歴史と異文化理解Aのレポート 村の名前:山形藤川内 調査者:浦塚 昭典 手島 智士 話者:小松 正義(生産組合長)…… 昭和11年生まれ ・ 田のしこ名について 去年の地籍調査で藤川内の地籍を調べ、字をチェックした。各地区地区によって田んぼの名前はないが、三本松などの場所、区域によって分けられている。 (川や道路を境に) ・ 使用している用水について
昔の配水の約束事 ……(阿防溜池の)水利権がある程度あったのかもしれない 昔の水争いの有無 …… 無かった 旱魃があったときの水対策は …… 全く途中から水を引いて使うことはなかった。 山の間からの谷水を大事に扱っていた。 (対策が特にないのが藤川内の現状) ・ 道路について 地図に図示(周りを赤く囲んだ道路) (古道は、)今でも通学路になっているし、一般でも国道202号線へつながる道として使われている。 なお、道の幅を広くしようと市に申請中。 内陸的に便利な所 (唐津や佐賀のインターチェンジへ行くのにも近い方) ・ 村の過去について 甲羅焼(焼物)の発祥の地として窯の跡があって、今、市の職員会で調査中。 "藤川内焼"として唐津城辺りに今も展示してある。 ・ 村の耕地について 1. 昔は、どのような肥料を使っていたか? 昔は堆肥か何かだと思う。区長の方が詳しい。 話者:山口 次男(現区長)…… 昭和11年生まれ ・ 田のしこ名について 別紙に掲載 ・ 村の耕地について 1.良田と悪田との差 同じ面積で、山や谷では3俵収穫できる時、平野では6,7俵と、約倍近く獲れていた。 2. 昔はどのような肥料を用いていたのか? 草や木の芽を水田に使っていた。他にも牛肥や油粕を使っていた。 3. 化学肥料が入った後の変化 精算性を考える時には、(水田の)面積を広くしなければならなくて、収入を余計に上げないと肥料代が出てこなくなった。でも、農家は楽になった。 4. 入り会い山はあったか? 入り会い山はあった。(でも、場所は不明) 5. 薪はどこから手に入れたのか? 自分の山から直接。昔は雑木があれば、家族総出で燃料とりを冬場にしていた。 6. 草切り場や切り野について 原野に草切り場があった。 (場所は不明) 切り野は、阿防溜池の用水路周辺で2年(または3年)に1度行われていた。 ・ 使用している用水について 昔の配水の約束事 …… 特に無かった。 昔の水争いの有無 …… 無かった。 ・ 米の保存方法について 米缶で保存していた。 (種もみも同様) *米缶 …… ドラム缶より大きなブリキでできた缶 当時は、石倉は使っていなかった。 さらに昔になると、竹でできた筒で保存していた。 ・村の過去について @ 米以外の現金収入にはどのようなものがあるか? 自分の水田または別の畑に、麦や果物(梨、ミカン)を作っていた。 ほかにも、土木作業をする人や薪を山で集めて売っている人もいた。 A 昔の米・麦・稗の割合 米:麦=1:1 (稗はなし) ほかには、芋(甘藷)と一緒に食べていた。 B 電気やプロパンガスが村に来たのはいつか? 電気 …… 昭和初期 プロパンガス …… 今から35、6年前 ・最後に、 今回の話だけでは、まだ十分ではないところがあります。 だから、機会があればまた来てください。 あるいは、地図を送ってくれれば幸いです。 今回の現地調査の感想 手島 智士 今回の現地調査は、時間が短くて多くの人たちと話せなかった。 でも、農村に触れて良かったと思う。 ただ、約3キロの山道とワープロでのレポート提出がとても疲れた。 浦塚 明典 疲れた。その上、町内ミニバレー大会があったのが大変だった。 田畑のしこ名に付いて
ほかに目印となるもの
阿防:阿防溜池からつけられた。 勝負谷:昔、戦があり、そこから由来しているらしい。 隠し童:子どもが隠されていたことがあったから。 天道:天道橋からつけられた。 狂言場:狂言が話されていたことによる。 犬持ち:犬がたくさんいたから。 梅ノ木谷:梅ノ木が美しかったから。 一日の行動記録 8:15 九大(六本松)に集合 8:35 九大(六本松)より出発 10:40 国道498号線(松浦町山形)で下車 徒歩で藤川内へ 11:10 小松政義(生産組合長)宅にてインタビュー開始 11:50 インタビュー終了 12:00 昼食 12:40 周辺の家に聞き込み(30分) 手がかりなし 13:10 徒歩で松浦中学校へ (町内 ミニバレー 大会に参加している山口次男さんに会うため) 14:00 松浦中学校体育間に到着 14:40 山口次男(区長)宅にてインタビュー開始 15:30 インタビュー終了 15:55 バスに乗車 18:10 九大(六本松)に到着 |