歩き見ふれる歴史学

口石良
小谷洋平
木村一美

調査地:浦分(うらぶん)…現、黒川町大字小黒川
話者:小島睦老
調査者:口石良、小谷洋平、木村一美

しこ名一覧(山、道を含む)(浦分区には田んぼはなかったらしい。)

小字前田のうちに     ハトノハナ(波止のはな)、デーグミ(土井)
             イゼンクチ、コンピラサン、ワカミヤドオリ(若宮通り)
             トクセシンデン(徳須恵新田)、

小字分崎のうちに     ナベヤシンデン(鍋屋新田)、シラハマイナリ(白浜稲荷)
             ナベンツル

小字分崎の沖に      ジャガゼ(車が瀬)

ジャガゼ…潮が引くと現れる砂の丘でそこではよくアサリがとれていたらしい。

ナベンツル…ナベヤシンデンを囲む旧道で昔の鍋の取っ手に似ているためにつけられ       たらしい。

ハトノハナ…豊漁祈願のための恵比須様が祀られている

徳須恵新田…元禄時代にできた新田で浦分の人が委託を受けていた。

コンピラサン…金比良様が祀られている。

七ッ島…村の沖にある島で村が島の所有権の半分を持っていた。昭和四六年十月島は姿     を消した現在は工業地帯となっている。島の松は肥前の松原と絶賛されていた。     また、良い漁場だったらしい。十三からなる島々にいちいち名はないが、漁師     たちの間で島と場所を含んだよび名があった。

    タケノマエ、ノタル、ナカゼ、ヌケノマエ、ニホンマツ(二本松)、
    コテボガウラ、オオイワ(大岩)、フクルムギ、ホゲイワ、ノミゼ、
    ナガシカンヂョウ、オオイワセト、ジョウトク

用水:樋門 海からの水が入ってきても一旦海水と雨水を混ぜて塩分を減らした後、
      周辺の田の用水として使っていた。(塩遊びというそうだ。)
      また、浦分には田んぼがないので詳しく聞くことはできなかった。

屋号:平戸屋
浦分は範囲自体は狭いが浦分に住んでいる人の所有している土地や場所も入ってくるので小字が浦分に含まれていなくとも浦分に属することとなる。これは所有権の問題が関わってくるからであるらしい。だから、ナベヤシンデンなどが浦分に属するのである。

浦分の歴史

元々は海であったが慶長年間に寺田氏によって干拓された。 拝川の河口、伊万里湾に面する漁村、漁業はいわし網、江切網、いか網、なまこ網、 が行われていた。慶安二年に黒川浦として村となって以来明治初期まで一村として 形成されていたが、黒川村として合併された時には一村として認められなかった。
そして、小黒川の一部となった。この重大事件に対し、協議の上、黒川浦の代表者が佐賀県令に請願書を提出した。が、結局認められなかった。
大正になると黒川漁業組合ができ浦分の者は皆組合員となった。組合はその後昭和三十四年伊万里湾魚協に対等合併することとなる。五十年漁協は解散した。
消防のはじまりについては、黒川では浦分がはじめであった。これは浦分が家屋が密集し一度火事が起きると大変になると憂慮されたからである。

漁業について

明治の終わり頃までは、漁船は帆および櫓によって、主に伊万里湾内の漁業に従事した。
大正になり漁船も機械化されて、平戸まで出漁した。採れたいわしはいでぼしして加工販売、また、近海の藻曳等でとれた魚は、浜浦、小黒川、塩屋、の仲買人によって売り捌かれた。男たちは、わらじを履き、暑い時はハッピ一枚にふんどし姿で、かけ足で旧道の日石峠を越えて遠く北波多村の芳の谷、岸岳炭坑方面まで、また女でも足の強い人は、畑川内、花房、深山地区方面まで、売りさばき、浜の無塩が着たと喜んで買い取ら れていた。昭和十七年には魚も配給制となった。

七月五日の行動記録

当日はとても暑かった。出発当初からバスの時間が遅れてしまった。道の駅から我々は先方に電話し遅れる旨を告げた。予定より一時間ほど遅れて会った。公民館に案内され そこで話を聞かせてもらった。公民館はクーラーがきいており快適だった。その後、昼食をとり浦分一帯を歩いてみたが非常に狭かった。その後、我々は涼を求め歩みだした。