伊万里市煤屋波多津町現地調査レポート

板井 充彦
大坪 桂輔


<外観>

波田津町煤屋は伊万里湾東北部、福島の対岸に位置し、丘陵と干拓地が主体である。人々は国道204号線の通る谷あいの干拓地(ウメヤ新田)をはさんで西側の、かつては半島であった丘陵部を中心として生活を営んでいる。バスを降りて草いきれの立ちこめる坂道を上ると三叉路に出た。小ぢんまりした公民館が辻堂よろしく鎮座していて何となくほのぼのとした気分にさせられた。区長の田中健一さんが何かにかこつけては村中の人が集まって無駄話に花を咲かせているのであろうその「広場」のすぐ下手にある自宅の縁側で僕たちを待ってくださっていた。


   <語り手>

田中健一氏 字煤屋 昭和22年生 51歳
田中静男氏 同上 大正13年生 71歳

風通しの良い和室に通される。対岸の福島のながめが素晴らしい。そこで待っていたのが健一さんの伯父に当たる静男さんだった。永く区長の座につき伊万里の市議会議員をも務めあげた経歴の持ち主だそうで、煤屋について一番詳しい方であるということで紹介された。「年月の流れの下に」という自叙伝を出版しておられ、これを読めば煤屋のことはだいたい判ると言うことで本まで貸していただいた。


<歴史>

静男さんは最初に煤屋の歴史について話してくださった。その話によると煤屋は何百年にも渡り、松浦党波多守の一族の土地であったという。そして現在の煤屋の住民もその血を引いているという。それだけに秀吉の朝鮮出兵とその後の岸岳落城の悲劇のエピソードが未だに住民の胸から消えることはないという。岸岳閥孫の墓は村内にいくつも見られ、最近では少なくなったがそのたたりの話しも昔は幾らでもあったそうだ。

この話の中でしこ名ではないが歴史にまつわる地名がいくつか得られた。ゼニクラ(銭倉)殿ノ浦にあり、岸岳関係の豪族の本拠地だったと思われる。 バンニンノタニ(番人の谷)飯盛にあり、寺沢志摩守の追っ手に備えた岸岳残党 の番所があった。
ヤクシドウ(薬師堂)煤屋にある。岸岳残党が祖先を祭った寺の名残で、付近には彼らの墓が点在する。 
センボウシヤマ(千望視山)峠にあり、伊万里湾西岸の城山と狼煙で連絡を取り合った場所。


<干拓地>

朝鮮出兵の際に軍隊が出陣した場所について話が及ぶにあたって、昔の海岸線の位置や干拓地についての話を聞くことができた。煤屋はもともと稲作のふるわない土地で、人々は漁業と畑作によって暮らしてきたらしい。(ただし漁業と言っても魚よりも貝のほうが主であったという。)江戸中期になって干拓が始まり米の生産が飛躍的に伸びるが、唐津まで年貢米を運ぶ苦しさのため、新興村の馬蛤潟に酒樽つきで土地を引き取って貰うようなこともあったそうだ。干拓地については二つ地名を聞くことが出来た。

   ウメヤ新田:現在国道が通る谷あいの干拓地。個々を挟んで東側の一帯が入会地になっており、1月15日以降はカヤもタキギも自由にとって良かったということ。これに対し西側旧半島部は個々の所有地が厳然と区別されている。
シオアソビ:下灰浦にあり、干拓の際の潮遊地。


<水利>

煤屋には川らしい川がほとんどなく、昔から水には苦労していた。そのため井戸水に頼っていたのだが、かなり深くまで掘り下げなければならず、加えて金気が強く水質もあまり良くないらしい。水は貴重なため村の共有財産とされていたので、水を巡る争いは起こりにくかったという。


田んぼにはため池から水を引くのだが、個人で勝手にすることは許されず、皆の田に一斉に水を引くことになっていた。従って村全体が農作業の歩調を合わせ、それが村の団結力を高めていた。以下にため池の名前を東から順に挙げる。
ドゴウチ(土河内)
ヒロガリ
ダジ(駄路)
このうちメインで使われるのは、ヒロガリのみであり、後の二つは非常用。


<古道について>

いまでこそ国道204号線が村内を走っているが、昔から主要な交通路であったわけではない。ウメヤ新田の干拓以前には、西側半島部ではその稜線上に、東側では、海岸線沿いに主要な道が通じていたらしい。古道に関係すると思われる地名は以下のとおりである。
 ドウフ:煤屋にあり、南側から村に入る際には、ちょうど集落の入り口に当たる。『道府』の意味ではないかと静男さんは語る。
 ムラヤマミチ:現国道204号線の南側を走る。唐津へ年貢米を運ぶ道であったという。
 コシミチ(越道):清五郎の尾根筋上を通る険しい道。岸岳閥孫が使用した道であるらしい。
 アナガサカ(穴ヶ坂):ドゴウチのため池から谷筋を上った一帯のしこ名。戦前にはこの辺りまで開墾が進んでいたが、後に皆地ヶ浦に羽黒炭坑が出来てからは、皆そこに働きに行くようになり田ン中は打ち捨てられた。


<黒男神社について>

煤屋の氏神である黒男神社(角川地名辞典には、古記では『九郎大明神』と記載されているとあったが現在では、そのような呼び名は存在しないとのこと)はかつては、60メートルほど沖合の小島(現在では干拓で陸地とつながっている。この島の名前は得には伝わっていないが、おそらくは島そのものが『ウジガミサマ』と呼ばれていたのだろう)にあったのだが、明治の神社合祀でいったん畑津の田島神社に合併されてその際、現在の半島上に分神が祀られた。その後集会や参拝に便利なようにとドウフの辺りに移されるが、人の変死が相次いだりしてたたりを恐れて、再び半島に移された。この神社の夜間の灯明番は現在でも交代制で続けられている。ところで海に関する地名は非常に少ない。わずかに得られた海に関する地名をしたに挙げる。
 カミノシタ(神の下):現在の黒男神社の南側の湾入を呼ぶ。
 オオシマ(大島):現在の黒男神社の西側にある島。
 ウシステバ(牛捨て場):旧黒男神社があったしまのもう一つ西側にある島。現在は橋でつながっている。疫病にかかった牛を海中に捨てていたらしい。
 タケシマ:ウシステバのもう一つ西側にある島。岸岳閥孫の墓があるという。


<煤屋の暮らし>

・煤屋に水道が来たのはここ10年ぐらいであるという。それまでは前述したように水に苦労しており、大金をはたいて70メートルもボーリングして井戸を 掘った直後に水道が来たという話しも。
・電気が来たのは大正7年から8年にかけてとかなり早い。全戸に電話が付いたのは昭和50年代のこと。 
・煤屋の自治会の活動は、他のところと比べてもかなり活発である。例えば『農休日』を伊万里で最初に採用したのは煤屋であるらしい。また毎年行われる敬老会は現在まで72年間絶え間なく続いているとのこと。
・煤屋という地名はイメージが悪いということで変更する話も会ったらしい。
北は福島、南は福田ということで『福屋』になりかけたこともあった。
・結婚はかつてはほとんど村内で行われていた。しかし今では村内での縁談はまずない。
・昔は青年団の活動も活発であったがやはり今は活動していないに等しい状態にある。