歩き・み・ふれる歴史学

 黒川町黒塩

      話者:近藤 力奥
         久保川 俊孝(94歳)

     調査者:古賀 拓也
         岡野 真一

     調査日:平成10年7月5日


     しこ名一覧

 田畑
  小字分崎のうちに   シラハマシンデン(白浜新田)
    飛石       ウラシンデン(裏新田)
                 イリエ(入江)
    古名切      イシボトケ(石仏)
    田野浦      ロクタンバ(六反場)
 ほか
  小字分崎のうちに   ゼンモンダニ
              ゼンモンとはこじきのことでこの谷にこじきがたくさん住んでいたのでこう呼んだ
             ナベンツル
              道路の形が鍋によくにていたため
    新開地      ヌゲンツツミ
    瀬土       ヤマガミ(山神)
    吉鐘       ダイモンザカ(大門坂)
    黒塩川      サカイガワ(堺川) 
              隣の早里とのきょうかいだったため
  小字今入御のうちに  フウカブリヤマ
                  アカミチ


村の水利

  黒塩の水田にかかる水は、黒塩川(しこ名:堺川)から引水  されている。(黒塩の水田は、ほとんどが黒塩川沿いに位置し ている。)その黒塩川は、黒塩地区と早里地区との境界になっ ているので、両方の地区で共有している。現在、黒塩川の水門  の管理は、両地区で、話し合って決めているが、昔は、水をめ ぐっての争いが絶えなかったということだ。また、至る所にあ る井戸やため池も非常に重要な水源である。


村の耕地

  黒塩の田では、麦は全く作っていなくて、米作のみである。  黒塩での戦前の肥料は、牛フン、草肥、魚フン等を粉状にした ものが使用されていたそうだが、現在では、化学肥料が主に使 われている。
  また、黒塩には入り会い山が存在する。ガスが普及する以前 の、風呂を焚く燃料に使う薪などは、自分の山や、この入り会 い山からとってきていた。現在、この入り会い山は、黒塩森林  生産組合が管理している。


漁業

  黒塩には、生活の手段としての漁業というものはなかったが  昔は、タイラギ、タコ、カイ(アサリ等)、ナマコ等、あらゆ るものがとれ、それを、素手でつかんでとっていたということ だ。   また、黒塩の海にはカブトガニもいて、保存区域になってい たが、近くに造船所や、その他の工場ができてしまったため、  カブトガニはいなくなり、保存区域も多々良海岸へと移ってし  まったそうだ。


村の過去

  50年前の村では、水田での米作以外にも、養蚕や林業、たば こ等による収入もあったということだ。


米の保存

  昔、家で食べるための米は米俵に入れて家の中の風通しの良 いところで、保管していた。   また、水田での害虫を殺すために鯨油を使ったということだ  った。


1日の行動
  調査当日、僕達は約11時にバスを降り、事前に手紙で約束し ていた区長の近藤力奥さんの家へと向かった。適当な交通手段 がなかったため、歩いて40分もかけていった。
  近藤さんは、自分よりも黒塩に詳しい人ということで、久保 田さんという、94歳のとても元気なおじいさんを紹介してくだ さった。久保田さんは昔、郵便局の配達員をやっていたとのこ とで、黒塩やその他の地域についても詳しく知っていらっしゃ  って、調査は非常にスムーズにいった。調査を終え、時間が結 構残ったので、しこ名を教えてもらった場所を実際に見てまわ ったりして、バスが来るのを待った。


調査を終えて

  黒塩という地区は、中央に位置する人見岳が、度々地滑りを 起こしてきたため、昔からの地形というのがあまり残っていな い。その地滑りのために、昔は270mだった人見岳の標高が、  現在では、60mにまでなってしまい山の頂上にあった稲荷神社 も他のところへ場所を移さざるを得なかった程である。   また、現在も国が地滑り防止のための工事を何期にもわたっ  て行ってきているそうだが、計画どおりに進まず、黒塩を通る  はずの高速道路も未だにつくられていないという状況である。
  黒塩の人たちは、地滑りがおこる度に住む家や田、道路等を移して暮らしてきた。今回、しこ名の調査で、黒塩の人々のは なしを聞いてきて、地形の変化、すなわち地滑りの歴史が、黒 塩の歴史そのものであるような気がした。