渡辺貴子 星 晴子 黒木美紗 伊万里市波多津町馬蛤潟(話者:井手悟、<大正11>、井手伝<大正12>、柴田辰己<昭和3>) 私たちは去る6月28日、伊万里市波多津町馬蛤潟を訪れた。区長の井手直人さんのお宅におじゃますることになっていたがあまりに早く到着してしまい、こんなに早く訪ねては失礼だということで、私たちはまず村の中を歩き回ってみた。そこでまず見つけたのは、「牛魂碑」という石碑であった。それは村の公民館の前にあった。実に形のよい石碑で、碑文を読んでみると馬蛤潟の干拓時に使われ、犠牲となっていった牛たちを弔うために建てられたものであった。次に行ってみたのは堤防であった。馬蛤潟は最初の段階では馬蛤潟橋までしか干拓されていなかったのだが、昭和42年にさらに干拓された。私たちが訪れたのはその堤防である。堤防の先は海であった。後でお年寄りの方から「イビンマエ」としこ名を教えていただくことになるその堤防の先の海を眺めてから、井手直人さんのお宅にうかがった。井手さんは私たちにとって幸運なことに私たちを歓迎してくれ、3人のお年寄りをすでに井手さんのお宅に集めてくれていた。そこで私たちはお年寄りの耳慣れない佐賀の方言から、最初はいささか緊張した雰囲気で、しばらくすると「嫁に来んね」と言われるほどなごやかに以下の内容をお聞きすることができたのである。 通称(しこ名)一覧 しこ名がそのまま小字になっていることが多いようだった。
◆内野へ行くにはコウシモミチ(河下道)を使用していた。 ◆伊万里(マチ)へ行くにはタケヤマミチを使用していた。 神社:小字深浦のうちにある神社のことを リュウゴサマ(竜宮様)《堤防の神様であるらしい》。 使用している用水 オチアイ井手、オチャイデ(堰) 波多津川 馬蛤潟のみ (波多津川と内野川が落ち合っているところに存在していることからこの呼び名がついた) 上井手(堰) 波多津川 馬蛤潟のみ 中井手(堰) 波多津川 馬蛤潟のみ 下井手(堰) 波多津川 馬蛤潟のみ どの堰でも水争いはなかった。 コウシモ(河下) 貯水池 馬蛤潟のみ ウワガタ(宇波潟) 貯水池 馬蛤潟のみ ウーダニ(大谷) 貯水池 馬蛤潟のみ 3つのこの貯水池は部落(馬蛤潟)の土地にあるわけではないが水利権は独占 していたので水争いはなかった。自然と水が流れてくる周辺で一番低い土地に あるので水利権をもっていたのではないかという話であった。 ◆力武新田の北部は地図上では土地になっているが、現在は遊水地となっている。(雨の日に田が水につからないようにするため。)そして、そのためナカンマの南の貯水池を埋め立てて、畑にしている。 ◆1994年の大旱魃の際には、川の堰からの水と貯水に頼っていて、水がなくなるとそのまま放置した。 ◆かつては生活用水(飯、茶)は「出水ん出ちょるとこ」を掘った井戸を使用していて、戦時中までは全体で4つの共同井戸を使用していた。(共同井戸には特に呼び名はない。東から、上、中、下と曖昧に表現していた。) 戦後しばらくしてから1軒に1つ井戸を掘った。 ◆昭和40年ぐらいまでは共同風呂が存在していた。混浴で、ほぼ2メートル四方はあった。一度に6、7人は入れた。東から上組(カミグミ)、中組(ナカグミ)、下組(シモグミ)と呼ばれていて、中組と下組はゴエモン風呂、上組は一番広いコンクリート造りの鉄砲風呂だった。中組と下組の風呂は深さがあり、「タキモン」(つまり、マキのこと)がたくさん必要だった。その風呂にみんなで入るのが農作業の後の楽しみだったそうだがみんなで使うので湯がすぐなくなってしまったそうだ。下組は9軒が使用していて、一度に大勢が入らないよう時間をずらしたりしていたらしい。ポンプを導入したのもかなり遅かった。 ◆現在、馬蛤潟で使用している水は、農業用水としては川・ため池で、生活用水としてはボーリングした井戸と市からの水道を使用している。集落のある道に沿って集落配水もできている。 村の耕地 ◆馬蛤潟で一番米がとれたタンナカは、マエンタンナカ(前田)とシラガタ(白潟)で、豊作のときは7俵、たいてい6俵はとれた。これに対して米がとれなかったのはシンオキ(新沖)で、旱魃のときは干拓地なので塩が噴き出た。海が近くて用水に塩が混じるせいで3俵くらいしかとれないので、あてにしていなかった。 ◆力武新田は米を作ることを目的として整備されたが、昭和40年の減反政策のせいで畑として用いることになってしまった。煤屋と共同使用している。 ◆竹の先に川の藻をしばりつけて振って、「もう(雨が)ふってくれ〜」と雨乞いをしていた。「もう」と、川の「藻」、「降る」と「振る」をかけている。 ◆肥料は、化学肥料の前は人糞と牛糞だった。人糞は、小島の炭鉱まで船(「こやし船」と呼んでいた)で片道20分かけて取りに行っていた。船は1トンくらいの漁船で、行きは、馬蛤潟でできた野菜を積んで、小島まで売りに行き、人糞をもらって帰ってきて4、5人で運んでまいた。波の高い日には、糞を入れたタンクが揺れて体にかかった。小島のひとがお金が持っていなかったときに「野菜を売ってもらうかわりにおなごを抱いて行ってくれろ」と言われたそうだ。牛糞は、耕作用に飼っていた牛の糞を利用した。 ◆まき(タキモン)はそれぞれ所有しているそれぞれの山からとっていた。 米の保存 米は籾を天日で乾かして、「木で囲った」小屋で保存していた。(つまり米を保存するために木造の小屋があったのであろう。日がたっていてもおいしかったそうだ。区長の井手さんのお宅で話をうかがったのだが、井手さん宅には今でもあるらしい。「まだ家の裏にあるよ」とおっしゃっていたから。)それからは区に1台ある籾すり機を使用し、5俵または10俵入りのブリキの「ガンガ」と呼ばれる缶に保存するようになった。 村の過去 米以外ではこの馬蛤潟は麦・菜種などを稲を刈ったあとに作っていた。菜種は品質が良いことで評判で、できた作物は地元業者だけでなく、地区外の伊万里(伊万里に菜種油を作る工場があった)、浜崎(1966年以来浜玉町浜崎になっている)からも買いに来ていたそうだ。昭和30年代まではミカンも作っていたが、採算がとれないのでつくるのをやめたらしい。 村のこれから 「村のこれからの展望を教えてください」と尋ねると、「村のこれからねえ・・・どうなるんじゃろうなあ」とあまり希望的でない返事が帰ってきた。そして兼業でやっていくしかないだろうなあ、ともおっしゃっていた。つまり米作りとサラリーマン、というわけだ。 こうして私たちはこのようなお話を聞くことができた。3人を区長さんのお宅に一挙に集めていただいたおかげか、お年寄り同士が話すときはかなりの佐賀弁で、聞き取りにくく多少難儀したが、脱線しつつもしつこく分からない単語を聞き返したおかげでなんとか形にすることができた。(ときには話を聞いてもらえないほどにお年寄りが昔話に熱中していたこともあったが。)今までこんなに真剣にお年寄りの昔話を聞いたことがなかったが、今となっては体験することの出来ない面白いお話が聞けて、とても楽しい1日だった。協力してくださった3人のお年寄りが毎日を楽しく過ごされ、長生きされることを願ってやまない。 |