歴史と異文化理解A(服部教官) 現地調査(6月28日)レポート 調査した村 佐賀県伊万里市波多津町畑津 話を聞いた人 原田 良知さん(昭和12年生まれ) 金子 典さん (大正9年生まれ) 調査者 木村 浩幸 S1-12 今村 真志 S1-12 しこ名(カタカナ)一覧
村の水について 溜め池から各田んぼへ配水している。溜め池の栓は区長が権利を持つ。配水の約束事は特には決められていないが、溜め池は秋の彼岸から春の彼岸まであまり水を使用しない為、半分位空にしてほしておく。過去に水争い等は特になかったが2・3人水番を決めて見張らさせた。溜め池では、れんこんがとれ区長にめでたい日に掘ってもらっていたが最近は、農薬の為にれんこんはなくなってしまった。 1994年にあった大旱魃について この年の旱魃はものすごいものだったらしいが、その時の水対策は、公民館の下にある松本さん宅でボーリングし、そこから水を分けてもらってその年をしのいだ。その為、犠牲田を作ったり、時間給水をするといった特別な対策は行わなかった。そのボーリングは、今でも水が、出続けているいるため、この地域での旱魃は無いものと思われる。ボーリングは、深いところでは100m位、浅いところでは30m位掘った。この村では10本掘った。1994年に起こったときには、ボーリングがあったので助かったが、もし30年前にこの大旱魃が起こっていたら、そうとうやばかったらしい。 よく獲れる田んなかと、あまり獲れない田んなかについて 良く獲れる田んたか――――――八升田 下田 中島 あまり獲れない田んなか――――大谷 猪谷 基本的にあまり獲れない田んなかは、あまり日の当たらない山間部に位置している。獲れるところでは、1反につき8,9俵とれる。戦前と戦後とでの米の獲れる量はあまり変わらない、要するに化学肥料は関係なかった。戦前は、大肥を使っていた。 米について 自分達で食べる分の米は、各玄米ごとにかます(わらで編んだむしろのいれもの)にいれて倉庫に保存していた。鼠や虫の被害は鼠や虫が入って来そうなところに杭をうって防いだ。田んなかでは農薬を使用する前は鯨の油を使って虫の被害を防いだ。この鯨の油を田んなかへ流しておくと、田んなかへ飛び込んできた蚊を始めとした虫は田から出れずに死んでしまう。他にはわらを焼いて煙で虫を追っ払ったりした。外に売る米は収穫後すぐに農協に預けている。 村の過去 50年前の村では、養蚕、タバコをする人もいたが少数で、ほとんどの人が米を主に生計を立てている。40年前から現金収入になった。 村のこれから 昔と今を比べると村は大きく変化した。1970年代から1990年代にかけて圃場整備が行われ棚田となった。さらに県道の拡張により村の田んなかは大型水田へと変化した。村は後継者が都会へ出ていき、農業をする人たちは減る一方だろう。 感想 この現地調査を終え昔の農業の様子等を特に知る事ができた。僕の故郷は兵庫県だが、この現地調査で山間部の田舎へ行って久しぶりに落ち着いた気分になった。伊万里市へ来て、川のせせらぎや虫の鳴く声を聞いて、中学、高校と受験勉強に追われているうちに忘れてしまった、大切な何かを思い出した気がする。今回、この調査が円滑に進んだのも、我々に協力してくださった古老の方たちのおかげである。その協力を無駄にしないようにしっかりとレポートを書こうと思って、作成した。 追伸、兵庫県出身の僕にとってあの佐賀弁は強烈でした。 (木村) とりあえず、何の問題も無くこの現地調査を終えることができよかったというのが今の僕の正直な感想だ。昔の農家の姿を詳しく調べることができた。 (今村) |