歴史と異文化理解Aレポート 佐賀県伊万里市における現地調査 調査者 河野 秀道 熊谷 亮宏 訪問先:伊万里市南波多町府招2077 武野 増見 伊万里市南波多町府招3167 武野 傅 しこ名 地名:ヒラマツ(平松)…………………平松 カマツチ …………………平松 ヒノタニ(樋ノ谷)………………樋の谷 ヨケミチ ………………大原 ハル ………………大原 ドウゲン(道源)…………………道源 クサカリバ …………………桜峠 バンショ(番所)…………………長田 ナガタ(長田) …………………長田 オオサコ(大城)…………………小原 ナカンヒラキ(中ん開き)………小原 トンノスギ(殿の杉) …………小原 ショロンタン(城の谷)…………小原 シンカマ …………………小原 フナンゴ(舟ん川) ……………船川 ヤマガシラ ……………………古道 フルミチ(古道) ………………古道 イケノトウゲ ……………………古道 ヤマンタ ……………………古椎峰 ニイドウ ……………………新道 カマンバ ……………………古椎峰 田畑:ヤマグチ ……………………大原 クボタ ……………………船川 山 :サクラント(桜峠)………………桜峠 ヤケヤマ ……………………長田 道 :トノサマミチ(殿様道)…………古道 その他、大原にはナゴヤンハラ(和ん原)、カヤウラ(香屋浦)、アマドウ(天道)、 セキショ(関所)などがあるらしいが、正式な場所はよく分からなかった。 <主なしこ名の由来> ・ フナンゴ この地域一帯は江戸時代は寺沢氏、小笠原氏が治めており、このフナンゴ(舟ん川)は 上納米の集積地となっていた。そしてここに集まった米を船で唐津へ運んでいた。 ・ トノサマミチ 昔、この道を殿様がとおると言うので行ってみると「下にぃ下にぃ」と申すのではなく 「下ん下ん」と言って通っていたそうです。ということで早くから地べたに土下座して 行列が過ぎ去り、おもむろに顔を上げ、うしろ姿を見れば二丁の籠が通りすぎ追従の武 士が多くどちらが殿様かわからずどちらが殿様だろうかと語っていたそうです。 <村の水利> 村の北部は下樋ノ谷池から、南部は椎峰山から流れる水を利用している。以前は、大原の 田畑の真ん中を川が通っていたが圃場整備によって今の位置に移った。この地域は川の上 流にあるため堀はない。 各家々に井戸があるため、水を求めての大きな争いはなかった。 今から4年前、1994年の水不足では井戸があるため飲み水には困らなかったが、上流 にあるため川は渇水になった。そこで犠牲田こそなかったが、時間給水が行われた。 今から数十年前に水不足があったとしても井戸のおかげであまり状況はかわらないと 思われる。 <村の耕地> 良田と呼ばれる田は水路を埋め立てられた大原周辺にかなり多く、肥料についても昔は、 マヤンコエと言われる牛の糞などを使い、今ではそれに加え化学肥料を使い、より一層の 収穫を得ている。作物は昔は米のほかに菜種、麦などもたくさん作り、中でも麦は米を 100とすると麦は130というたいへん多い割合で作られていた。 共有林に関しては新道のヤマナカや、池ノ峠にあるものを利用している。入り会い山 は現在では複数の人間で所有することが法的に禁じられているため、名義上は個人の所 有ということになっていますが、実際は組合の共同管理ということになっており、見回 りは区長さんがされている。 <米の保存> 米の保存法は、大して特別なことはしておらず収穫した米の一部を種籾として蓄えてお き、その種籾を2年くらい使った後、後は農協から仕入れる。ねずみ対策として、刈っ た米を紐で天井に吊るしてねずみに食べられないようにしている。 <村の過去> 戦争のころは菜種や麦を、ここ十数年は葡萄、なしなどを作って収入としている。 また水道は、昭和55年頃から整備されて平成元年には、整備が完了し、電気もはるか 大正時代後期に、ガスも昭和中頃には完了したそうです。 昔は舟で唐津などに荷物を運んでいましたが、今では国道もできて、水路も無くなりま した。 <村のこれから> 村には、将来的に西九州道路のインターチェンジができる予定です。村としては大変喜 ばしいことであるけれど、そのためには7、8軒の家が立ち退かないといけないという こともあり、一概には喜べないそうです。 昭和25年頃には4600人もあった人口もいまでは3300人と激減しました。しか し、高齢者の割合は20%前後とそれほど高くなく、世代ごとの人口分布もきれいな釣 鐘の型をしており、うまく均衡を取りながらやっているそうです。 <行動記録> 7月4日の朝8時15分に弁当を持って大学の本館前に集まった。晴れていて外はとて も暑く、この先がすこし不安になった。参加者が全員集まり、みんなバスに乗り込み、 大学を8時30分頃に出発した。途中一度トイレ休憩した後、10時30分頃目的地で ある府招上に到着する。道を間違えながらやっとの思いで区長の武野さんの家を探し出 すが、武野さんは仕事に出かけていていなかった。慌てた僕たちは武野さんの奥さんに 僕たちが九大生であること、事前に出したはがきのことを説明すると、相手も理解して くれて、武野さんに電話をして呼び出してもらった。すぐに武野さんは車で駆けつけて くれ、かるい挨拶を交わした後、この村のことについてより詳しい数代前の区長である 武野増見さんのお宅に車でつれていってくれた。事前に武野増見さんに趣旨を説明して くれていたらしく、武野増見さんは快く話を聞いてくれた。僕たちは二人の武野さんに 次々と質問を投げかけたが、そのたびに、やさしく、丁寧に教えてくれた。調査は思い のほかスムーズに進んでいくが、時間が昼食時になったため一度お礼を言うと、外で昼 食をとることにした。炎天下のもと、食事をとるのに適した場所を求めて歩き回り、田 んぼの小道のわきのこかげで食事をとることに決めた。自然の中で食べる食事は大変お いしく、まるで遠足に来たみたいな感じがした。 一時間ほど休憩を取った後、ふたたび武野増見さんのお宅を尋ねた。調査を再開する が、依然としてスムーズに事は進行していった。途中、どくだみ茶や、アイスコーヒー をごちそうになり、その心遣いも大変うれしかった。すべての調査が終わると、僕たち は大変親切で、いやな顔一つせずに最後まで質問に答えてくれた武野さんに厚くお礼を いうと、その場を後にした。 その後、いろんな方を尋ねたが詳しい人はおらず、更なる情報を求め、公民館を訪れ る事にきめた。しかし訪ねてみると閉館しており、しかたなく調査を切り上げ神社で休 憩することにした。境内にすわって休んでいると遠くのほうに別の調査グループの姿が 見えたので彼らの後をついていくと、食堂に入っていくので僕たちもその後に続き、店 に入りかき氷を食べた。そこのお店には、かわいらしい子供がいた。その子のお母さん は、僕たちにその子の面倒を見させてくれた。都会では知らない人間に子供を預けるこ となど考えられないのに、ましてや、その子のかわいらしさといったらこの上ないもの があり、こういう子が育っているこの府招上という町のすばらしさを改めて実感した ひとときであった。 時間になったので、そこの食堂一家に挨拶をして店を出るともと来た場所に戻った。 ここに来る前は正直言って、あまり来ることに前向きではなかったけれど、二人の武野 さんや食堂の人たちなど本当にすばらしい人々とふれあい、すばらしい自然を満喫する 事ができて本当にいい体験ができたと思う。福岡の街で一人暮しをして薄汚れた僕たち の心の洗濯をしたような思い出になるいい一日であった、と帰りのバスの中でしみじみ と思った。 |