歩き,見、ふれる歴史学 大久保調査レポート 飯田広希 有里幸樹 しこ名 大坪、 綾川、大野、神山、柴原,坂口、平野、久保、七郎峰、山角、東下浦丸、西下浦丸、平中浦丸、鹿山(ろくさん)、馬立馬(またいば)。 自分達が、調べられたしこ名は15。その位置、名前は調査に協力してもらった方が所有していた資料でかなり確かな物で間違いはないと思われる 水利 大久保では田に引水される水はため池から取り入れられ、山田池、菅牟田池、鹿山池、池上池、烏帽子池、平の田池など10以上もある。その多くは明治初期から大久保の人々によって作られたものであるが、これらのため池が整備されるまでにはいろいろあったのである。 大久保では明治10年頃から大伊万里炭坑を継承したが、このうちの国見炭坑採掘により里川上流の流水が減少し灌漑用水不足、農地の地盤沈下、家屋の傾斜、飲料用水の枯渇などの鉱害がが随所に発生したのであるある。そこで区民達はあい語り合い、炭坑ならびに関係機関に鉱害復旧の陳情を行い、また昭和53年1月は大久保鉱害被害者組合を結成しより一層の鉱害復旧に努めたのである。そしてついにはこの区民の努力が実り通産省より認定を受け昭和55より家屋復旧工事が始まり昭和60年に原形復旧、圃場整備工法による農地復旧とため池工事完成、更に昭和63年には簡易水道施設が完工し一応の工事が完成したのである。これらの事業概要は、 農地 15.5ヘクタール 復旧費 9億4000万円 溜池 池の上、菅牟田、山の田 農道 4.329M 水路 8.101M 家屋 56戸 復旧費 7億6500万円 簡易水道 22戸 復旧費 1億2000万円 関連工事費 2億円 合計 20億2500万円 である。 4年前(1994)の伊万里を襲った大旱魃はこのような区民の努力にもよるが、炭坑から出る水によってだいぶ助かったようである。 このように、水に関しては区民の努力もあって問題は起こらず水争いも大きなものはなく、あっても個人間の争いにとどまったらしい。 村の道 村の道について「何々ノウテ」などという言い方の道はありませんかと尋ねると、それは「アカミチ」(国の道という意味)のことかなと首をかしげられ、あまりよく知らないようだった。 また隣村への道は野を越え山を越え状態でその道を主に飲料水、肥料、生活用品などを牛に乗せて行き来をしたらしい。そのような道も昭和50年頃には、自分達が歩いた道のように整備されたものになったらしい。 農業 種付川といって共同で川の澱みを利用し、4月中旬頃より浸水して苗代に播種していた。 田植準備のおおきな作業は田地の水田化。牛馬で鋤により耕起砕土する。大きなくれ(土の塊)を馬鋤で牛馬にひかせ、何回も往復する間に、くれが小さくな耕起すると、大きなくれが出てくるので、馬鋤や、くれ叩きにとって砕土する。耕起砕土が終わると、次は水田に水を張って、代掻である。五月下旬頃より、山野から刈り取った、かしき(青草)を田一面に散布し鋤で耕起する。2、3回すると、くれも小さくなり水田となる。この仕事を中代という。冬の間、ネズミやがにが畦に穴を通じて水を逃がす。これを防ぐため、どろどろになった土で畦を塗りを行う。田植時期六月中旬になると、植代鋤である。中代と同様牛馬に鋤を引かせ耕し起こし、場所によって高低があり、水田の面を均にする。 米作りで最大の重労働は田植えであった。田植え方法は横綱植え、型付植え、前進植えと腰を曲げての手植えで労働は大変であった。毎年六月中が田植えの時期、この時は暁に出てつきを踏んでかえる。田植が終わると、ご馳走して、さなぼりが行われる。 集落全戸田植えが終わると全戸氏神様に集まり、酒肴を持ち寄り、神主を呼び、その年の豊作祈願を行った。 今のような化学肥料はなく、中国より輸入された大豆粕、魚粕(干し鰯)が使用されていたが、高価なため使用農家も少なかった。山野草(かしき)刈りは五月から六月が最盛期で、水田の肥料として最適で、早朝より山や草刈り場に出かけ、草刈りして朝食、一仕事して朝がい、また働いて3時ごろ平がい、また働いて夕食。一日4食が普通であった。夏場の青草は家畜の飼料に、また糞尿は、有機肥料として使用し、農家の家屋は、母屋と並んでかならず納屋、牛馬舎、堆肥舎が建っていた。戦前から終戦後までは伊万里町や各炭坑住宅から、リアカーや大八車で、人糞尿をもらって肥料として使用され、このようにして肥料不足を補充するため、自給肥料の増産が叫ばれ、各地区に共進会が行われていた。有機農業が叫ばれる時代に、有機肥料をいれることによって、土壌改善もでき、作物の出来具合もよくなっている。 稲作の問題点は害虫駆除が主に目的であった。苗代田や水田の片隅に石油ランプの誘蛾灯が設置され、夜間になると点火してがを誘殺する方法。灯火の直に水を張った器を置き、落ちた害虫を殺す方法で数滴の石油を足らした、この油層で虫を殺すしかけであった。 その他 日本では農業人口が減少しているが大久保ではそんなことはないという。区長さんはいう。確かに区の若者は田畑を離れて町で公務員やサラリーマンをやっているものが多く、田や畑で働いているのは年を取ったじいさんばあさんばかりである。しかし、その若いサラリーマンや公務員たちもやがては年をとり街での仕事をやめ村の田畑に戻ってくるというのだ。 自分はこの区長さんの話を聞いて一瞬はなるほどそうかも知れないなと思っても見たが、その後やはりそうではないと考え直す事ができた。それはとても当然のことでありほかの農村とあまり違いのないこの大久保だけがその例外だとは考えにくいからである。 最後に、自分達が調査に行った大久保の人たちがとても気持ち良く調査をさせてくれ、また誉めもしてくれたことにとても感謝の気持ちでいっぱいになり、いい体験ができたと思いまたこの授業をとってよかったと思った。 |