歴史と異文化理解A

伊万里市木須町
戸ノ須

話者  前山 俊夫
    前山 博

調査者 宮田 誠 
    米沢 和孝


  しこ名(カタカナ)一覧

田畑

トノス(戸ノ須)ガラミ
フルトトシマガラミ
ヤジエモンガラミ
トトシマ(戸渡島)ガラミ
[ 別名 サイエモン(シャエン)  ガラミ]
ハマノクリ(ハマノクイ)
ケンジョウ(見上)ガラミ
カミケンジョウ(上見上)ガラミ
シモケンジョウ(下見上)ガラミ


ガヤデイ
ナンコシ
イビンクチンイクミチ
ハッタダンイクミチ


ウサギヤマ

集落
クリザキ
シンガエ
イキズシ(生通石)

水門  
イビンクチ

△ サイエモンガラミの名前の由来。サイ エモンという人が、自分の財産を投げ打って新田を開いた。その後、サイェ モンは、町長にもなった。
△ シンガエの名前の由来。新しく集落を開いたので、新開というのではないか。 △ 排水用の井樋(水門)があった。
△ ハマノクリには明治初期に塩田があった。
△ リヤカーが昭和9年頃登場したときに、里道の改修がった。その際、道路の入り口を広くするか、狭くするかで意見が分かれた。結局狭くした。
△ 大正12年に、電気がきた。
△ 昭和38年に水道がきたとき、道路の下に水道を埋めるか、埋めないかで意見が分かれた。けっきょく、うめなかった。その後、昭和48年に大阪のなむろ造船所ができたときに、道路改革をした。
△ 造船所ができたときに、海苔の漁業権放棄で17+2.7=19.7億円払った。
△ 昭和54年ごろに大きな水道(40cm)が通った。
△ 伊万里町長の、ナカムラチヨノスが、上下水道を作った。
△ チクコウにできた製氷会社のために、上下水道を引いた。
△ 四国のタマノウラ漁船団が昭和12年ぐらいにきた。
△ 共同風呂で、当時の町長から教育を受けた。
△ 生コンをもらってきて、自分達で踏み固めて道路を作った。
△ 昭和天皇の即位の祭があった。

辺古島

話者  池田 久利
    大正9年5月1日生
    (1920年)
    78歳

調査者 1TE98054M
    宮田 誠
    1TE98059G
    米沢 和孝 

  しこ名(カタカナ)一覧

田畑
フルトトシマ(古戸渡島)
マツシマガラミ

道   
ゴドンデイ


セッキョウゼ

集落
イワバリ(岩張)
シマグニ(島国)
マガリメ(曲目)

水神
イセコシ

△ 金比羅神社の掃除を毎月交代で12地区が順番にやっていた。12地区 の分け方は、地名ごとではなく人数 で分けていた。
△ 金比羅神社に宮参りをする人がいた。 イセコシもそのひとつのポイント。
△ 昔は開拓村だった。畑がすこしあり、 海苔をつくっていた。
△ マツシマガラミは10年ぐらい前までは水不足だった。
△ フルトトシマにはポンプで水をあげていた。
△ 畑で作っていた作物は、高菜、とうまめ、ごぼう、菜種など。
△ 大地主は、農地改革で農地が減った。
(例 4町→2町)
△ 川の向こうまで、田を作りに行っていた。
△ 地主は、10人ぐらいいた。残りの人達は、小作農だった。
△ 農業だけでは、生活が苦しかった。1町以上作らないと、生活は苦しかったので、つとめにいったり、日雇いをしたり、伊万里焼の人夫、運搬業をしたりしていた。

その他

用水源(ため池)
○ ナキリンツツミ(シンズツミ)
  →ケンジョウガラミ
   トトシマガラミ
   ハマノクリ
○ ナキリンツツミ
○ ボンメキンツツミ
→トノスガラミ
ヤジエモンガラミ

△ ゲーデンツツミ→ナキリンツツミ→田という順序で、水を流した。
△ ナキリンツツミは、昭和34年に完成した。

  木須新田       
<1番〜4番新田>
△ 新田をつくるために堤防を築くとき に人柱をつかったりした。
△ 木須新田の用水路は腰岳(伊万里富士)から見て測量した。
△ ほりを広くして灌漑水を蓄える。農民 達が、がた(ヘドロ)をすくい、人力 で掘った。1〜4番新田を順番に2年 に一度ぐらいで掘っていた。
△ 木須新田はマイナス地帯なので、公共 下水道が入りにくかった。
△今年から、排水ポンプ(約8億円)が、可動し始めた。これまでは、台風がき        た時など、一週間ぐらい水がたまるの  が、当たり前だった。
△ ヘドロをあげなければ、水はたまらない。ヘドロをあげたクリークに水をためて、水を供給していた。
△ 干拓新田には、水神様をまつっていた。
昔は、水神様をまつった祭りをしていた。
△ 畑は少なかった。
△ 野菜を田ん中で作っていた。

昔の村の様子
△ 昔は、せんばこきでもみをこいでいた。
△ 70〜80年の間に農作業がすごく 変わった。
△ 運搬作業の手段の変化。になう→リヤカー。
△ 国見山系に炭鉱があった。
△ 昭和29年に合併して、伊万里市になった。当時の人口は、84000人で、100000人を目指していた。しかし、炭鉱がなくなり、人がいなくなる。市長は、代々頭を悩ませた。
△ 道路は大事にした。年に2から3回、公役(くやく)で草刈りや、地ならしをした。
△ 地方交付税交付金をおおくもらうためには、道路の面積、距離が関係する。
△ 荒れた道も、市道に編入して、たくさんお金をもらう。
△ 田のできた順番。
  トノスガラミ→フルトトシマ→トトシマガラミ→マツシマガラミ→木須新田
△ 小作農は、6俵のうち、2俵を年貢に納めた。肥料代などを差し引くと、収入は大体2俵半ぐらいだった。

1日の行動

8時30分   六本松出発
11時     バス下車
11時30分  聞き取り開始
         (戸ノ須)
13時     終了
13時20分  昼食
13時40分  現地で地名に詳し
        い老人探し
14時10分  聞き取り開始
         (辺古島)
15時30分  終了
16時20分  バス乗車
19時     六本松到着

最後に
◎ 今回の現地調査で、佐賀県伊万里市木須   町戸ノ須・辺古島周辺の昔の様子がわかっ た。今回の現地調査の目的の1つは、しこ  名を調査することだったが、話してくださ  った人によると、このあたりは、昔は海の  底で、田んぼの多くは新しく開けた新田集 落であり、残っている地名の多くはしこ名 ではなく、小字かもしれないということだ った。何人かの人に尋ねてみたが、そのこ とについてはっきりとしたことが分かる人 がいなかった。  調査を終えてみて、昔のことを調査する のは、やはり難しく、思うように調査が進 まなかった。先生のおっしゃる通りに、昔 のことがだんだんと消えつつあることを実 感し、昔のことを記録に残すことが必要で あると感じた。