松浦町桃川


<しこ名一覧>

田畑編
 情報提供者:斎藤英敏さん夫妻他(70歳前後と思われる)
・ガンゼ(雁瀬)ジュウベイガウラ(十兵ヶ浦)シュクウラ(宿浦)ナカ  ヤマ(中山)タッチュウヤマ(館中山)などさまざまなしこ名と思われた地名を教えていただいたが、後でよく調べてみるとこれらあの名前は  すべて小字名であることがわかった。しかしそれぞれがせまい地域をさすので、本当にしこ名があるのか疑問に思えた。

その他編
 情報提供者:米田道夫さん(大正八年生まれ78歳)とその息子さん
小字 館中山のうち
   カメイシ(瓶石):原口久郎さん宅を特にこの名前で呼んでいるらしい。
小字 大光寺のうち 
   シーケーゴー(椎池川):このあたりを流れる用水路の名前。
小字 管谷のうち
   キャンクビ(貝ノ首):広い道が狭くなっていくところをこう呼んだ。詳しくは別紙
小字 大藤のうち
   ジッケダニ(十ヶ谷):由来不明。
小字 幸平のうち 
   ダントウ(断塔):昔この場所が首を切る処刑場だったためにこの名前がついたらしい。 

  
<小字 瓶山について>

 昔この地域に連れてこられた朝鮮の人が村の人達にカメ(瓶)を焼く技術を伝え、ここで瓶を焼くようになりこの地域の名前になった。


<地名の発音について> 

 この地方はそれほど長い歴史はもっていない。大昔に朝鮮半島からの渡来人が多く移り住んできていたそうで、そのため地域の名前の発音にはそれらしい音が残っている。始めはその音に対して中国から入ってきた漢字を当て字として用いていたが、今ではその漢字を普通の日本語の発音で読むようになり、昔ながらの発音を使う人が減ってきている。


<水利について>

 この地方の水利において最も重要なのは馬頭(ウマンカシラ)であろう。この馬頭は水位の低い松浦川から付近の耕地に揚水するための設備で成富兵庫(ナリトミヒョウゴ)の設計により慶長16(1611)年につくられた。馬頭がつくられる以前は耕地はもっぱら谷間を利用した溜め池の灌漑によるもだったので、ちょうど今の北野(キタンノ)のような山間部から先に人は住み始めたという。
 また馬頭について特に触れなければいけないのはそのユニークな構造だろう。サイフォン方式と呼ばれる珍しい方法で水を揚げている。前にも述べたとおり松浦川の水面は(上原(ウワバー)のあたりで)数メートル低いところにあるためそこから直接水を揚げるのは非常に困難である。そこで上流部で湾曲するこの川の地形を利用して、井手(井堰)の位置を対岸の上流部にとりそこから取り入れた水を松浦川(下流部)の下に通したサイフォンで立体交差させ、上原のほうまで流すという方法をとった(とれた?)。
 サイフォンは大小2つつくられ、それぞれ耕地面積の異なる2つの地域を受け持っているが、その構造は意外と簡単でU字型にした水路を鉛直方向につくり上流の井手から水を落としその勢いで水を揚げるというもの(上流立ち上がりは下流立ち上がりの2倍の長さがあるので実際にはJ字型)である。素材は現在(1928〜)はコンクリート管が使われているが、昔は50個ほどの桶をつないだものを使っていたそうだ。  馬頭から揚げられ下分へと送られる水は上原で観音川と交差する。そこで川を避けるために戸樋をつくったこれは椎池川(シーケーゴー)と呼ばれそのまま地名にもなっている。


<道について>

 この地方(佐賀あたり)では大きな道のことを往環(オウカン)というらしい。桃川にもこの往環がほぼ東西に通っている。往環は主に江戸時代の参勤交代に使われていたものであるが、かの伊能忠敬も往環に沿って後田峠から下分へ抜けたと日記に記している(米田さんがお持ちの日記の写しによる)。
 別紙の資料にもあるが道が広いところから狭くなっていくところのことを貝ノ首(キャンクビ)といい、それはそのまま地名にもなっている。
 他に上原の人が昔学校にいく時に使っていた道は城山の谷と呼ばれていた。


<米の保存について>

 これも米田さんの話によるのだけれど、昔は米を脱穀したあとは、米俵(叺=カマス)に入れ、天井の梁のようなところから紐でつるして保存していたらしい。それは主に湿気防止のためであったが(害虫から避けるのにも少し役立っていたみたい)、ネズミの被害は避けられなかった。そこで農家の人は天井に向かって縄を巻いた木を取り付けてネコ用の階段つくりネズミを食べてもらったそうだ。まるでトムとジェリーの世界だ。「昔の猫は腹がへっとたんよ」とおっしゃっていた。また、脱穀せずに保存するようなことはなかったそうだ。


<松尾姓について>

桃川地区の住宅地図を眺めると異常なほど松尾さんが多いことに気付く。僕らは出発前から気になっていたので由来を聞いてみた。「もともと鍋島藩に仕えていた後藤純明(スミアキラ)の末子、貴明(タカアキラ)の義弟、松尾周防守近明が桃川を領地にしたことに始まる」簡単にいうとこういうことらしい


<米田さんについて>

 区長さんの話ではその日このあたりの二十名近くでバレーボール大会を開いておりその後公民館で開かれる打ち上げに参加してはどうかということであった。僕たちはそのバレーボールの会場に行けばたくさんの情報が得られると思い、その会場を目指した。  途中のコンビにによってみると「そんなバレーボール大会に出るような若僧よりももっとこのへんのことに詳しい人を紹介してやる」とそのコンビにの店長らしきおじさんが教えてくれた。僕らはなるほどと思いその詳しい人の家を教えてもらった。その人は米田さんといい、コンビにからすぐ近くに住んでいた。
 その米田さんのお宅に伺うと50歳くらいのおじさんが上半身裸で出迎えてくれた(実はこの人は息子さん)玄関でお話しを伺っていると置くから下着姿でおじいさんが出てきた。おじいさんのもう一人の息子さんが九大卒で、僕らが九大から来たことを知るととても親切にしてくれた(すいかと麦茶をいただいた)。米田さんはこの地方の古い文献を次から次に奥から引っぱり出してきては僕らの質問に答えてくれ、貴重な史料をコピーさせてくれた。そしてさらに原口静雄さんというこのあたりの地域調査をしていた人(2.3年前に亡くなっていた)の著書である「桃川誌」と呼ばれる本の全ページをコピーした史料をくれた。この本には主に水利のことが詳しく書かれており、また、正確な小字名の書かれた地図も折り込まれていて、レポートを書く上でとても参考になった。