しこ名一覧

1. 田畑

小字下田のうちに  シモダ(下田)、ナカダ(中田)、タニ(谷)、クボ(久保)、カミヤマノモト
小字前田のうちに  トンノヤマ、スゴンダニ(スゴン谷)、ハタミチ(畑道)
小字横野のうちに  ハタ(ケ)ダ(畑田)、オチガクラ(落ケ倉)、カクモ(角茂)、ヤキヤマ
小字崎田のうちに  サキタ(崎田)、カワダ(川田)、コダ(小田)
小字向原のうちに  ハヤモト(早元)、アガリグチ(上り口)、トモシロ、キゾウ(喜造)
小字畑頭のうちに  ヒラキ、スズムク(キ)、モウタニ(馬渡)、タテ(チ)ヤマ

2. その他

小字下田のうちに  カンヤマ(神山)
小字横野のうちに  オチガクラノ山、ダラ山(大平山のこと)、ダラヤマ池(平山池のこと)、モウタニノ山




歩き・み・ふれる歴史学レポート

村の名前
黒川町横野

話者
前田 達男
昭和11.10.25生まれ

調査者
石田 多恵子
藤時 由貴
田中 俊江

●水田及び米について

水田:昔は牛も入らないほど狭い田(たんなか)であった。これでは不 便なので、大正から昭和10年を経て、することがない農閑期や農作業 の間に34枚の田を少しずつ1枚の広い田にしていった。現在でも 時々行われている。また、一輪車がなかった時代、田を広げる際に土 を運ぶための道具として「もっこ」とよばれるわらで編んだものを使用し た。
達男氏は明治時代の和紙で出来た土地台帳を持っており、それに は測量された田の面積や田の形を示した地図が記されていた。これに よるとほとんどの田は3坪ほどで、1つ1つの田が本当に狭かったことが うかがえる。
田の呼び名は主に小作人の名前をとっており、田の所有者が変わっ ても、元の所有者の名前で呼ばれていた。

湿田・乾田:横野は高いところにあるため、湿田が存在しない。ただ、 牟田という集落は昔、湿田が多かった。今は二毛作は行っていないが、 前は麦をつくっていた。

良い田・悪い田:いわゆる「良い田」というのは土が粘土質であり、「悪 い田」は黒ぼく(砂質や灰質)である。黒ぼくは火山灰という訳ではなく、 軽いのが特徴だそうだ。慣れている土地の人でないと土の差が見分け られない。
この土質の差は収穫量に影響はしない。米の味に差がでてくる。 ちなみに昔(戦前)の米の収穫量は1反あたり4~5俵で、現在は7~8 俵である。
肥料:戦前の肥料としては人糞・牛糞・草切り場の草があげられる。化 学肥料も浸透していたようだ。魚のイワシを干して肥料にしたり、伊万 里まで人糞・牛糞を買いに行く農家もあった。

水:@堀・・・ここの地域は堀のことを「つつみ」と呼ぶ。(農業をしている F嬢のおじいさんも「つつみ」と呼んでいるらしい。)
水田に使っている水は川の水。ムラの中に川の水源が湧き出してい るので、この湧き水から直接水をひく農家もある。(生活用水としても使 用。ここの11軒はここから水道をひいている。)隣村との取り決めはほ とんどなかったようだが、3人以上の希望者がいなければ栓を抜く事は 許されなかった。

A水の優先権・・・水を引くのにも優先権があり、川の流域の人に 許しを得なくてはならなかった。流域に住むということは、先祖代々こ の土地に住んできたという事のあらわれだからだ。明治時代の中・後 期には秋の彼岸から春の彼岸の間(つまり農閑期)にしか水を引くは 認められず、溜め池に溜める必要があった。
水の無いところは、以前ならポンプを利用していたが、今ではそこま でするくらいなら減反したほうがよいそうだ。

B干ばつの時・・・昔ひでりがあった時、川の流域に住む人達は 水を分けてくれなかった。特にこれといった対策法はなく、稲が枯れる のをただ待つのみである。現在は水不足の被害はない。ついでに199 4年の干ばつの時を聞いてみたが、何の影響もなかったということだ。

D水争い・・・ここの人たちはどうやら大人しい性格らしく、水争い というのはあまりなかったようである。ただ、裁判沙汰になった争いが1 件あった。くわしいことは知らないけど、と達男氏が語ってくれた。平山 池(だらやまいけ)は以前集落共有のものだったが、池の横に住んで いたMさんが池からかなり離れた自分の田に水を引くため、裁判をお こした。結果はMさんの勝ち。それ以後平山池は個人の池となった。
(今は違う人が所有しているそうだ。)それにしてもこのMさん、後に村 八分扱いをうけなかったのだろうか?

米の保存法:10俵の米をいれることができる缶に保存。こうすることで ネズミの害を防げる。こくぞうむし対策としてはクロルピクリンという薬を 政府米に使用する方法がある。ちなみにこの薬を使うと、目がとてもし みるらしい。安全性に問題はなかったのだろうか・・・。また、達男氏の 家の中から上を見上げたら、太くて立派な梁がたくさんあった。昔は天 井板をはらないで、この梁の上に米俵を直接おいて保存していた。こう するとネズミがあまり寄りつかなくなるとか。

●ムラの昔の姿
世帯数:今と変わらず11戸。多い時は12、3戸だった。普通は何百 戸で大字となるらしいが、ここは11戸。一番小さい大字だそうだ。

ムラの起源:田を耕していると、よく大昔の矢尻が見つかるそうだ。とい うことは、太古の時代からここに人が住んでいたのかもしれない。達男 氏曰く、「側に湧き水も川もあるから、住むのにはちょうどよかったんで しょうね。」
ここは佐賀県だが、隣の長崎県にまたがってこの一帯を松浦と呼ぶ。 中世に松浦党という海賊が治めていたためだとか。

ムラの境界線:川が境界線。清水と横野にわかれている。

ムラの中:達男氏の家のすぐ隣には、公民館があり、ここでは子安観音 という安産の神を奉っている。昔から、妊婦はこの観音像に赤い前掛 けを奉納し、安産を願う。これがムラのしきたり。
観音像にちなんでか、そばに“神様の杉”という、大きな杉があるが、 その大きさが悪かったのか、強風にあおられて折れるということが何度 もあったらしい。ちなみにその杉、現在では幹のとちゅうで曲がってし まい、地面に平行になっている。それでも生きている。
ちょうどその根元の下に、きれいな湧き水が存在する。昔から、この湧 き水を農業用水・家庭用水として利用してきたらしい。
前述した大杉の横、公民館の敷地内に、“サワラ”という杉に似た木が 生えている。とても貴重な木らしく(市の記念物)、偉そうな看板が立っ ていた。豊臣秀吉と戦い、敗れ去った落ち武者の一人がこの地に流れ 着き庵を構えたが、その時このサワラを植え、たいそう可愛がったという ほのぼのとしたエピソードがある。(私の記憶が正しければ・・・。) ちょっと行った場所にコンクリートの上井出橋がある。昔は石橋だった そうだ。小さなムラに石橋とは、結構豪華だと思う。

生活:@副業・・・昔は1つの田を作れば、1年何もしなくても生活でき たので、副業する必要はなかった。現在、一丁でも5・60万しか稼げ ず、1ヶ月しか食べていけないが、この頃は5、6反で食べていける時 代だった。だがどうしても、という人は、炭坑や出稼ぎ、木を切ったりし た。炭焼きをやって販売する者もいたが、プロパンガスの勢力におされ、 やがて消滅。(昭和30年代までは続いたようである。)今では、国の減 反政策などにより、「農業が副業」状態となっている。減反政策は厳しく、 部落ごとに潰す田のノルマが課せられているので、大変なようだ。市役 所の職員が検査にくると言っていた。達男氏は8丁あった田を2丁減ら してしまった。

A電気・ガス・・・電気は昭和10年頃普及。達男氏は青年時代、 太平山へしょっちゅう薪をとりにいった。たいがいの人は自分の山を持 っていたから、薪は所有する山へとりにいく。山を持たない人は近所の 人から買ったりしていた。その薪は、お風呂や、台所で主に使用。プロ パンガスの導入は30年くらい前(昭和30−40年代)。薪をとりに行く 必要はなくなった。昔の山には、かしの木や椎が主だったが、今は杉 の木ばかりの人工林となってしまった。

B主食・・・主食に使われていた穀物は、米と麦。1:1の割合で まぜた。達男氏は麦が好物らしい。今でも愛食しているそうだ。麦は丸 麦を使用。おし麦は勘定が悪く、食べた気がしないと言っていた。麦を 一度ゆでて柔らかくし、それを米とミックスして炊く。飯炊きは薪を使う。 ちなみに佐賀平野では米のわらを使う。

C風呂沸かし・・・薪も使うが、主食用に育てた麦のわらをよく使 った。というのも、麦わらはよく燃えるので効率が良いからだ。

D埋葬・・・今は火葬が当たり前となっているが、ここの地域で は、40年くらい前までは土葬であった。墓は山の中。近所に住む全11 戸の家々が協力しあって埋葬の準備を行う。きちんと役目が分担され ており、3、4人で墓を掘り、その他の者は知らせに歩いたり、まかない をした。昭和40年頃、墓を掘り返して納骨堂をつくることとなり、その頃 から火葬に移行した。

E学校・・・近くにある分校に子供たちは通っていた。その分校 も今は廃校となり、灰色の建物はむなしく静まりかえっている。10年程 前から、皆バスで下の学校に通うようになった。その学校とやらを見て みたが、木造造りのノスタルジックな小学校である。どう見ても廃校にな った分校のほうが大きく立派であった。それだけ子供の数が減ってしま ったのか。

ムラの道:ムラの道を行きかいしていたのはおもに牛。牛に余った米を積んで、伊万里のヤミ市へ売りさばきにいったそうだ。また、馬車で政府米を取りに来ることがあったとか。あとは日用品の行き来ぐらい。 ちなみに、マニュアルにある「□□ノウテ」と呼ばれる道はここにはない。

草切り場:今草切り場はない。昔は切った草を肥料にしていた。野焼きのほうは今でも3月下旬に行う。放っておくと草がぼうぼう生えて山になってしまう。それを防ぐのが目的。

●現在・未来
これから:農村の過疎化が叫ばれている中、横野もやっぱりこれに悩まされているのかとおもったが、そうではないらしい。この辺は人の入れ変わりはあっても、人口自体は昔から変化がないようだ。高齢化しているわけでもない。実際、達男氏も娘さん息子さん達と暮らしていた。若者が乗った車もよく見かけた。ただ、農業は副業扱いとなっており、役場や農協に勤めながら携わる人がほとんどだ。年寄りは年金暮らしで田にでることもあまりないと言っていた。それ以外に変化はないようだが、去年、定年退職後に都会の喧騒を嫌って、横浜から横野に移ってきた元サラリーマンがいる。今は農業をしているそうだが、これからはこういう人たちが、もっと移住してくるかもしれない。達男氏にこれから横野はどう変わっていくでしょうか、農業の展望は?」と聞くと、「たぶん、何も変わらないでしょう。」と言われた。達男氏は畜産の仕事もしている。その後は、長男が継ぐそうだ。

<補足>
達男氏の家を訪問する前、道路に座っていたら、農作業中のおじいさんが話しかけてきた。かなりの長老らしく、「今度伊万里市に呼ばれている。昔のことを話してほしいと言われた。」と語った。「ここら辺の明治生まれの人もだいぶ減った。」と言っていたのが印象的である。このおじいさんの話を聞きたいと思ったが、 鎌を持っていたので仕事の邪魔をしてはいけないだろうと思ってやめ た。 私たちが調査のためにお邪魔すると、達男氏と奥さんは非常に親切 にしてくれ、なんとお菓子と麦茶・ジュースまで用意していてくれた。明 治時代の土地台帳をみせてくれたり、質問にもスラスラ答えてくれたこ とから、事前に調べてくれていたようだ。調査も終わり、帰りに公民館に 寄り道してみたがそこで発見。ここの人たちは、コーラをこよなく愛して いるらしい。不燃物の袋が山積みにされていたのだが、そのほとんど がコーラの缶で、ビールの缶は少しあったけれど、ジュースの缶はコー ラ以外見当たらなかった。しかもそのコーラの缶はペプシでもコカ・コ ーラでもない謎のメーカーの物だった。そういえば達男氏の家でもそ のメーカーのコーラを振る舞われた。佐賀県でコーラといえばコレなの だろうか・・・。味はペプシにそっくり。
子安観音の側にかなり古い太鼓があるのも発見。どんな伝承がある のか聞いておけばよかったと後悔。

・・・おわり・・・