歴史と異文化理解A レポート

担当教官 服部


月曜日 4時間目


調査地

佐賀県伊万里市松浦町桃川下分
戸数 164戸 住民 約500人


調査日

1998年7月5日 日曜


調査者

S1−15 松木 充尚
S1−15 丸山 貴大


話者

中野 武義 大正6年 12月19日 生まれ


制作環境

自作AT互換機、K−6 233MHz、32×CD−ROM、2MODE FDD、 2.1GB HDD、32MBEDO−RAM、WINDOWS95、 MS−WORD97


1,1日の行動記録

10:45 伊藤さん宅に到着 調査開始
11:00 話者の中野さん来る
12:00 伊藤さんの案内で、成富兵庫用水を見に行く
12:30 伊藤さんと昼食をとる
13:00 再び調査開始
15:10 伊藤さん宅を出る
15:30 近くに神社発見 神主さんを探すが発見できず
15:40 田んぼで働いている人に聞いてまわる 調査終了


2,しこ名について

まず始めに、私たちは下分の区長である伊藤さんのお宅を訪ね、行政区画の地図や小字などが書かれている資料を見せていただいた後、前もって用意していた地図を見せながら“しこ名”について聞いてみたが、“しこ名”という言葉自体通じなかった。そこで、普段使っているたんなかの呼び方を聞いてみたが、伊藤さんも中野さんも、下に示した字名で呼んでいるとのことでした。その後も、もっと細かい呼び方はないか聞いてみたが、結果は同じだった。
話を聞いてみると、地元の人たちは圃場整備後も以前の小字をそのまま使っていて、一枚一枚の田んぼを区別するときには“十兵衛裏の2番”というふうに、“小字+番号”で呼んでいるそうだ。すこしたって中野 武義さんという昔教師をしてらした人にも聞いてみたが、同じ答えが返ってきた。
この後にも外で作業されていた農家の人数人に聞いてみたところ、それらしい答えはありませんでした。結局そうなんだと納得して調査を終了してしまったが、他のペアでは聞き出しに成功したところもあったようなのでもう少し強引にすればよかったかな、と残念に思う。


・小字

ヒラタ(平田) タッチュウヤマ(舘中山) タカオ(高尾) スガムタ(菅牟田)
シュクウラ(宿浦)ダイコウジ(大光寺) ジュウベイウラ(十兵衛裏) ウシロタ(後田)
テラノモト(寺ノ元) ドウヤマ(堂山) ナカジマ(中島) フルミヤ(古宮)
ハッタンガク(八反角) ヒノクチ(樋ノ口) ヒラタ(平田) イワンモト(射場元)
ニホンマツ(二本松) ガンゼ(雁瀬) ヤナバ(屋南場) ナカヤマ(中山)


3、小字の名前の由来

現在の小字は、もともと昔の人たちが呼んでいた呼び方に当て字をしたものだそうだ。また、フルミヤ(古宮)の名前の由来は、昔お宮があったことからつけられたらしい。そして、その後お宮を取り壊す際に鳥居を側を流れている松浦川に沈めていたが、四年前の大旱魃の時に松浦川が干上がってしまいそのお宮の鳥居が川底から姿を見せたらしく、村の人もとても驚いたそうだ。


4、水路について

分地区で使っている農作業用水は、9割が松浦川から引いている成富兵庫という用水から得ていて、 残り一割は後田上・下溜池や堂山上・下溜池、古場田溜池、上原溜池などから引いている。
また、宿浦の横を用水路が通っているが土地が宿浦の方が高いため、利用することが出来ず、宿裏では、後田上・下溜池の水を使っている。さらに、菅牟田・瓶山では、用水路の水の他にも堂山上・下溜め池の水も利用している。そして、高尾では古場田溜池、堂山上・下溜池の水を利用している。


5、成富兵庫用水について

元々下分を含む桃川村地方は山際であったため、地面が高く川の水位が低かったので農業用水の確保が難しく、大変苦労していた。そのため、成富兵庫茂安という人物は当時の代官中野神右衛門といっしょに上流から水を引いてきてこの土地に安定した農業用水を供給しようと考えた。
まず、2キロほど上流にある本部村というところに井出を作り水を分けて水道を開いた。しかし、ここから下分まで用水を引くにはU字型になっている川を横切らなくてはならない。そこで茂安はサイホン式という水路を川の下に通す方法をとった。これは馬頭といって、慶長16年辛亥の春に完成し、


底桶:大桶32本、小桶32本

立桶:東・大6本、小7本
   西・大12本、小14本

大馬桶口の外法:管渡り 一尺四寸
        内法 一尺二寸
        外法 四尺二寸

但し桶板の厚さ:一寸二分

などの材料を使い、川幅16間の下を長さ15間幅6間の水路が通っている。大馬とは下分用水のもの、小馬とは上原用水のもので、後に大筒、小筒と記録されている。
当時はまだ江戸時代であったので桶の材質も当然ながら木である。川底に埋めた木製のパイプは年月とともに不朽する、洪水で流失するなどしてたびたび早急な復旧工事を必要とした。なぜなら、下分地区はこの用水でほとんどの水を補っているので、早く修理しないと水田が枯死してしまうからだ。そのため、代えの桶をつねに一定量確保しておかなければならず、その度に大量の人手と資金がかかった。村の生命であった水利が一年おきに修理が必要とあっては村も安定せず、腐食や水害に悩まされない永久的な設備は村民一同の悲願であった。
そして明治22年に右桶竹輪を電信針金の輪にかえ、翌明治23年に川底16間のパイプを交換・補強した。必要な資金は

請負金 : 780円
その他費用: 720円
合計 :1500円

昭和50年当時の金額にして580万円かかっている。今ならもっと高いだろう。
その後、昭和2年に工事費3000円(現在の一億円相当)で鉄筋コンクリート作りの近代的な方法で作り直されることになり、翌3年に村民の悲願だった天災に左右されない丈夫な水路が完成した。


6、成富兵庫用水の分配

慶長16年辛亥の春に完成したこの用水は、下分、上原、東分の三部落に分配されることになった。まず井出と馬頭の間の分場で東分とその他二つに分けられ、そのあと、馬頭を越えたところの分場で残りの下分、上原の分がわかれる。それぞれの量は、用水の幅を木のしきりで仕切られている。またそれらの水路の幅は、水路に対して正確に決められていて、

東分:二尺五分
下分:四尺六寸
上原:一尺九寸

となっている。作られた当時、一部の心無い人が少しでも自分達の村に水を多く引こうとして、木の仕切りを削ったり、ずらしたりしたりしていろいろ問題が起こった。また、下分地区に伸びている水路は、上原地区を通っているので、もし天災などで上原地区にある下分地区の水路が壊されても修理する責任があるのは上原地区の人なので、それでまた問題が起こっていた。そのため、今はコンクリートで固めて丈夫に造り直されているのでそういう小細工はできなくなっている。


7、溜め池の利用

溜め池がなぜ作られたのかというと、先に述べた馬頭が流失したりして使えなくなったときに非常用の桶を格納する小屋を準備していても、修理には少なくとも十日間を要すらしい。その非常用とさらに多くの開田をするために築かれた溜め池と考えられる。
下分地区に水を供給している溜め池のうち、下分地区内にあるのは後田、堂山も2つで、それぞれ“後田上”、“後田下”というふうに上下に分かれているのをまとめて後田というようである。後田の方は天祥14年(1586年)に作られ歴史も古い。堂山の方は作られた年ははっきりとはわからないが、明治時代あたりに作られたそうで、両方とも今でも使われている。
ほかの地区にある溜め池で、下分に水を供給しているのは古場田と上原の二つである。古場田は天保9年(1839年)に作られ、池の周囲が100間あるそうだ。上原の方は馬頭と同じくらい歴史が古く、馬頭完成から五年後の元和2年(1616年)に完成した。この溜め池は下分、東分、上原の三方共同で構築したもので、それぞれの権利が入り会っている。つまり、下分は水利権を、東分は養魚権を、地元の上原は当時もっとも有利な堤防上の草刈権が与えられて現在にいたっている。なぜ草刈権がもっとも有利なのかというと、刈った草をつかって肥料にし、田んぼにまけるからである。しかし現在では、下分は論外として、東分は今日数百万円の養魚の権利金が入るが、上原はかすかの草代のみである。
溜め池と水路の田んぼを見分けるには、土地の高さですぐ分かる。水路は土地の低い方を潤し、溜め池は水路の水が上がっていかないような少し土地の高いところに水を供給している。


8,調査を終えての感想

松木 充尚

行ってみてまず最初に思ったことは、やっぱり佐賀は遠かったということです。直線距離で行くと八代とどちらが遠いでしょうか...。そして伊万里市下分につくとさらにすごいことにバスが一日10本ほどしか通っていないことがわかりました。とにかく、この佐賀行きには最初から不満だったのでかなりやる気が無かったのですが、いざ伊藤さんちに着いてみるとみんな結構親切でなんか生まれ故郷を思い出してしまいました。お茶出してくれたりジュースだしてくれたりして、普段コンクリートジャングルに住んでいるので忘れていましたが、自分はやっぱり田舎者なんだ、老後は人里はなれたところがいいな、と再認識しました。私の里の家のとなりにも田んぼがあって毎晩牛蛙がうるさくて眠れなかったのも今では懐かしいです。あと反対側には川があってジャンボタニシがいっぱいいたけどフナとかアメリカザリガニとかもいっぱいいて結構楽しかったんですよ。熊本から帰るといつのまにか無くなってましたけどね。それに自分の畑も持っていて、にんじんとジャガイモを育てていました。今ではどうなっているやら。関係無い話でしたが、今回の調査では主な調査目的である“しこ名”が調べられなくて残念でした。やはり最大の敗因は話者である中野さんが町内ミニバレーボール大会で途中退場してしまったことでしょう。事前に連絡はしていましたが行事と重なるとおしまいですね。それはともかく、私はのんびりした気分になれてよかったと思います。酷暑と休日でなければですが....


丸山 貴大

今回、歴史と異文化Aの現地調査として、佐賀県伊万里市松浦町桃川下分を調べることになり、下分の区長さんである伊藤義和さん宅を訪ね、村のたんなかにつけられていた しこ名 についてお聞きしましたが、残念ながら伊藤さんの知る限りでは知らないということでした。伊藤さんは、建設会社を経営されているそうで、昔は田んぼを持っていたそうですが、たんなかは字名で呼んでいるということで、しこ名に関しては調べることができませんでした。この点に関しては、自分たちの聞き方のまずさや、予備調査の甘さが原因だったと思います。せっかく佐賀まで行ったのに、一番の重要事項であった しこ名 について調べられなかったのは残念ですが、突然押しかけた僕たちを、笑顔で温かく迎えてくださった村の人たちの人柄に触れることができたことに関しては、今後の人生の中で、とてもプラスになったと思います。また、今回調査した松浦町では、現在、町史の作成に取り組んでいるそうですが、その町史の下分の担当者のお話にも しこ名 に関しては出てこなかったので、しこ名が村の人たちの頭から消えてしまう前に調査できなかったのが、余計に残念です。ただ、現地の人たちが使わなくなったことをわざわざ調べて記録しておくことが、本当に意味があるのかどうか、現地の人に接してみて、そんな考えがふと頭の中に浮かびました。確かに、学術的には重要かもしれないし、またそれが大学などの役目なのかもしれませんが、人として、その点に関しては、疑問が残りました。