歴史と異文化理解A (月曜4限・服部先生)

SU−14   平野 恭仁尋


1、 調査地

佐賀県伊万里市 駄地・多々良・里


2、 協力して下さった方

吉牟田正巳さん   大正15年生まれ 73歳
松尾竹四さん   同 10年生まれ 77歳
キリさん   同 3 年生まれ 84歳
河原 さん   ? 年生まれ ? 歳 (聞き忘れました)


3、 しこ名一覧

(1) 田畑

小字・駄地
上見上  ゲンゴロウ・源五郎
下見上  ケンジョウ・見上
  注)下見上のことを特に見上と言ったらしい。
鳥越   ナンマツ・南松
 ジョウシ・城址
宮ノ平   ユワンノ・岩ん野
  注)宮ノ前にも南松、岩ん野と呼ばれる場所があった。
木須崎  チャアバル・茶原
 ハマチタ
 ウタンウチ・大谷内
  ウシロンクボ
  アカヤマ・赤山
  ババ・馬場
駄地  マエンデ・前出
 ツジヤマナカ・辻山中
  ハマ・浜
 ハマウチ・浜内
清水裏   シミズウラ・清水浦

(2) 道

小字・鳥越   ジョウザカ・城坂
駄地   アミダザカ(ジョウザカ)・阿弥陀坂(上坂)
  注)2者から2通りの呼び方をされたが、阿弥堂のある
  西明寺に続く道であり、阿弥陀坂が信頼できる。
  ハマウラミチ
八反田   ハタンダミチ・八反田道
木須崎   ババンツジ・馬場ん辻

(3) 山

小字・道園  ドウゾノヤマ・道園山
竜王岳  リュウオウサン(リュウオウダケ)・竜王岳

(4) 溜め池・川

小字・道園   ドウゾノイケ・道園池
向赤木  イノキダイケ・猪木田池
八反田   シンツツミ・新堤
下見上   ケンジョウガワ・見上川

(5) その他

小字・木須崎  ババ・馬場 ………… ある部落。
駄地  ヨシダヤマナカ・吉田山中 ………… 同。
 アタラシエ・新家
  ・・・・・・・・・・・・ ある家。特に新しくもないらしかった。
清水浦  レンガヤマド ・・・・・・・・・・・・ 煉瓦を造っていたらしい。


4、肥料に関して

(1) 肥料となったもの

戦時中までは人糞、堆肥、草などを使用していた。
現在では殆どの農家が化学肥料を主として使用している。
化学肥料になって生産は確実に伸びたとのこと。
戦前は1反7俵程度、戦後には10俵程になるらしい。
ただし米の質、味に関しては、化学肥料は若干劣るらしい。

(2) 草切り場

草切り場になったのは竜王岳や道園山。
薪もこの辺りで採っていたらしい。


5、 米の保存に関して

(1) かつては板の棚や箱、より新しくなると大きな缶に保存した。
これは鼠や害虫から米を守るためである。
最近では出荷用はすぐ出してしまうし自家用も1、2年で食べてしまうため
それほど気を遣ってはいないらしい。
不作でも農協などの支援があるためでもある。


6、用水に関して

(1) 用水源
下見上・八反田・戸渡島新田 ………… 見上川 (水源/新堤・猪木田池)
上見上 ………… 道園池 他 溜め池数箇所
里 ………… 木須川

(2) 昔の配水の慣行・約束事
駄地・多々良(見上・八反田・新田)は水が豊富にあるため、特に無かった。 里は調査した地域からやや外れていたため詳しくは分からなかったが、 前記の地区に比べ水は不足しがちとのことで、何らかの取り決めがあったと 推測される。

(3) 昔の水争いの有無
これも(2)に準ずる。
主に調査した駄地や多々良に関しては水不足が殆ど無く、大きな水争いは 無かったらしい。 但し個人レベルでの小さな諍いは当然だが時折あったとのこと。 (4) 1994年の旱魃について
これに関しても、駄地・多々良地区は大きな被害は無かったとのこと。 反面、里地区は木須川の水量の減少が原因で農作物の被害は大きかった。 しかし逆に雨が多い年は、海抜0m近くで排水の悪い駄地・多々良が不作に なるらしい。
このため平成7年から9年にかけて9億5千万円をかけて清水浦にポンプを 造り、これにより水害は緩和されたとのこと。

(5) 実際に歩いて
乾田である里地区の方はあまり歩いていないのだが、時折旱魃に襲われる だけあって灌漑には気を遣っているという印象だった。
木須川の水を最大限に活用するためしっかりとした用水路を通しているほか、 水田にせず他の作物を作り、別の田に水をまわしていたようだった。
湿田である多々良地区の方は、やはり水が豊富にあふれていた。
地元の方が良田とおっしゃっていた戸渡島新田などは実際に見るとやはり 稲の育ちが良いようであった。
だが一方で水の過多というのも印象に残った。
前記のポンプというのを実際に見ることは出来なかったが、 伊万里川の堤防工事が大掛かりに行われており、 水が多いなら多いなりに苦労しているようだった。


7、 村の過去・現在・未来

(1) 過去

駄地・多々良地区は過去米を中心に芋、南瓜、胡瓜、塩、海苔、貝など その地理的条件を生かし様々なものを生産していた。
また、一時期みかんの栽培が大々的に行われていたこともある。 これらの作物は煉瓦やまどを経由し伊万里市中心に出荷していた。 これは貴重な現金収入源としてとても盛んであった。

米の生産性を高める努力も積極的に行われた。
伊万里川・有田川沿いの干拓は大規模に行われ、広大な耕作地が作られた。 戸渡島・木須新田などがこれにあたる。
現地で実際に見たところ、区画整理され用水も整備された田園が広がり 実に爽快であった。
また 4、で述べたように、肥料に関しても長年に渡り行われている改善の 努力により単位面積当たりの生産量も増加している。

だが一方で住民には不満もあったようだ。
この地区は初代伊万里市長など多くの人物を輩出している。
しかし地元への還元は乏しく、伊万里の発展に置いていかれた感があった。 実際に歩いた感想として、道が細いことや坂が多いことは仕方ないにしろ、 随分と古く小さい家、汚れた家が数軒集まる、一見するとスラムにも 思えるような家並みがあったことが気になった。

(2) 現在
現在、木須西地区には約220戸の家がある。
そのうち農家は約100戸、専業農家は10戸程度とのこと。
以前盛んだったみかん栽培も衰退したらしく、これも現在では10戸程しか 行っていない。
しかし藤の尾の山の開墾を行い伊万里梅園を拓くなどの事業がなされ、 農業技術の改善も継続して行われている。

(3) 未来
この地区は大規模な道路工事が現在行われ、また計画されてもいる。 主要道路である国道204号線の拡張工事、県道ではあるが伊万里市中心部 から黒川町に抜ける幹線道路の新設工事などがそれである。 話を伺った吉牟田さんがその事業に携わっており、いろいろな話を聞けた。

この事業の大きな要因の一つは七ツ島工業団地であるそうだ。 これにより交通量が激増。
私たちが現地調査を行っている間も大型トラックが激しく行き交っていた。 また、この地域および佐賀県としては佐賀空港と伊万里港を同等にみなして おり、その影響としての交通量の増加も予想できる。 そこでそれに見合った早急な道路の整備が叫ばれていた。 そのため上記のような道路工事へと至ったのである。

この道路整備により、この地域は伊万里の中心に位置づけられることになる。 農業の方の発展はこれ以上望むべくもないが、総合的にはこれからの発展が 大いに期待出来るようだ。 私が吉牟田さんに
「ではこの地区の未来は明るいと考えられるのでしょうか?」
と尋ねてみたところ、力強くうなずいておられた。


8、 感想・考察

今回の調査は、私にとって感慨深いものとなった。 パートナーが来なかったことやアポがうまく行かなかったこともあるが、 自分の知らない土地の人々と直接触れ合い、 自分の知らない土地の文化を知ることは大変意義深いことであったと思う。

私の調査した地域は、基本的には農業に適し、また盛んなところだった。 現在では兼業が増えているとはいえ、農業技術の進歩に努力してきた地域だ。 米作は非常に盛んで新田開発も大規模に行われてきたし、 現金収入源は私が予想していたよりも多種多彩だった。 だがそれだけに、のどかな田園風景というよりも進歩的農業の町といった 印象があった。
特に新田の風景は誠に心地よいものだった。

この地域は水利の良い地域と比較的悪い地域がくっきりと分かれており、 それによって周囲の風景もかなり違っていた。 低地で水利の良い多々良地区では、区画整理も大きくとられており、 大規模な機械農業が想像された。
水が不足しがちなやまあいの地域でも当然機械は使われている。 だが多々良に比べると一つ一つの田が小さめで、階段状になっていた。 用水路の規模やそれを流れる水量もまったく異なっており、 多々良では畦道を歩いていてその大きさに驚いた。
良田とそうでない田もはっきりしていて、戸渡島辺りはかなり良い田らしい。 これは水利だけでなく土壌の違いもあるらしい。 土壌というものは隣り合う田でも時として大きく異なるもので、戸渡島には 見上川を通して肥えた土が流れてきているようにも思えた。 それが米の収穫量を大きく左右することを考えると土壌改良も大事なことで あり、農家の方が努力する気持ちも良く分かった。

この地域の人々にも大変お世話になった。
探している人の家まで車で送ってくださった方、飲み物を出してくださった方、 隣の地域の担当者は昼食をごちそうになった上に、お土産までもらっていた。 こういう触れ合いもまこと感慨深いものだった。

この調査の間に私が考えたことは、比較的低地にあるこの伊万里地方と、 高地にある 私の故郷、熊本県の阿蘇との間に見られる相似点であった。 それは生活習慣であったり農業に関することであったりするが、 特にしこ名に関して、語源などはかなり似ているようだった。

例えば伊万里では、かつて城跡があったという話の城址(ジョウシ)、 武家の馬を置いていたとされる馬場(ババ)、および馬場の辻(ババンツジ)、 河で出来た平地の大谷内(ウタンウチ)などがある。
私の家の近所にも下城(シモンジョ)、古城(コジョウ)というところや 馬場(ババ)という場所があるし(現在ではいずれも元の場所を中心とした 広範囲を指すようになったため、小字の扱いとなっている)、 大谷内と同じ意味の河内(コウチ)という場所がある。
三段田(サンダダ)、前田(マエンタ)など語源がすぐに分かる場所が多い。 寺社の名がそのまま地名となったものも結構ある(**寺など)。 語源的にはかなりシンプルなものである。

しこ名というものは、その土地の人が覚え易いものであるべきだ。 その意味では語源がシンプルなのは当然なのであろう。 その言葉とその土地が強く結びつくことが大事であるからだ。 また、しこ名は発音しやすいものでもあるべきだ。 しこ名は口語の特性のため、より発音しやすいものに変化していく。 方言を取り込むのは自然なことであろう。
私たちが今回調査したしこ名はそのある意味洗練されたものである。 年配の方でもなかなか思い出せないようであったが、消えていくのは非常に 残念なことといえよう。 農業が以前に比べ衰退したこと、地元の方が正式な地名を用いるようになった ことなどがその大きな原因のようだ。 また、田のしこ名というのはそこの所有者が名付けたものも多く、その当人 および家族が亡くなってしまうと後世に残されにくい。
口語ゆえ残ったものだから口語らしく消えていくというのは仕方がないので あろうが。


9、調査当日の記録

8:15 九大六本松キャンパス集合
8:30 出発
10:30 最初の調査地、府招下に到着
11:30 担当の調査地、多々良・駄地・里に到着
早速河原さんのお宅を訪ねる
12:30 昼食
13:00 吉牟田さんのお宅を訪ねる
15:00 松尾さんのお宅を訪ねる
16:15 帰省のバスに乗り込む
18:30 九大六本松キャンパス着