以下はコピーをお送りした方々への送り状で、一部訂正もあります。

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拝啓 このたび『日本歴史』7月号の研究余録に、同封しましたような『蒙古襲来絵詞 (竹崎季長絵詞)』についての小文を発表いたしました。お手すきの折にでもご 笑覧いただければと思い、送付いたします。  これは通説では竹崎季長は文永の役に海東郷地頭職を得たことになっている が、じつはそれは弘安の役後で、恩賞の対象も弘安の役の手柄が中心だったと いう内容です。その根拠は 1 絵詞の奥書は筆跡、紙質、紙の大きさが本文と異なっている。同時の成立では なく後から作られている。とくに甲佐社のことを強調する奥書は絵詞本文に全 く対応しない。したがって奥書をのぞいた本文絵詞の記述のみから史実を組み 立てる必要がある。海東郷のことは、この奥書にしか出てこないので、いった ん除外して解釈する必要がある。 2 11月1日安達泰盛との会見で、下文を得たあとの季長の発言を読むと、それ以 前と状況が変わっておらず、同じ主張(少弐景資にたずねよ)をくりかえして いることがわかる。下文は所領を与えた鎌倉将軍家下文ではなく、恩賞奉行な いし肥後国守護安達泰盛下文であって、内容も暫定的なものだった。 3 文永の役での恩賞は討死、分捕に限られていた。季長の手柄では恩賞の対象に ならない。泰盛に面会できた後、神社を対象とする第一次恩賞までわずか17日 ほどしかない。太宰府御家人を対象とした下文発給まであわせても一月もなか った。すでに基本的な調査は終了しており、この間は微調整の時間帯でしかな かった。基本方針の変更を無足人にすぎない季長のためにすることはなかった。 以上です。  最後にいくぶん舌足らずの表現をしました。 季長は、海東郷を得るきっかけは、あくまで泰盛から得たと考えたかった。そ れが「御領拝領の御下文」という表現になったのではないか。 という一文を最後に入れるべきであったと考えています。  「御領拝領の御下文」という表現についてはなお問題を感じられる向きも多 いと思います。恩人であり、主人であり、しかし敗死した安達泰盛関連の遺領 を得た季長の心中は複雑で、回顧のなかでは、あくまで泰盛からきっかけをも らったように回想したと考えます。将軍家下文ではない文書を、泰盛加判下文 であっても「御領拝領の御下文」と表現したことは、このように考えればあり 得ることではないでしょうか。  なお安達泰盛が肥後国守護になった時期については相田二郎・佐藤進一説を 引用しましたが、村井章介『アジアのなかの中世日本』を引用すべき旨指摘を 受けております。同書一九一頁以下によれば、これは建治元年末に行われた守 護の一斉交代によるもので、北条実政が鎮西(豊前)に下向したのが建治元年 十一月であることから、「建治元年十一月、ないしその少し前」(192頁)と されています。したがって十一月一日は安達泰盛が肥後守護を拝命した直後と いえるのではないでしょうか。  また文永の役の恩賞は建治元年のものしかないように書きましたが、曾根崎 文書によれば、弘安元年にも将軍家政所下文が出されています。ただし「在郷 名字相違之間、所成改也者」という特殊な状況下の錯誤訂正です。 『蒙古襲来絵詞(竹崎季長絵詞)』の文言をじっくり読んでいただき、当否を判 断していただくことはなかなかたいへんと思いますが、私見は通説からは全く 遠いので、もしご批判をいただければと考えています。 敬具


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