歴史と異文化理解Aレポート S1−15 山根 裕樹 松浦町山形久良木 はじめに 私が今回現地調査のため訪れた伊万里市松浦町山形久良木という所の第1印象は、自分の実家のような感じがしたということだ。最初にバスから降りてまわりを見まわしたとき、自分の故郷とかさなる風景を見つけると、妙に懐かしさがわいてきた。田があり、川があり、緑があり、鉄道は私の所にはないが、似たような所ばかりを発見した。しかし、今、この町も近代化の波がやってきていることがしみでていた。今回の現地調査の目的である村の記録を残すことは、たいへん重要であることを実感した。 1.話者 原口 武 昭和10年生まれ 住所 山形6210番地 久良木区長 原 大正10年生まれ 2. しこ名一覧
しこ名について この地区のしこ名は、そのほとんどが現在小字となっていることにきづく。その範囲は、現在とはだいぶ異なっている。この地区で使われていたしこ名が他の地区で現在小字として使われているものもある。このことから、久良木地区は、他の地区よりも権力的なものが強かったのではないかと思う。 '水田について' この久良木地区では、昭和49年から63年にかけて県営圃場整備事業がすでに行われていた。したがって、今回この地区を訪れたときには、すべての田は、約3反にされていた。この整備事業以前の田の様子が知りたかったため、原さんに聞いてみると、久良木地区の地図を見せていただいた。その地図の田の様子は、今と比べ物にならないくらいに複雑だった。1つの田は、1反かそれに満たないくらいであぜ道もかなり複雑だった。現在の地図とはまったく別の所だと感じるほどだった。原さんの話によると、やはり、機械化の波の影響が強かったということだ。 さらに、近年になって減反政策も行われてきた。せっかく圃場整備によってよい田ができたにもかかわらず、減反の影響のため米を作ることができなくなり、今ではただ雑草だけが生えているのを自分の目で確かめた。聞くところによると、県からの援助を受けて畑にもできるらしいが、いまだに何にも使われていない土地があるとはどういうことなのだろうか。やはり、お金の問題がありそうだ。 '稲作について' 今ではすでに、この久良木地区も1つの田も広くなり、トラクターなどの大型機械が使用されているが、昔のことを尋ねてみると、どの家にも牛や馬を飼っていたという。その牛や馬を利用して田畑を耕していたということだ。さらに、肥料についても牛や馬の糞そして、人糞を利用していた。そのためかもしれないが、ウンカなどの害虫にはたびたび被害を受け米がほとんど取れない時期があったそうだ。しかし現在では、化学肥料によってそのような害虫の被害も少なくなり、雑草もなくなり、取る手間が省けたそうだ。。こういう意味で、一概に化学肥料が悪いということは言えないと思う。 また、田植えや稲刈りの時期では、1つ1つ手作業だったため時間も人手もかなりかかったが、機械の導入によりずいぶん楽になったというのが正直なところのようだ。 3.村の水利 ・黒尾岳川 餅田堰 大井手堰 ・ 木和田池 '黒尾岳川' この川が久良木地区の最も主流の川であり、水田にとって最も重要な水源となる。久良木地区にはこの川の堰が2つあり、それが、餅田堰と大井手堰である。この2つの堰でそれぞれ水を堰きとめ、水を溜めて、それぞれの田に送っているのである。 この川も昭和49年から63年までの県営圃場整備事業によって川幅を広げられ土手も整備された。昔の原形と比べてみて、一目でその違いが分かった。少し川筋も変えられていた。現在の川を覗いてみて魚たちの姿を見て、ほっとした。 '木和田池' この溜め池は、松浦町最大の池で、非常時用の水源として利用されている。この池には常に5万トンの水量が確保されている。また、この池は久良木地区のものであり、他の地区では使われないことになっている。 1994年、今から4年前の大旱魃では、黒尾岳川の水が枯れて水に困ったとき、久良木では、木和田池の水によって乗り切ったそうだ。この時、他の地区では水に困り、その年に米がとれなかったところがあるらしい。どうして他の地区に使われなかったのだろうと思い尋ねてみると、昔からの村の取り決めのようらしい。 実際にその場所に行ってみた。すると、自分が思っていたよりもずっと大きかった。今もなお、非常時のために水は満たされていて、汲み上げの装置もしっかりとしていた。 4.村の範囲 北:松浦梨場を北側と南側に分ける道。特に名前無し。 (北側:藤川内地区 南側:久良木地区) 南:黒尾岳川 東:藤川内川 西:木和田池 5.村の耕地 '松浦梨' 久良木地区では、水田以外では山を越えた北側に梨園がある。この梨園は、昭和49年から55年の間、ちょうど県営圃場整備事業と重なって作られた。それまでちょうどその範囲には、畑が多かったようだ。そのためかどうかはわからないが、育ちが良くて、梨の三水が作られている。害としては、カラスによる被害が最も多く、それ以外には、イノシシによる被害が多いようだ。 また、藤川内地区側にあるのだが、松浦梨選果場というところで久良木地区の梨も型の大きさによって仕分けされている。(S,M,Lなどに仕分けされる。) 残念ながら、今回行ったときにはまださほど大きくはなく食べることはできなかった。秋が収穫時期であるそうだ。 '畑' 現在、この久良木地区では、畑があるが、その数は少なく大きくもない。とれるものも特にかわったものもない。見た限りでは、なすびやトウモロコシなどが見受けられた。やはり、梨園の影響であり、それが作られる以前にはそこでいろいろな野菜が作られていたそうだ。主に芋類が多く、タバコも作られていたそうだ。 また、この地区を見回ったときにひまわり畑を梨園のところと民家の近くで見つけた。美しく咲いていた。 6.村の過去 村の過去については、原さんにだいたい戦時中の話をうかがった。 食生活については、主食としては、しっかりと米をたべることができ、その他には、稗を食べていたそうだ。おかずは、わらびや漬物をご飯と一緒に食べていた。おやつは、親が山からとってきた山いちごや山芋を非常に喜んで食べていたとうれしそうに話してくれた。これを聞いて予想外だったのが米を食べていたことだった。この時代は、主に粟や稗の方が多いと思っていたからである。 また他には、学校の遠足のことを話してくれた。遠足というか行事の一種で近くの八天山という山に登ったそうだ。肩に日の丸のおにぎりをもって登ったそうだ。 ホタルについての話もしてくれた。昔は黒尾岳川のほとりに夏になるとたくさんのホタルが光を放っていたそうだ。そのホタルを取ってわらで作った籠に入れその明かりを利用していたそうだ。しかし、現在では、もはやその姿も見られない。この地区にも環境汚染というものの影響が侵攻していたためだ。その原因は、家庭排水によるのもが主だという。洗剤などを使いその水を川に直接垂れ流したため、川が汚れホタルがいなくなってしまったのだ。このことは私にとっても非常に残念であった。私の故郷にもホタルがいたが、現在では、なかなか見うけることができなくなったし、ホタルに限らず、カブトムシなどの昆虫の姿も同様である。家庭排水については、一人一人が気をつけるしかないので、みんなで守って欲しいと思う。 7.村に関するその他の事 寺社関係 乙姫大明神 久良木地区で最も大きい神。 阿弥陀 乙姫大明神の近くにある。 何らかの文字が刻み込まれているが、何が書かれているかわからない。 八天宮 現在、久良木地区公民館前に移築されたが、それ以前は、黒尾岳川沿いにあった。 水に関する守り神? 地蔵 池田辰吉氏が寄贈。 死者の弔いのため。 8.村のこれから 久良木地区の主道が、久良木の民家が集まっているその前の道(特に呼び名はない)から、川沿いの主要道伊万里多久線に変わり、現在では、さらにその南にバイパス(完成したばかり)がと通り、道の便がよくなった。そして、これからは、道路の拡張などの予定もあるらしい。 水田については、年々日本人の米消費量の低下により、また新たなる減反政策が行われるかもしれない。今現在、アメリカなどから輸入されている小麦によって、パンなどが作られ、主食傾向になっている。そのために米の消費量にも影響している事を原口さんたちは嘆いていらっしゃった。 これからも近代化がこの村を覆っていく事は間違いないだろう。そんな中、少しでも自然やこの村の文化を残してほしいと思い告げておいた。 9.感想 今回の現地調査でお世話になった原口さん、原さんにはたいへん感謝しています。御忙しいときに、あたたかく家に迎え入れていただきました。そして、昼食もごちそうになり、いろいろ話をしていただいた後、車で久良木地区を案内しながら1周していただきました。要所や説明をしていただいたところでは止まってくれて、さらに詳しい事もお話していただきました。本当に何から何までお世話になりました。 また、いろいろ聞き終わった後で、ゆっくりと周りを見ながら歩いてみると、普段の都会の生活での苦労が癒されていくのをひしひしと感じました。やはり、こういう所を少しでも多く残していかないといけないと感じました。もちろん、その意味は、歴史的にも重要であるとともに、人間にの心にも必要だと感じたからです。 今回は、限られた時間のため、二人の方にしか聞けなかったのが残念でした。もっといろいろな方から、特に女性の方から見たこの村についても知りたかったのですが、今尋ねた二人の方がたいへん丁寧に話をしてくれたため、時間があっという間にきてしまいました。おそらくまだまだこの村には貴重な情報がねむっていると思います。 しかし、今回の調査は、一応成功したという事にしたいです。その成功に貢献していただいた村の方々、そして、大学のスタッフ皆さんに感謝したいと思います。本当にありがとうございました。 |