松浦町 村分 話者 大正14年11月10日生 草場 正次 昭和 7年8月 3日生 古賀 誠 歴史と異文化理解 12組 学籍番号 大保 雅人 12組 学籍番号 国寄 勝也 しこ名について しこ名とは、地図にも載っていないその地方独特の呼び方である。当地の人々は、どこかに使いに行くとき、誰のところに行くとはいわずに、このしこ名を使ったそうだ。しこ名で呼ばれれば、誰の家か、あるいはどこにあるのかがすぐに分かったようである。
名前の由来
この事を話してくれた草場さんも、このしこ名については、かなりの興味を持っており、松浦町のしこ名の表を作って、後世に伝えようと思っているそうです。 水利について 水田にかかる水はどこから引水されているか? 村分地方は、四太郎溜め池を源流とする提ノ川川、松浦川あるいは黒尾岳川 村分の西にある田は、藤川内川 引水はどのように行われているか? 現在は用水ポンプをもちいてあげられている。ポンプ以前はバケツによる人力であった。みんなで水をとったら効率が悪いので、水当番制という制度を用いた。その当番は2人1組で行われ、彼らが責任をもって水を入れた。 大旱魃について 1994年に大旱魃があった。これ以前にも大旱魃があったが、1994年の旱魃の方が規模が大きかった。原因は大型台風17、19号によるものだった。松浦川のだいこく遺跡に、水が2、3メートル溜まっていたが、それがなくなってしまった。四太郎溜め池をはじめ、ほとんどの溜め池がひからびてしまった。そのため上水道は時間給水になってしまった。時間給水とは、時間によって水を分けていく方法で、朝、夕方など水を多く使う時間帯だけ、水を使うことができた。それでも少しは水が溜まる遺跡があったので、水をポンプで引き上げた。そのためいたるところにポンプがあり、水の取り合いとなった。 しかし、旱魃の年はかえって豊作になるらしい。少しかわいとる方がいいらしい。でもやはり、小さい稲のうちにポンプで水が届かなかったところはかれてしまい、旱魃の影響を受けてしまった。 <感想> 旱魃の時は不作だと思ってしまいがちだが、かえって豊作である事が分かり、その意外性に激しい衝動を受けた。 四太郎溜め池、つまりこの地域の水源は、岳坂の区長によって委ねられていた。1994年の大旱魃のときに火事が起こった。四太郎溜め池は区ごとに分けられていたので勝手に使うことができなかった。でも相談した結果、その火事のためにこの四太郎溜め池を使うことができた。このときも四太郎溜め池が大活躍した。この地域の歴史を語るうえで、四太郎溜め池はなくてはならないものである。 また、旱魃のときには雨を降らせる儀式があるそうだ。その儀式の名は牛洗い。石で牛のかたどりをし、木で角を作ってある牛を竹の柵で囲む。その近くに小屋を作って3日間その小屋にこもって、儀式が行われる。その儀式の内容は、山伏2人その地域の人々が柵の周りに集まる。山伏2人に酒をかけた後、牛に3石3斗3升3合(ビールビン333本)かけた後、するめをたわし代わりにして擦る。その後、騒ぎ楽しむそうだ。 溜め池について たくさんある溜め池は、田んぼの水のために存在していたが、戦後は、鯉をそこで飼っている。溜め池は個人所有でなかったので、競売で誰の溜め池になるか決まった。 村の過去 山から家庭用の燃料を持ってきた、電気が通るようになっても、電球がつく程度の電気しか使うことができなかった。薪でないと、ご飯を炊いたり、暖を取ったり、風呂をたくことができなかった。電気がきてもランプ暮らしの家がほとんどだった。 燃料節約のため、個人で風呂を持っていても(多くの人は持ってなかった)、共同浴場にいっていた。何日に1回、風呂当番があった。 昔、松がとても多かったので、松茸がよく取れた。そのため戦前、遠くに住んでいる人が遠くからバスや汽車でここまで来て、松茸をとっていった。 福岡県にある炭坑を支えるものは松なので、よくここから松を炭坑の場所へ運んだ。航空機などの燃料は松ノ木の油から取れた。そのため、松はほとんどなくなってしまった。そのかわりに、杉やひのきが増え、その職人も増えた。だから、松がなくても松原という地名が存在するのだ。 昔はレンゲ草や普通の草を刈って、それを田に埋めて肥料にした。現在は化学肥料だけである。 今はどこでも、米を精米にすることができるが、昔は精米にするために、時間がかかった。まず松をくり貫き、石の上に行きその中に水が自然に入るようにする。ある程度の時間が経ち、松の片方に水が溜まってきたら、その重みで松は勢いをつけて傾く。その傾いたときにちょうどあたるように米を置く。つまりわかりやすくいえば、しし脅しの原理と同じである。しかし、松の切り抜く部分が中心近くであるというのが、しし脅しと違うところである。これを一晩中続ければ、ぬかもとれ、精米になる。 昔のこの地方の人は、わらを加工したむしろ、ろうそく、竹細工、海産物、おこし、あめがたなどを売ってくらしていた。おこしとは、米に砂糖などを付け加えてお菓子にしたもので、あめがたとは、あめを細長く加工したものである。養蚕の盛んな時期も合った。包装するのはわらであった。 おこしやあめがたは、炭坑の町へ売りに行った。もちろん、この時代は運ぶ手段がなかったので、天秤棒を担いで運んだ。 米の保存方法 米は主に、大きなかめの中に入れた。そうすることにより、ねずみの害も防ぐことができた。また、玄関のうえに材木をならべておき、そこの上に米を置いた。ねずみがきたら、音がするためすぐ分かる。また、玄関は涼しいので、米の保存にもってこいだった。 村の道 薬屋はほとんどなかったが、酒屋があったので、酒を買いによく行った山道は、酒買いの道、あるいはしょうちゅうの道と呼ばれた。小学校へは、大正時代に作られたまっすぐの道を進んで通っていた。 村のこれから
調査を終えての感想 しこ名について調査して、しこ名一つ一つが意味を持っていて、そこから見えてくる歴 史的背景、昔の人たちのその土地に対しての愛着というか、強い思い入れとでもいうの か、そういうものに触れて自分たちは何か考えさせられてしまうところがありました。 しこ名が忘れ去られてしまうということは、その時代を生きた人びとの証とでもいうべ くものが、部分的とはいえ消えてしまうことを意味します。例えて言うとすれば、小学 校時代の卒業アルバムがどこにもない、それほど、寂しいことなのです(例えが下手で 伝わらないかもしれませんが…)。草場さん、古賀さんたちは、しこ名を残そうとして いらっしゃるそうで、それは、本当にすばらしいことで、こういった方々の思いが歴史 を繋いでいっていらっしゃるのだと思いまた考えさせられてしまった。 今回の調査を行うまで歴史なんてどうでもいい、過去にこだわっていてどうするという ような考えが頭のどこかにあったのだが、今回の調査を進めてゆき、部分的なものでは あるのだが歴史に触れてゆくうちに少しづつ変わってゆきました。仮に、過去の一部分 が消えてしまったとしたら、今の自分たちというのは、とても不確かな存在になるわけで 、自分たちの存在を確かめるという意味においても歴史を理解することは大切なことだ と思います。歴史を理解するということは、別に過去にこだわるというこではなく、過 去に築いたものの上に立っていることを確認することであって、それは現在を考えてゆ くにも、未来を考えてゆくにも必要なことだと思いました。また例えて申し訳ないので すが、相撲はひとりじゃできないぞというのはどうでしょうか。相撲というのは、二人 が土俵にたって、ぶつかり合って始まるのであって、たった1人で土俵に立っていても 、その人は、何かはするだろうけど、いづれ行き詰まって途方に暮れることでしょう。 それと同じ事で、現在も過去があってこそ発展するものだと思うのです。 全く世代の違う方と話をしてみて分かったことがあります。ひとつに、お年寄りは、 自分たちが思っていたほど若者世代に失望などしてなく、それどころか大きな期待を持 っていらっしゃったということです。もうひとつに、世代間ギャップというのは確かに あるけれど、それぞれの根底にあるものは変わらない、対話すること、つまり、歴史を 理解することで少しづつであるかもしれないが、埋まっていくものであるということで す(完全に埋まることはないだろうし…、埋ってもいけないような気もします)。 いろいろ書いてきましたが、普段あまり使ってない頭を振り絞ったもので今回の趣旨 と、かけ離れててはいけないので最後にまとめたいと思います。田舎の喉かな田園風景、 そのなかで暮らす人々の温もり。そして、ご馳走していただいた田舎の昼飯の美味し さ。歴史の理解は、これに尽きると思います。 |