歩き、み、ふれる歴史学 調査日;一九九八年七月四日 調査地区;佐賀県伊万里市東山代町里(さと)区 1:まちの概要 私達が調べた里区は、東山城町のなかで二番目に戸数の多い区で、五百世帯近い人々が住 んでいる。昔からの家々に加え、臨海部には新興住宅地もある。スーパーマーケットあっ た。町の北部は海で、干潟が広がっている。北から南にむ家ってなだらかな上り坂で、平 地は少ない。海沿いの町と農業の町という二つの側面を持っているまちである。 2:しこ名について 区長の家にいくと、明治時代の地図などを見せてもらい、その後車で区の周りを一周させ てもらった。貴重な話は聞けたのだが、あまりしこ名と呼べるものはなさそうだった。も っとも、区長が言うには、しこ名がそのまま字名になったということなので、それらを記 載しておく。 里(さと) この地区全体の呼び名となっている名前で、江戸時代の頃、里一帯は武家屋敷だったらし い。現在、武家屋敷は残っておらず、道の両脇の竹垣のみが、かろうじて当時の面影を残 している。この竹垣はとても貴重なので、今のまま保存したいと区長は語ってくれた。ま た、里地区の山に近い側の一帯を特に小路(くじ)と呼んでいたらしい。山のほうへ 家を構えることのできる武士ほど、身分が高かったらしい。現在でもこの地域は住宅地で ある。区長も戦争前までは里に住んでいたそうだ。 五反間(ごたんま) この地域は今も田園地帯である。因みに言うと、昔一番米が取れていたのが、この五反間 あたりらしい。一反につき八俵ぐらい収穫があったらしい。 野入(のいり)・川向(かわむかい) 里川の南側に位置する地域。現在も田園である。 正手(しょうで) 現在の小学校のあたりから海にかけての地域。広い道路がとおっているため、沢山の家や 店がある。 高垣(たかがき)・陣の内(じんのうち) 今も昔も田園地帯。昔陣の内では麦を裏作として作っていた。 大坪(おおつぼ) 今の三反池の東側あたり。ここには「ぜにがめ」と言うしこながあったらしいが、詳しい 場所はもう分からないと言われた。 七郎峯(しちろうみね) なだらかな山地で防風林の役目も果たしている。水利の都合上、ここは昔から畑作地帯で、 養蚕のために桑の木などを作っていた。現在は、みかんやぶどうや芋などを作っている。 後川(うしろがわ) 七郎峯の横が後川である。ここも田園地帯で、道路沿いに二十軒程度民家がある。 新田(しんでん) 干潟を埋め立てて、文字どうり新田にしようとしたが、塩分があったので適せず、炭坑の ボタ置き場となっていた。その後、積水住宅がここを買い取って、建て売り住宅地として 現在に至っている。 蕨野(わらびの) 昔は田んぼだったらしいが、町の拡大とともに、住宅地になった。古くからの住宅 地もある。 古町(ふるまち) 蕨野の中で、特に昔のメインストリート一帯を古町と言う。 舘(たち) 今の神社のあたり。話を聞かせてくれた区長さんの家もある。ここも昔武家屋敷があった。 2:むらの水利 次に、むらの水利についてだが、里地区の田んぼを潤している水源は大きく分けてため池 と川の二種類ある。ため池は、里区内にある三反池と、里のすぐ南の東大久保にある鹿山 ため池の二つから引いている。鹿山池の水は、東大久保地区と共同で使うらしい。川は、 里川と後川の二つの川が主な川である。 いでと橋について: いでと橋についても聞いた。面白いことに、いでの名前と橋の名前がほぼ同じ順番なのだ。 上流から順に示すと、 伏原(ふしわら)―高垣(たかがき)−川向(かわむかい)−よしき−峯ノ前−野入 この順番で橋やいではある。 三反池(平山ため池) もともとは平山ため池と呼んでいた。三反池の名の由来は、鹿山池が通称ロクダン(=六反) と呼ばれており、平山池はその半分くらいの大きさ、つまり三反のいけということでさん たんいけになってしまったという。 鹿山ため池 鹿山池の記念碑 ;干ばつについて; 一九九四年の大干ばつは、この里地区にも多かれ少なかれ被害が出たらしい。炭坑の掘り 跡から出る豊かな水によって満たされているこれらの水源も枯れ、仲のよい隣の家とまで も水のことで喧嘩をしていたらしい。また、昔の川の上をなぞるように田んぼが枯れてい ったらしい。昔の川の跡がくっきりと分かったと区長は話してくれた。 歩き、み、触れる歴史学 1EC98176S 和智 俊諭 1EC98204W 坂梨 公一 3.米の保存/むらの過去 当時、一人当たり二俵のこめがあれば、1年間暮らしていけたらしい。米は、モミのまま 保存した。戸櫃に俵のままつんで、籾殻を敷き詰めてねずみ除けにしたらしい。 五十年程前のむらについて少し述べておく。これまでの話の中に少し出てきたが、ここら 一帯は炭坑があって昭和三十年頃まで石炭を掘っていた。その頃は、出稼ぎの労働者が沢 山流れ込んできていて、活気もあったが、治安も悪かったと言う。区長が言うには、今の ほうが静かでいいよとしみじみとかたってくれた。 4、その他いろいろ @ 区長について 我々が話をしてもらった区長は、昭和三年生まれの七十才の方で、石井澄男さんという。 職業は町の新聞屋さんである。話によると、なんでもこの里というところは、松浦藩と鍋 島藩が争った際、鍋島藩に譲られた土地で、区長のご先祖はそのとき柳川から移り住んで きたらしい。ちなみに区長は、士族の末裔であることを誇りに思っていることが、話を聞 いている間、ひしひしと伝わってきた。区長に海について尋ねると、春先に干潟でタコを 一日に十匹くらい取っていた話や、冬の霜が降りるような朝には決まって海流に流されて 打ち上げられたタコを取っていた話や、山城にイルカが来て大騒ぎだった話などを聞かせ てくれた。 A 神社について しこな(小字)でいう舘に青幡神社がある。現在、公民館の前をとおる真っ直ぐな参道があ るが、明治の地図にはなにもないことがわかる。私たちが調査しているとき、丁度道幅を 広げる工事をしていた。 B むらの将来に付いて 区長さんが、むらの将来についていろいろと語ってくれた。まず、広々とした田んぼがあ るにもかかわらず、専業農家が1軒しかいないということだ。その最後の1軒も、息子さ んがサラリ−マンをしているので、0軒になるのも時間の問題らしい。あとは人口の問題 だ。これ以上人が増えるときついと、区長は言っていた。 |