行った。古賀さんがめがねを取りに帰ったついでに、古場を見て周り、そこでジュ−スをいただいた。次に平古場ため池を見学し、そこでも水利についての説明を受けた。
大野岳に行くことになり、千本桜を通って大野神社を参拝した。夫婦石と山頂を見てまわった後、しこ名を詳しく聞くために公民館に行った。そこですいかやジュ−ス、お菓子などをいただきながら詳しくしこ名や説明を聞いた。
帰りはふれあい村まで区長さんに車で送っていただいた。そこでバスが来るまでその日のことを整理した。


調査内容:

I.しこ名:
それぞれのしこ名、及び何という小字の中にあるのか。
平野の場合
A.田んなか
B.ほり
C.しいど(水道、水路のこと)
D.道、橋
E.井樋(用水やあおの取り入れ口、干拓地では塩止め井樋もある。樋門のこと)
F.堤防

山にある村の場合
A.山や谷(沢の名前)
B.山道や岩や大きな木など目印になるものにつけられた名前
C.草きり場やキイノ(切り野)があったか。
あったとしたら、そこを何と呼んだか、誰の土地だったか(個人のものか入り会い山−共同の土地か)

しこ名(字)表:

由来
地名
エンサブロ

地域(地図参照)
ヒトギレ
豊臣秀吉に追われた古賀三郎右衛門が切られた場所

地域(地図参照)
ナカドオリ
村の中を通る道があるから

地域(地図参照)
ムカエ
川の向こう側にあるから

地域(地図参照)
シロヤマ
出城があったから

地域(地図参照)
ナッコラ


地域(地図参照)
ウマンコネ
馬の骨に似ているから

地域(地図参照)
カマブタ


地域(地図参照)
タカヤマ



カジヤ
昔かじ屋だったから


ウーノンゴンゲンサマ


大野神社
カジヤンマエ
カジヤの前にあるから


ソンウエ
カジヤンマエの上にあるから


カッケダ


イエンシタ
家の下手にあるから


サクランモト


マエダ
家の前にあるから


ヤマンクチ
山の入り口にあるから


ヒアテンハタケ
日の当たりが良いから


ヨコンツジ


スウガンタンミチ


オコンゴ


大野神社の参道

II.村の水利:
A.水田にかかる水はどこから引水されているのか。
川か、ため池か、そして何という井堰(井樋、いかり)から取り入れるのか。

水田への水はほとんどため池からの水に頼っている。特に、原、高尾の田畑は平古場ため池から引き、原屋敷川にぬける水路を利用し、桑木原の田は桜谷の上を通る水路からサイフンと呼ばれる地下水路を利用して採水している。

B.1994年と同じような大干ばつがもし40年前の出来事だったらどうなっていたか。

この村にはため池組合が存在し、平古場ため池(12万トン)を始め、新タメ、ハエの本ため池のすべての水を管理してきた。昭和6年に貯水量12万トンを誇る平古場ため池を完成したのち、水害、干害の被害を受けることがほとんどなくなるだろうと思われていたが、ニジュウハッスイと呼ばれる昭和28年の大水害や、ヨンジュウニスイと呼ばれる大水害、大干害があった。また、1994年の大干ばつも記憶に新しい。
ニジュウハッスイとは、前述の通り昭和28年の大水害であるが、この時川の橋がすべて流れてしまい、復旧には村総出で取りかかったそうである。また、橋の復旧には官山(国有林)の木を払い下げてもらったそうである。ヨンジュウニスイとは、昭和42年にあった大水害、大干害である。この年、まず大水害が起き、そのためすべての苗がだめになってしまい、佐賀県南部(佐賀平野)の方から補植用の苗を譲ってもらって植えたそうである。後に起こる干ばつでは、水争いは存在せず、すべての田が同じくらい水不足ととなるように水を配分したらしい。近年(1994年)の干ばつも同様にため池組合がすべての田で同じ程度水不足となるように水を分配した。


III.村の範囲:

伊万里市南東にある大野岳(427m)の山頂及びその麓一帯。北端を大野岳山頂付近とし、原屋敷川流域及び付近の山間部を含む南端は原屋敷川沿いにある大福寺付近、ただし井手野に一部飛び地がある。


IV.村の耕地:

A.昔この村で特に米がよく取れるところ、逆にあまり取れない田があったか。
また場所によって差があったか。

この村では下の方(低地)は土壌が砂質で扱いやすく、収穫が多い。上の方(高地)は土壌が粘土質で耕作しにくく、収穫は少ないが、米の質は良い。ここの人たちは、南波多の中でも原屋敷の米が一番質が良いと自慢にしていた。

B. 麦が作れる田(裏作ができる田)が乾田、できない田が湿田
それぞれ戦前(化学肥料がはいるまえ)で米は反当何俵か。
良い田、悪い田でどれほどの差があったか。(地図上で確認)

裏作は、大野岳、楠木原は困難であったが、やっていた。その他の土地ではもちろんやっている。

C.化学肥料が入った後ではどうかわったか。戦前は何を肥料にしていたか。

化学肥料(アメリカ式農法)が村に取り入れられると、一反当たりに必要な水の量が増えたというマイナス面もあったが、除草剤のおかげで現在はヒエを抜くだけでよくなり、作業が楽になったそうである。戦前は、リュウワンと呼ばれる各自で調合する化学肥料を使用していた。それ以前は、人糞、家畜の糞、たい肥を使用していた。

D. 山に近い村だったら、入り会い山はあったのか。また、それはどこか。
燃料の薪はどこからとっていたか。

この村には、入り会い山というものが存在せず、すべての土地は私有地であり、薪もそこから取っていた。


V.村の道:

A.昔の隣の村へ行く道はどれか。古い道をどんなものが運ばれてきたのか。

昔の道は、ほとんど現在も残っており、スウガンタンミチなどのしこ名も残っている。また、その道を通って昔は魚、米などが出入りしていたそうだ。魚は花房を通り、黒川から行商がきていたそうだ。米は牛に2俵つんで運び出していたそうである。主要幹線道路伊万里厳木線ができると、それらの出入りも相当楽になったそうである。

B.昔の学校はどれか。

この地区には昔から小学校があり、最近井手野の小学校と合併したそうだ。中学校は、井手野にしかない。


VI.米の保存:

A. 昔、家で食べる分の米はどうやって保存したのか。
鼠や虫の被害はどうやって防いだのか。
外に売ったりする前の米はどうやって保存したのか。

この地区では家で食べる米も外に売る米もブリキ缶(20俵は入る)に入れて保存していたため、虫は発生せず、鼠対策には猫を飼っていたそうだ。
外に売る米の大半は他地区の倉庫に運んで、一括保存していたそうだ。
それ以前の米の保存法については俵につめ、2階(はり)につるしていたらしい。


VII.村の過去:

A.50年前の村では米以外の現金収入(商品作物)はどんなものがあったのか。

昔から、植林業及び炭焼きが盛んで近代まで養蚕、紙すきなどをして現金を手にしていたらしい。


VIII.村のこれから:

昔は90戸ほどあったが、現在では81戸に個数が減り、過疎化が進んでいる。また、若い世代の人が他地区に働きに出ている。つまり、いわゆる三チャン農業をしているところが多いようである。これからは、西九州幹線道路ができ、観光客が増えることが期待できる。


感想:

梅雨明けの絶好のピクニック(?)日和の中、田舎ののどかな風景、人柄、空気にふれ、その土地に関するさまざまな興味深い話を聞くという大変有意義な体験をすることができた。ただ、先方が話してくださる言葉の端々に私たちには知らない単語が含まれていて、話全体の内容が分からないということが度々あったことが惜しく思われた。