歴史と異文化理解Aレポート 村の名前 佐賀県伊万里市波多津町中山 話者 田中茂雄;昭和3年生まれ 調査日 1998年6月28日 調査者 木下陽介 伊勢田泰助 一日の行動記録 10:20 到着 10:30から30分間大山神社にて調査する内容について 打ち合わせ 11:00から12:00まで話を聞く 12:00から13:00まで昼食 13:00から15:30まで再度話を聞く 16:50 帰宅 しこ名一覧
村の水利
村の耕地 村の高い位置にあるのが湿田で、低い位置にあるのが乾田。戦前の乾田における収穫量は、1反当り3俵で、湿田ではその半分であった。肥料は昔、配給制で、野焼きしたときの草や、牛の堆肥を使っていた。化学肥料は、昭和22・3年頃までは硫安、カリ、リン酸を自家配合していた。しかし、現在の化学肥料と比べてあまり性能はよくなかったようだ。 村の行事 昔から田植え前の5月に、五穀豊穣を願う春祭りを行い、7月頃には、魔除けの御祈祷を行い、11月頃には秋祭りを行い、大山神社にお礼参りをしている。今は行っていないが、夏の御祈祷のときに火踏みを行っていたらしい。そして、それぞれの祭りのときに、3.4日かけて酒盛りをしているそうだ。 村の道 細かい道は村の人々が石を割ったりしてつくっていた。その道は、田植えなどのときに、村の人々がその道の近くにある水田の主を手伝うときに使われたり、その水田の主が手伝ってくれた人々のために食事や酒を運ぶのに使われた。学校道は、現在でいう中山の北にある県道であった。昔は、中山橋はなく、飛び石で、雨が降ったときは通れなくなったそうだ。そして、昔は道があまり整備されてなく、黒川町真手野にいくのに1時間程度かかったそうだ。 米の保存 中山では、米は、もみでとらないらしくて缶の中に10俵ぐらいを入れて保存していたそうだ。 村の過去 昔は、米以外の収入を得るために、若い人は炭坑に日雇いで出稼ぎに行って、家の中では木炭焼きをしていたそうだ。炭坑の収入は1日に1円であった。しかし、中山では、それほど出稼ぎで村を離れる人はいなかったそうである。 村のこれから 話者の田中さんの話では、農業をする人が減少しているのが頭の痛い問題だそうだ。今の若い人まではなんとか継承してくれるかもしれないが、そのあとは不安だそうだ。今後の展望は暗いとおっしゃっていた。しかし、若い人が、物を作る楽しみがわかるようになれば、村の農業もよくなるのではともおっしゃっていた。 調査をしての感想 調査をする前はなにかと不安だったが、実際現地に行ってみると中山の区長さんをはじめ親切な方が多かったので安心した。古老の方も、村の事だけでなく現在の中央や地方の政治のことや、人との付き合い方などを語ってくれて、とても勉強になった1日だった。 |