歩き、み、ふれる歴史学

波多津町 板木
H.10 6月28日(日)


調査者:山下 千妃呂
若月 紀代子

話者:前田房太郎<大正9>、
畑山亘<大正14>、
前田博行<昭和22>、
加川周史<昭和2>

字:剛里ヶ坂(ゴウリガサコ)、松ノ尾、大抜ヶ、梶の尾、長谷、川宇治(カオジ)、
屋敷谷、湯ノ木、向板木、火ノ口原(ヒノクチバル)、前田、小野原、梅ノ木谷、長田、
上ノ木場、(ウエンコバ)、白木、*除ヶ
(*印は、プリントからは読み取れず、探したが見つからなかった。)

通称(しこな):トウミダケ(唐津が見える)、ヒラコバ、アラコ、オオヌゲ(ウーヌゲ)、
カジノ、エギノヤマ(えぎに通じているから)、ハナバタケ、ゴウシ、ホロンカシ、
サロウジ、シモノカゲ、コノハル、ホウギョウ、ツキカネブチ、ミヤンシロ(お宮の後ろ)、
ババンカワ(行合野川で、ばばの橋の下をながれている川のこと)、ゼンシュウ、
キャーダ*1、ヤマナカ、ウエンコバタメ、カマヤキ*2(昔焼き物を焼いていた。最近までそのかまが残っていた)、サカド(通学路。坂である)サカドバシ(サカドとつづいている)
* 1 ここではかのことをきゃと発音する
* 2 実際、かまで焼き物を焼いていたのは、きしたけ城の管轄下のとき
** この辺りはしこ名と字名が同じ場合が多い


<名前の由来>

ばばの橋:法行城の馬場(兵隊が馬の稽古をする場)で飼われていた馬が亡くなった際に、この辺りに埋葬した。馬の墓場であったので、馬の首が出るという噂があり子どもたちは恐ろしくて通れなかった。

ツキカネブチ:板木に浄光寺があり、天平勝宝年間(749〜)鐘桜の鐘が霊光の中に現れた。童子によって下され、童子共に空を飛び行合野川と中山川の合流天の渕に沈んだと言われている場所。話者(加川周史さん)が子どもの頃は、非常に深かった。現在は、たいして深くない。


<古道について>

エギノヤマを通っている道は、板木の人が、主に隣りの村、北波多村のえぎという集落にいる親戚に会うために通った。歩いて通る道だったので、たいして広くない。(1mもないくらい)物資はこの道ではなく川を通った。


<水について>

大きな川があったので、水にはあまり苦労はしなかった。昔、大庄屋が板木にいたので結構なんでもそろっていた。畑津にある溜め池(通谷溜池)も板木のもの。しかし、土地は畑津のものなので溜まった水をかりるということで昔から3万円払っている。危機はあまりなかった。水は共同でとっていた。田によって井堰が決まっていてそこから順々に田に水を入れていった。(隣の田へつながっている溝がなかったので一番上の田んぼに水が入ったら、あぜを掘ってつぎの田に水をいれるというようにしていた。)水利権は、下流の北波多が持っていた。(下流には水がいかないから。これは一般的なことだった)旱魃のときは、自分の田の側を通っている他の田への水路から、水利権を持っている村の見回りがいない時をねらって、勝手にくみ上げて乗り切った。川から遠い人は、トラックで桶を持ってきた。川が干上がったときは、川の水溜まりから水を取った。今はポンプだから良いが、昔は、てつきのポンプや、バケツを使って水をとっていたので、1994年の旱魃が30年前だったら、乗り切れなかったかもしれない。


<湿田、乾田について>

この辺りでは、湿田のことを‘フケタ’、乾田のことを、‘ヤマダ’と言っていた。この地域は、山間地なので、乾田しかなく、今の棚田のようなつくりだった。前田が一番よく取れる田つまり、一等地。次に、白木の田が、よく取れた。昔白木の田は、違う部落のものであったが、百姓たちが夜逃げをしてしまうくらい、年貢の取りたてが厳しかったので、そこの人々は誰かに譲りたがっていた。そこで、よそ者である板木の人々に、酒を飲ませだまして、その白木の田をあげた。(押し付けた。)それ以来白木の田は、板木のものとなった。今でもその田はよく取れるので、ラッキーだった。昔この辺は、全体的に年貢米の取り立てが厳しく、貧しかった。人々は何とか、自分の田を守ろうとした。そのため、自分の田に影を作ってしまう他の人の山の木を勝手に切り取ってしまうことは、暗黙の了解とされていた。そのうちにそのことは、慣習になった。木は二軒(=約360m)だけ切り取ることが許されていた。


<米について>

・保存は、板を一枚一枚すえて虫が入らないように密閉した。
・ 白米にするには、まず縄を編んで、さらにそれを編んだもの(4畳半位)の上にてんぴ干し(ねえふき)をし、共同のひきうすのようなもので玄米にする。さらに、とうみ(風を送ってもみを飛ばす)で殻を除き、うすにいれきねでついて白米にする。


<農業以外の現金収入について>

この辺は山が多いので和紙が一番の現金収入だった。(米はあまり現金収入にはならず、和紙の方が現金収入として多かった。)また、木炭やすみ、杉やひのきなどの木材を売って現金収入としていた。そのほか、養蚕、たばこ、いりこをほすためのよしずのようなもの(雨の日や夜なべをしてつくった。かやの茎を切ってきて干して編んだもの。漁業の人に売った。)。今は、しいたけの栽培をしている。


<草切り場について>

肥料として利用した草の草切り場は、ゼンシュウ・エギノヤマ・ゴウリガサコが主であった。そこでは良い草が無くなると新しい草が生えるように古い草を焼く野焼きを行っていた。そして、そこに新しく生えた草を刈り取り肥料として田にまいた。 田植えに利用しいていた牛のえさとしての草切り場はそれぞれの田のあぜの草を利用していていた。


<田島神社について>

田島神社は、波多津郷にほかにもある。
筒井・・・田島神社・・・創建不明
畑津・・・田島神社・・・創建建武元年(1334)
板木・・・田島神社・・・法行城鎮固のため創建

*たじまじんじゃの‘じま’は、神社には、‘嶋’とかかれていたが、もらった資料などには、‘島’とかかれていた。ここでは、‘島’と書くことにする。


田島神社が波多津郷に存在する理由

宗像三女像は玄界灘から山陰北陸沿岸を古代支配した海部族=日下部族の守り神であり、加部島の田島神社を守り神とする部族と同一系統の人々が波多津郷に土着し、先祖の祭る神を祭ったと考えられている。
これ故,板木の田島神社に祭られている神様は、女の神様であるとされている。また、波多津辺りを元こう(文永の役1274、弘安の役1281)で活躍した松浦水軍が支配していたので、板木の神様は水の神でもある。

* 宗像三女像とは

天照大神の弟君素さん鳴命が母親の死を悲しみ、父親から命ぜられた国をおさめることができず勘当を受け、姉大神に別れを告げに高天原国に上がった。その際、大神は命の勢いが荒々しいので、乱慕の心ありと天の安川を隔てて命に累心なきを求められた。命は剣を大神に渡された。大神はその剣を三つ折りにし噛み砕き気吹にしてふかれると、その霧の中から誕生されたと言われる三柱の女神のこと。

法行城先祖薬師如来例祭
毎年7月5日に行われる祭り。法行城の城主とその子孫の供養のため行われている。

田島神社
田島神社は以前、神仏混交であり、そこに埋葬されることができるのは法行城一族のみであった。また、戦争の祈願祭にも利用されていた。


<一日の行動について>

10:20板木に着く。
10:25区長である前田博行さん宅に着く
手紙に11時前後に伺いますと書いていたので、せめて10:30になるまでと思って家の辺りをうろうろしていると、前田さんが出てきてくれた。畑山さんに電話をしてよんでくれて、前田博行さん、前田房太郎さん、畑山亘さんに話を聞いた。
12:00すぎ前田博行さん宅を出て、お昼ご飯を食べに行った。ちょっと雨が降ったあとだったので、地面が湿っていて、食べる場所がなくて困ったけど、川の近くのコンクリートの上で食べた。
13:00前田博行さんに紹介してもらった加川周史さん宅に着く
そこで話を聞いて、資料をもらった。
14:15加川周史さん宅を出て紹介してもらった80歳くらいのおじいさんを訪ねたが、入院中だと言われたので、とりあえず田島神社にいった。 階段が長かったので、ちょっとためらったけどぜひいってみなさいといわれていたので上った。
14:30〜さまざまな人に声をかけて、この辺のことに詳しい人を探したが、前に訪ねた人たちの名前ばかりを教えられて、うまくいかない。
もういちど他の人を紹介してもらおうと前田博行さん宅を訪ねようとしたら、家の前におばあさんが2人いて、話をするうちに「今の若い子は」という話になり佐賀弁も混じって話が良く分からなくて、きりの良いところで失礼した。仕方なく今度は加川さんのところを訪ねてまた人を紹介してもらったが、そのかたが不在だった。その後またしばらく尋ねてまわったが、見つからずバスの時間もあったので、また前田さん宅を訪ね、2つの話を合わせて、2、3わからないことがあったので、それを房太郎さんに尋ねた。
16:40バス停に着く。


<感想>

知らない人の家に行って話を聞くというのは初めての経験だったので、行く前から言葉づかいや、もしいって悪い人にまちがえられたらどうしようと考えてどきどきしていたけど、行ってみるとみんなとても親切で、歩いていると声をかけてきてくれたりして、嬉しかった。ただ、なかなか適当な人にあたらなくて、苦労した。はじめは、1度に3人からはなしをきけて順調だと思って喜んでいたけど、2回目に紹介してもらった人が、入院していて、そこからうまくいかなくて大変だった。結局、自分たちで、新しく人を探し出すことができなくて残念だった。今回の調査で、昔のこととかが忘れ去られてきていることを実感した。これは何とかしなければと思った。何ができるかわからないけどこれから考えていこうと思う。大変だったけど、天気もそんなに悪くなく、なかなかできない体験ができてよかったと思う。疲れたけど楽しかった。
若月 紀代子


私たちの訪れた波多津町板木は、住宅地域と山の比率が1対20はあろうと思えるほど山ばかりのところで、山間地の少ない田の周りに人々は暮らしていた。まず訪れた前田さん宅で話を聞きあまりの言葉の違いに驚かされた。ある程度予想はしていたものの、ここまで理解できないものかと思わされた。前田博行さん(50代位)なしでは理解できなかったであろう。できるだけ多くの人の話を聞こうと村の中を、昔の事を知っていそうな人(70〜80の男性の方)を対象に探してもおらず50代60代も探したが仕事にでている。この辺りは日曜は休みという感覚がなく天気の日は仕事、雨は休みという習慣が残っていた。また、探している際、私たちの年代とその前後(15〜30歳)の人たちが見当たらず過疎化の現状を知った。大袈裟であるが、世間からかけ離れている秘境の地のようにおもえた。しかし、近代化した今の世の中、このような昔の姿をほぼ残している大事な地域でもある。そのような地域を、今回訪れることができ大変良い経験となった。
山下 千妃呂