コア教養科目 歴史と異文化理解A (月曜4限)

佐賀レポート

村の名前:多々良(佐賀県伊万里市木須町)

話者:鳥山 清 (昭和6年生まれ) 鳥山 キヌエ (昭和10年生まれ)
松尾 竹四(大正10年生まれ) 松尾 キリ (大正3年生まれ)
調査者:野口 智子
 野口 悦子


1.しこ名一覧

@多々良

 小名しこ名由来 /特定の場所
大谷内ウタンウチ矢竹川のあざ字‘大谷’の内側にあるから
ハマ 
浜 浦ハマウラ 
前 出マエンテ多々良の中心の家の前の田んぼだから
馬場ババ武士の馬を訓練するための道‘馬場’が目前に通っていたから
赤 山アカヤマ力竹春夫」宅を示す
ツジ松尾平次」宅を示す
ウシロンクボ 
ツジヤマナカ  
シミズウラ 
ダジ 
大坂ウーザカ  
ハマウランミチハマウラの横を通る道だから
(住宅地図参照)

A多々良周辺
 
 アタラシエ「橋口正俊」宅を示す
吉 田ヨシタ 
見 上ケンジョウ  
岩 野ユワンノ  
南 松ナンマツ 
茶 原チャーバル  
 アミダザカ 西明寺に阿弥陀様がまつられているから
 レンガヤマト江戸時代レンガを造る工場があったから



2.村の水利

・水道が通ったのは、昭和25年頃。   これより以前には、5軒に1つくらいの割合で山のねもとにため   ほっていた。それを飲水川〈ノンミズガワ〉と呼んでいた。  (川ではないが、カワと呼ぶ。)
このため池は、1回の雨で40日ほど水を保つことができ、管理する 責任者が存在している。

・水戸黄門の時代に大干ばつがあり、多々良の村でも田が干上がり、米       が取れず多くの人が餓死していった。この時ある農家の子どもだけが 餓死もせず元気だったので、この家の主人がため池の水を独り占めし 自分の田にだけ水を流し、米を作り子どもに食べさせていると村人が       疑った。そして、その子どもは確認のため腹を切られた。しかし、胃       の中から出てきたのは、「モエビ」(←田んぼに生息する)だった。


3.村の耕地

・化学肥料が入る前の田畑の肥料
@牛糞
A菜種油、かちゃし油(←髪につけてツヤをだす)のかす
B魚粉;市場などで卸されずに腐ってしまった魚を粉末状にしたもの。 特に、長崎から入ってきたイワシが利用された。
Cかや草(←田畑が肥えるようにするために)

    *化学肥料は昭和20年頃に多々良の村に入ってきた。

・田畑の耕作のしかた
昔は、牛や馬で耕していた。しかしそれだけでは、土が粗いので 後から桑で細かくしていた。
昭和42年頃から、機械化が始まり今まで1ヶ月かかっていたの が1週間に縮まった。


4.米の保存

・俵に包んで倉庫に保管する。
ネズミが食べに来るので、その対策としてネコ飼っていた。


5.米以外の収入

@野菜(じゃがいも、さつまいも、かぼちゃ、きゅうり、なす、、、、ナド) を作って、伊万里市の市場まで売りに行っていた。

『 れんがやまと』周辺(地図参照)
A昭和22年〜24年
┌             ┌ 
│────────┤│
│    海水      │ ←鉄板
│────────┘│
└─────────┘
↑↑↑↑↑↑↑↑
火で熱する

上図のようにして塩を作り売っていた。
この時期は、終戦直後で塩が不足していたので、遠くの 地方からも塩を求めて、かなり多くの人が集まってきた。

B昭和46年〜
海苔の養殖が盛んになった。“伊万里海苔”

《方法》  むかし・・・竹(笹)を切って海にさしておくと 黒い海苔がくっついていた。

  現在・・・竹ではなく、網を張っている。

C4月〜5月
『れんがやまと』の近くの海で、‘黒貝’や‘しし貝’が取れ これを伊万里市の市場まで売りに行っていた。


6.村のガス

・ガスが普及したのは昭和40年。それまでは、薪を利用していた。

【薪に関する決まり】

  あさぎ山・・村人なら誰でも自由に出入りしよく、薪などを 取るのも自由だった。

おおひら山・・自分の土地が決められており、勝手に他人の土               地にはいることはできなかった。それぞれの土 地は、石で仕切られていた。


7.村のむかし

・多々良の村は小作人ばかりが住んでおり(2軒ほど地主もいた)、 隣の‘駄地’という村には多くの地主が住んでおり、この地主の 支配を受けていた。地主は銀行のような役割(←米を貸したり・・ナド) をしており、字が読めず、計算もできなかった小作人達は、自分の 土地をとられそれがいつの間にか地主のものになっていることもよ くあったらしい。


8.村の今後について

・現在、市場において農機具や農場肥料はどんどん高くなる一方で、 米の値段は下がり続けており、199 年には外国米の輸入も始めている。 また、減反政策で田んぼを減らしたため収入が減り、農業のみでは 生活できなくなった。
日本政府はもっと農家のことを考えるべきである。
(鳥山清、キヌエ談)

・跡継ぎに関して
昔は農家の娘が農家に嫁いできており、農作業も嫌がったりはしな かったが、現在、息子・娘世代は農作業を嫌い、都市に出ていくこ とが多くなった。また、そこで見つけた結婚相手も農家を嫌がるの で、ますます農業人口は減るばかりである。しかし、多々良の村に 関していえば、今のところ2世帯で暮らしているところが多くあり、 農業は続いていきそうである。


・ 感想   野口 智子    1te98573

今回の佐賀での調査で印象に残ったのは、たたらの村の人の他人を受け入れる 寛大さである。私たちのグループは、生産組合長の電話番号しか分からず、し かも、電話をかけても留守で連絡のつかない緊急状態で訪問することとなり、 村人がいなかったり(←村全体で旅行とか…)、いても受け入れられなかった りするのではないかと、かなり心配だった。
しかし、第一村人の方はよくしゃべる方おじいさんで、まず多々良のむらの範 囲を知ることができたのはかなりの収穫だった。 2番目に出会った夫婦(鳥山夫婦)は、とても親切で、お昼までごちそうにな った。(お昼は、そうめんと冷やしトマト、白ご飯をいただいた。) 方言で聞きずらいところもあったが、私たちの目的を理解してくれ、質問にも 答えてくれた。もちろん予定外の話も聞かせてもらった。例えば、息子の話で ・・現在、警察官になっておられて2、3度山下選手(←オリンピック金メダリス ト)と組んだことがあるそうだ。2、3回繰り返してたのでかなりうれしかった のだろう。
また、彼らは自分たちより詳しい人がいると、むらの最高齢のかたを紹介して くれた。しかも、最後にゆでたまごとおはぎをくれた。優しさが心に染みた。 ちなみに、紹介していただいた最高齢の方は、2人とは対象的で、「年寄りです から何も知らんもんね。」という言葉を聞いたでけで終わった。 その後村で見かけた人に、聞いてまわって今回の資料を作成した。 最後に訪ねた松尾さんという方は、時間ぎりぎりになって訪問し、さらに、 しこ名の説明が不十分だったため(はじめ、相撲取りのしこ名から説明された ときは、かなり驚いた。)、十分に聞けずに終わったのがざんねんでした。 今から考えると、もっとうまくやれた気がするがその時は精一杯で、でもまた やってみたいと思う体験でした。

感想    野口 悦子   1te98572R まず、私達の行った多々良には区長がいなくて生産組合長の方しかおられ なく、しかも、その人とは連絡がとれないまま当日をむかえて不安がのこ るまま多々良に行くことになりました。まず、初めに行った組合長の家は 留守で途方に暮れました。しかし、2件3件と家を尋ねていくうちにだん だんといい情報を得られるようになり5件目くらいで今回一番多くのこと を教えてくれた人たちに出会いました。はっきりいって、私は、伊万里に 来る前まで田舎の人はあまり友好的ではないと思っていたので、鳥山さん 達に会ったときはちょっとビックリしました。本当にいろいろな話しを 聞かせていただいたし、なんとお昼ごはんをごちそうしてくれたり、おは ぎを作っていただいたりもしてもらいました。本当に、うれしかったです。 しかし、話しの中には、やっぱり最近そういう田舎にはよく悪徳セ−ルス などが来るから、初めは私達のことを少し疑ったという話しもでてきたの でとても残念に思いました。そういう純粋な人達を平気でだませる人が 沢山いると思うと本当にいやな思いがします。
私達が行った地区は非常に狭かったので調査もしやすくその分いろいろ 沢山の話しを聞けたのでよかったと思います。今回のこの研究で実際に 自分達で見て聞いて本当にいい経験ができたと思います。またこういう 機会があればやりたいとおもいます。