歴史と異文化理解A 提出レポート 村の名前:波多津町津留主屋村 話者: 市丸 定行(昭和22年生まれ) 市丸 義弘(大正12年生まれ) 市丸 康男 調査者: 河村 健司 荒木 慎一 一日の行動記録 まず、10時半頃現地に到着した。その後、道を歩いていたら、偶然手紙を送っておいた市丸さんに出くわしたので、すぐに家が分かり、しばらくの間あたりを散策した。約束の時間に伺ってみると、市丸さんはあまり詳しくなかったので、古老の方を紹介してくれるように頼んだ。すると、2時から公民館で健康祈願の行事があり、それに村の人たちが大勢くるといわれたので、行く事になった。2時に公民館に行ってみると、5,6人のおじさんおばさんに囲まれ、一斉に話し掛けられた。しこ名や、昔の話をいろいろ聞かせてもらい、その後、一緒に健康祈願までしてもらった。村人のほとんどがそこに集まっていたので、ほとんど全ての情報を仕入れる事ができた。その後、4時45分のバスに乗って帰った。 しこ名一覧
使用していた用水
この他にも、法行橋のすぐ側にも井手があり、この井手からの水は、カンノンドの北の川向かいのタンナカに流していた。また、以前は前田上池や前田下池から大部分のタンナカに水を流していた。しかし、現在では、これらの池は使われておらず、主にポンプなどによって水が流されている。その他には、小字貝瀬にあるカイゼため池や、小字下大谷にあるナンゴラため池(かになどをとって遊んでいたそうである。)などからもタンナカに水を流していた。 また、1994年の大旱魃では、やはり不作だったようだが、これといった対策もなかったらしく、それは水不足対策についての問いに対する、「いや、川から引いてたよ。」という答えにも表れていた。 米の保存 米は、玄米で保存していたそうである。また、鯨の油を農薬として使っていたそうだ。つるつるすべって虫がつかないのだそうである。 村の言い伝え 昔、戦に破れて逃げてきた武士たちが、津留主屋村まで逃げてきたが、そこで殺されてしまったそうだ。その霊を供養するため、津留橋のそばに墓碑をたてた。それ以来、その墓碑に触れると、原因不明の腹痛に襲われ、それは病院に行っても治らず、御払いをしてもらってやっと治ったというのである。現在、津留橋も新しくなり、中山川の改修工事が進められているため、大谷橋のそばに移動されている。ちなみに、その霊は、バッソン様と呼ばれている。 村の行事 ちょうど現地調査に行った日が年に一度の健康祈願の行事の日で、村のほとんど全員が来ていた。この日には、お坊さんを呼んで、お経を読んでもらったり、説教をしてもらったりする。その後には、宴会が催される。他には、岸谷にある神社に皆でお参りに行ったり、春に祭りが催されたりもする。これは豊作を祈る祭りである。 村のこれから 現在、村で一番の悩みとされているのは、過疎化と後継者不足である。若者はどんどん都市に出ていってしまうらしい。実際、手紙をさしあげた市丸さんのお宅でも、長男が福岡市の城南区に出てきているそうである。村の人の話を聞いたところでは、過疎化はもうどうしようもないところまできているように思われた。寂しそうな村の人の顔が印象的だった。 現地調査に行った感想 現地に行く前から準備する事がとても多く、帰って来てからもレポートを作成したり、地図に書き込んだりする作業に追われ、とても難儀した。手紙を出しておいた市丸さんも、いろいろな人にかけあってくれ、村の行事で集まった人に調査に協力するように頼んでくれたりして大助かりでした。みなさんいやな顔もせずに質問に答えてくれ、意外とすんなり終わりました。このレポートを仕上げるのが一番大変でした。 |