(無断転載不許可)
          中世・近世に使われた「のろし」

                          『烽<とぶひ>の道』<青木書店>183-214頁・所収

                                                 服部英雄
     
  中世でも近世でも「のろし」は使われ続けた。領国が隣接する国々と敵対関係
にあった戦国期や、日本国家が他国と緊張関係にあった時期には、通信施設とし
ての「のろし」が多用された。また近世から近代にかけては米相場や捕鯨のよう
な民間での通信として「のろし」が多用された。明治期まではそうした記録・伝
承がある。隣国韓国では1919年の三一独立運動の際、王朝時代の「のろし」
台が使われ、各道で一斉に「山上の篝火」が焚かれた。二十世紀に到っても、電
信・電話の登場・普及までは「のろし」は使われ続けていたのである。だから
「のろし」についてふれた文献も多く残っている。以下中世・近世の「のろし」
についてみて行きたい。

            1 中世の「のろし」

 まず戦国期・織豊期も含めて中世の文書にみえる「のろし」の事例をみよう。
歴史的な文献資料には大別して古文書と古記録がある。中世の場合だと「のろし」
を揚(あ)げて実戦・通信に用いた事実は、合戦記などの記録に残ることが多い。
しかし中世文書にも「のろし」の記事が残ることがある。多くは「のろし」のル
ートの設定や、それが本当に機能するかどうかの実験を命令した指令書の類であ
る。うえからの命令を受けてルートを設定し演習をした。指令に従って軍役を勤
め、貢献した事実を残す必要があった。文書に見える「のろし」は、記録に見え
る「のろし」とはまた異なる一面を語ってくれる。合戦記中の「のろし」(「飛
脚篝」)や遺跡としての「のろし」については、関連する旗による信号(飛脚旗)、
また鐘など音による通信にもふれつつ、概要を述べたこともある(拙稿「飛脚篝
によせて」<『景観にさぐる中世』一九九五・新人物往来社刊・所収>)。そこ
で本稿では文書に即しつつ「のろし」についてみてみよう。

中世その1 蒙古襲来時の壱岐と九州本土との「のろし」
                                                     (地図1)

 鎌倉時代、文永・弘安の役ののちに蒙古の再来襲に備えて、壱岐と肥前大島、
鷹島の間に「のろし」を揚げよと命令した来島文書・永仁二年(1294)三月
六日の肥前守護遵行状(『鎌倉遺文』二四ー一八四九九)がある。佐藤進一・池
内義資編『中世法制史料集(一)』、川添昭二編『元寇防塁編年史料』にも収め
られた周知の史料ではあるが、以下に引用する。

  とふひの事、越後前司(*北条兼時・鎮西探題)御奉書案文如此、如状者、三
月二十六日午刻、可立之旨、被仰筑前國畢、肥前國分同時可立継之由、可相触島
々在所、若其日雨ふらハ、同二十七日可立之云々、壱岐島より始て、島々高き所
ニ火を可被立之間、大島ニハ壱岐島の煙を守て、その時をたか(違)えす、たき
ヽ(薪)多とりつみて、あまたた(焚)くへき也、たかい(互)に火のひかり煙
を守て、た(焚)かるへし、大島の火を見て、たかしま(鷹島)にた(焚)きつ
くへき由、被相触畢、異国用心御大事也、更々不可有緩怠之儀候、依執達如件
  永仁二年三月六日            修理亮<北条定宗>(花押)
         大島又次郎殿
 
  烽火について鎮西探題から指令が出て、それを肥前守護が国内の御家人に伝え
たものである。内容は次のとうり。

「三月二十六日に筑前管内でのろしを上げるように指令が出ている。肥前の島々
でも同じ日にのろしを揚げるように命令を出しているところである。壱岐から始
めて島々の高いところで火を焚き伝える。あなた(大島又二郎)のいる大島(肥
前大島)では、あらかじめ多くの薪を用意して、壱岐で揚がった煙をみたら瞬時
を置かずに大きな火を焚き、鷹島に伝えてほしい。異国の用心のためであるから
くれぐれもおろそかにしないように。」


  壱岐からは筑前守護所、肥前守護所そして各地の御家人に伝える「のろし」が
設定された。この道は単線ではなく複数の多くのルートとして設定されたようで
ある。想定されるルートは次のようなものがある。                    
(1)壱岐↓(加唐島経由か)↓糸島半島↓筑前守護所・博多および筑前の御家
人
(2)壱岐↓加唐島および馬渡島(まだらじま)↓呼子または名護屋↓肥前守護
所(今の大和町か)および東松浦半島の各地御家人
(3)壱岐↓肥前大島(的山<あずち>大島)↓平戸島、生月島ほか、及び北松
 浦半島の各地御家人そして鷹島。
 もちろんこの史料にみるルートは(3)である。蒙古襲来のおり、敵船が最初
に上陸した場所は筑前では志賀島、能古島、肥前では鷹島などの離島だった。壱
岐に敵船現る。この情報は直ちに守護所と九州北海岸を警備していた各地の御家
人に伝えなければならなかった。壱岐と大島の間の距離は二五キロメートルほど。
晴れていれば島影はもちろん見えるが、薄い煙ではわかりづらい。よくよく気を
つけていないと見逃しかねない距離だ。期日と時刻を定めて定期的な通信をする
必要があったし、それも何度も軍事演習を重ね、打ち上げ場所、煙と背景の具合
など実験を重ねて点検する必要があった。
  この文書から想定される上記3ルートの内、(1)の筑前分の烽に関しては糸
島半島・志摩町稲積の火山(ひやま)が注目される。この山の東麓には焼火神社
がある(『糸島郡誌』)。天智天皇三年(664)、対馬嶋、壱岐嶋、筑紫國に
防(せきもり)を置き烽(とぶひ)を與えた、と『日本書紀』に記された筑紫分
の烽火台の有力擬定地になっている。永仁の烽火設置のうち(1)は必ずや古代
に設置された「のろし」の復活に違いなく、この火山が再利用されたことであろ
う。
 ところで(3)についても古代の『肥前風土記』に記された烽の一部と考える
こともできる。たとえば久保山善映「九州における上代国防施設と烽火の遺蹟」
(『肥前史談』一三ー六、1939)は「松浦郡八烽のうち値賀嶋(五島)の三
烽は福江嶋の火岳、日ノ島村の日ノ島、宇久嶋の火焚崎に比定されるが、この系
統は平戸・鷹島方面から西松浦の一烽(推定地大坪村今岳<*現伊万里市>)を
経て小城の双子山(*多久市東多久)に伝達されただろうと想像されます。」と
いう。(3)ルートが古代のろしの復活ならば、鷹島に到った火は小城を経て肥
前守護所に通じたはずで、(2)の壱岐ー肥前守護所間の最短経路に対する副路
(迂回路)・サブルートがあったことになる。
 なお対馬と壱岐の間は五〇キロは離れている。これだけ距離があるとむしろ見
える日の方が稀れということになる。後述するが、対馬島内には火立隈という地
名が多く、烽火台所在地に比定されている。対馬島内を連絡する「のろし」はあ
った。しかし対馬と壱岐間の海上を連絡する「のろし」が設定されていたとは考
えにくい。  

中世その二 後北条領国、韮山城から伊豆西海岸へ
                                                  (地図2)
 
 後北条領国内の「のろし」については「北条五代記」に記された三浦合戦に関
わる記事があまりに有名だが、具体的にそうした「のろし」の存在を裏付ける文
書もある。すなわち静岡県田方郡戸田(へた)村井田に伝わる高田文書である。
すでに『静岡県史史料』や『静岡県史』資料編、そして永岡治『伊豆水軍物語』
(中公新書・1982)でも紹介されている著名な史料である。

敵船相動ニ付而者、見出次第狼烟を可揚、一ヶ所之狼烟を見届、諸浦一同ニ狼烟
を可揚、のろしを見届候者、隣単之者ハ相互ニ可揚之、致見除候者可為重科候、
猶以のろし次第、味方舟乗出、敵を可討留候間、少も不可油断候、仍如件、
(異筆)「天正八」辰
      八月三日  (印文「禄寿応穏」の印判あり)
追而、江梨相談可致之
      井田
       さなき山

 この文書は「敵の舟を見つけたなら、どこの村でものろしを揚げよ。それをみ
た村は引き続きのろしを揚げよ、浦のうち全てにのろしを揚げよ」と指令したも
のである。おそらくかなり広範な地域の村々に、これと同じ文面の文書が出され
たのであろう。但し追而書(追伸の部分)以下には具体的な村の名前が見えてい
る。井田村は伊豆半島の西海岸北部の村である。さなぎ山は井田の東方にある標
高501メートルの真城(さなぎ)山である。写真版を見ると宛名の井田はさな
ぎ山の肩書である。宛所はさなぎ山だが、文書を伝えてきたのは井田の高田氏で、
いまも家の四方に石垣がめぐる旧家である。さなぎ山の守備任務・情報管理には
高田氏が当たっていたと考えられる。
 追而書の部分は文字も小さく追筆なのだが、同筆と思われる。江梨は沼津湾に
面した内海の村である。江梨はさなぎ山の通信管轄下に入っていた。  
 真城山に登ってみた。西面のみが伐開されており、南の戸田方面の眺望がきい
たが、東面は森が繁茂し視界はなかった。西から北にかけての海は見えたが井田
も江梨も村自身の姿は見えなかった。逆に、海岸線の江梨の村からも井田の村か
らも同じく真城山の頂は見えなかった。ただし、わずかに近くの山まで登れば真
城山が見えるように思われた。複雑な海岸線と村の近くまで迫る山。こうした指
令が出される訳が分かったような気がした。
 韮山から伊豆の西部方面に伝達される後北条氏の「のろし」は、次のようなル
ートが考えられている。まず韮山からの「のろし」は伊豆・駿河国境の鷲頭山
(標高392メートル)に伝えられる。ここからは支線として長浜城ほかいくつ
もの城に「のろし」が伝えられる。つぎに鷲頭・真城山の間は相互に眺望が可能
である。幹線ルートとして次の真城山に伝えられた「のろし」は、中継点(戸田
周辺)を経て、土肥の丸山城に伝えられる。
 さてこの文書は中身としては浦々の村々に宛てたものだ。常備兵のいる幹線ル

ート(鷲頭山・真城山)が設定され、そこでは定時・定刻に「のろし」の伝達が
行われている。この命令を受けた真城山・高田氏にとっての課題は、敵の出現を
発見した江梨や井田からの情報を、いかに早く、幹線ルート・真城山にまで伝達
させるかにあった。各村から真城山への「のろし」には定時性・定刻性はなかっ
たから、随時に「のろし」を揚げることによって幹線ルートに情報伝達すること
が要請された。そのために井田は隣村の江梨と相談する必要があったし、どの場
所で「のろし」を揚げれば確実に真城山や隣接する村に「のろし」が伝わるのか、
を知っておく必要があった。そのために両村、そして真城山はいくども軍事演習
を実施しなければならなかった。
 *真城山については沼津市教育委員会・上野尚美さんより数々の御教示を得た。
記して感謝したい。

 中世その三    対馬の火立
                  
 対馬の古文書「宗家判物写」(『長崎県史』一所収)中に「火立」という言葉
がみえる文書が二点ほどある。以下にその史料を引用しよう。なお近刊予定の
『上対馬町史』史料編にはこれらの写の原文書である大浦隆典家文書(大浦・大
浦家の文書)や大浦一泰家文書(河内・大浦家の文書)が、佐伯弘次氏によって
翻刻される。氏のご厚意により校正刷りを拝見することができた。一部の異同に
ついても紹介しよう([]内が写しの読み)。

A  (追而書略)
 態小者下候、仍先月[日]以来、風おたやかに、殊はへの風はかり吹候間、自
然賊船しのひ/\朝鮮帰嶋之船をうはい候事もあるへく候哉(中略)
とかく油断故によて[にこそ]、先年もおの/\外聞を失候間、別而郡中江申談、
用心専一[ニ]候、将又[二字なし]第一船順風次第に帰嶋可申候、其外商船帰
國候する間、さやうの時、浦々のけいこ(警固)かんよふ(肝要)存候、又毎夜
之火立無油断可被申候、、覚悟干[肝]要候(中略)
       六月十一日    一鴎(花押)
         豊崎郡長中            閑斎[二字なし]

B
 態々企一通候、仍先日賊船船越口へ見え[へ]候條、朝鮮へ注進候處、於浦驚
候[之]由候間、彼賊立退之由、又ゝ注進候(中略)、
一、火立の事
一、道作之事
一、海辺の構の事
是又両人(*使者立石善左右衛門尉・大浦中務丞)として、精可被申候間、不能
細筆候、恐々謹言、
     閏[壬]二月廿九日   	一鴎(花押)

       比田勝中務丞殿
       大浦下野守殿
       大浦左近助殿  [写しは順を異にする]

 この火立とは一体どのようなものだろうか。「毎夜の火立」とあるから、夜ご
とに使用されたものと分かる。はたして連続する通信としての火立だったのか、
それとも単体の灯台(当時は灯明台といった)的なものだったのか、それを吟味
する必要がある。しかし近世の史料に見える「火立」「火立所」はいずれも「の
ろし場」である。例えば薩摩藩の火立番所、土佐藩の火立場、琉球の火立所(火
立盛)などなどがそれである。対馬に多くある地名火立隈(ほたてぐま)は、し
ばしば朝鮮通信使来着を知らせた狼煙場に一致するという(永留久恵『古代史の
鍵・対馬』<1975・大和書房>、『対馬古代史論集』<1991・名著出版
>)。壱岐の場合も火立場はのろし台を指すという(前掲久保山論文)。両文書
に見える火立も「のろし」と判断したい。
 一般に「夜はかがりと名付け、昼はのろしといふ」といわれていた(『北条五
代記』)。「烽を放つべき時は、昼は烟を放ち、夜は火を放て」(『軍防令』烽
昼夜条)ともある。長崎烽火山では「昼は煙を重(主)ニいたし夜は火勢を第一
ニ焚き上げ候様」とされていたし(文化五年・烽火山番所壁書<『長崎市史地誌
編』所収>)、後述する演習の際にも昼と夜とでそれぞれ実験し、その効果を確
かめている。『墨子』号令には「昼は則ち烽を擧げ、夜は則ち(燧)火を擧ぐ」、
また『史記』相如伝にも「烽主昼、燧主夜」とある。燧とは本来の語義では夜の
火立をいったようだ。「のろし」も火立も原理は同じで、同じ場所で行われた。
韓国・羅東旭氏(釜山市立博物館)の御教示によれば煙突式の狼煙台でも上部に
火は見えるという。火立は広義の「のろし」の一部である。
 さて文中の豊崎郡とは対馬最北端にあった郡(郷)で、比田勝、大浦は豊崎郡
内の湊である。一鴎は宗家当主宗義調の法名である。当然、彼は府中(今の厳原)
にいたはず。文中しきりに登場する賊船とは、朝鮮に帰国する船を襲うもの、つ
まり「後期倭冦」のことであろう。九州・瀬戸内からもやってきたといわれる。
Bの閏二月廿九日は佐伯弘次「後期倭冦の活動と対馬宗氏」(『鎖国と国際関係』
1997・吉川弘文館刊、所収)に詳しく考証されたように、日本暦の閏二月で
はなくて、朝鮮暦(すなわち中国暦・明暦)の閏二月という。万暦十一年、西暦
の1583年であり、日本暦の天正十一年である。春になりハエ風(=南風)が
吹く。日本から朝鮮に帰国する船が次々に出発する。それをねらって倭冦が帰国
船を襲いにくる。事実そうした事件が頻発しており、文中にあるように、先年に
は対馬において、宗家の「外聞」に関わる事件も起きていた。
  こうした政治状況の中にあって、一鴎は豊崎郡に対し火立の運用について厳重
な措置を要請している。火立は府中と豊崎を結ぶものだった。この間直線で60
キロメートルはある。おそらくは府中を出発して朝鮮に帰国する船がある場合、
またない場合、あるいは府中に入港する予定の船がある場合などなど、状況に応
じてそれぞれの信号が定めてあり、毎夜、定時にそれを連絡する規定になってい
た。また逆に豊崎からの重要情報も府中に伝えることができたはずだ。おそらく
はこの一鴎の時代の火立場と、近世に朝鮮通信使が来航する都度揚げられた「の
ろし」の場所とは一致するだろう。
  夜の通信は、昼の煙に比べればはるかに見やすかったはずだ。但し何時に火を
ともすのか、あらかじめ通信の時間を決め、専従者を置く必要があった。火立に
よって帰国船の出発・到着を知れば、賊船の隠れていそうな浦々を探索でき、警
固も厳重にできる。もし毎日の交信をせず、特別の日のみに火立をすれば、かえ
って帰国船の出立を賊に知らせる結果になりかねない。そんな配慮もあったのだ
ろう。「自然懈怠の事ハ、隣郡申理候て、郡内無沙汰之所あらわれ候(ぬ脱か)
やうに」という文章は「万が一、火立ができないような事態になったら、隣郡に
知らせて連絡をしておくように。そのことを知らずにいて、警戒を怠るようなと
ころがないように。」といった意味と思われる。連絡を受けた隣の佐護郡からも
火立を再スタートできるように、という指令であろう。
 専従者を確保できれば、定時性も確保できる。定時の交信であればあらかじめ
準備がされているから、伝達の時間も早かった。十五里、60キロといえども、
瞬時に府中から対馬北端、豊崎までの連絡が可能だった。

中世その四  文禄慶長の役  朝鮮国の「のろし」システムの奪取          
           ----------ちゃくせん島の「のろし」-----------
                                              (地図3、4)

薩藩旧記から 文禄慶長の役においても「のろし」を実戦に使おうとした史料が
ある。『(薩藩)旧記雑録』後編三(『鹿児島県史料』)所収の(慶長三年)二
月五日、二月十二日および同二月二十三日の三通の熊谷直盛書状(文書番号三七
三、三七五、三七四)をみてみよう。

(1)   追而申候、唐島南海さるみ并れうふね、其元ニ有之様ニ其聞候、 
    柳川方よりもつうず遣候間、案内者可被仰付候、兼又のろし山之儀、 
    ちやくせん嶋双方へ見へ候間、可然存候、けふり数之儀ハ書付させら 
    れ、柳川方へ可被遣候、ちやくせん嶋へおかせられ候人へも、可被仰 
    付候、以上
            (本文省略)                          「熊内蔵允判也」
  「慶長三年」二月五日           直盛(花押)
         忠恒様
                      人々御中
(2)
   尚以のろし火数之御定通、尤ニ存候、ちやくせん嶋ニおかせられ候人を、
   此方へ被差越候ハヽ相談、南海とちやくせん嶋と山の所を定可申候、以上、
 貴札并のろし御定書拝見仕、火数之様子一段尤ニ存候(下略)
                                             熊内蔵允
  「慶長三年歟」二月十二日           直盛(花押)
                  義弘様
         忠恒様
                    御報
(3)
 のろし相見へ申ニ付而、預御尋候、約束之山ニ無之候、ちやくせん衆被見違候
哉と存儀候、最前申定候山、当城よりちと遠候間、近山ニ御使者ニ申合候、被入
御念示預儀恭候、恐惶謹言、
                                         熊内蔵允
  「慶長三年」二月二十三日           直盛(花押)
         忠恒様
                    御報

ちゃくせん島の位置  さて慶長三年二月、三通の書状の差出人である熊谷直盛は
軍目付(軍監)であった。受取人である島津忠恒、義弘の両人は、旧典類聚本
『高麗日記』によれば慶長二年の年末には加徳城から泗川新城に移っている。三
階の天守をもつ本格的な城だった。文中の唐嶋は巨済島、南海は南海島、さるみ
は朝鮮語の  saram,古語サラミ、つまり人の意であり、韓国・朝鮮人をいう。
当時の古文書には「猿身」などと表記され、多く登場する。「ちゃくせん島」は
昌善島である。ハングル「チャグソンド」の慶尚道方言(ソン音がセン音になる)
という。当時の城の配置については『宇都宮高麗帰陣物語』に詳しい。

「そせんと申城、島津兵庫頭殿の御居城、其先は瀬戸口の城、柳川下野居城、其
より十三里先、南海の宗対馬守」
このうちの、「そせん」は泗川、「瀬戸口の城」は唐嶋瀬戸口の城すなわち見乃
梁(ケンダリャン)倭城である。この史料に登場する人物達が巨済島、南海島の
一帯に城を構えていたことがわかる。この年の正月には城将の配置を変更しよう
とする案もあったようだが、小西、宗らの反対で実現していない。なお昌善島は

南海島の北に当たり、泗川倭城のある船津里の湾の南になる。

   以上を前提とすれば(1)から(3)の史料もわかりやすいだろう。まず(1)
では「島津の居る泗川には唐島(巨済島)と南海島から連行した朝鮮の人たちが
いる。巨済島にいる柳川は(もともと対馬の家老で)朝鮮語に達者なものも連れ
てきているから、そのものを通訳(つうず;通事、通詞)に付ける。だから現地
に詳しい朝鮮人に案内させて現地調査をしてほしい。またのろし山についてはち
ゃくせん島が双方(巨済島と南海島か)に眺望が利くからちょうどよいだろう。
のろしを合図する際の煙の数については巨済島にいる柳川にも書面で連絡してお
くように。もちろんちゃくせん島の守備隊の責任者にも連絡するように。」
大体こんな意味であろう。
  七日後の(2)ではその準備が整えられている。熊谷は(島津氏配下の)昌善
島守備隊責任者と会って打ち合わせしたいともいっている。熊谷がどこにいたの
かよく分からないが、巨済島か、固城であろう。しかしその後十一日が過ぎた
(3)では混乱が生じている。ちゃくせん島の守備隊が「のろし」を設定しよう
とした山では、その熊谷の城からは遠すぎると言うのである。
 この結末はよく分からないが、こうした試行錯誤ののちに、「のろし」が設定
されたことはまちがいない。島々を連絡しあう「のろし」は日本・豊臣軍にとっ
ては最も迅速に対応できる有効な通信手段だった。
 ところで熊谷は朝鮮人達にも現地踏査の案内をさせろと言っている。日本軍の
征圧域にいた彼らが戦争協力をせざるをえなかったことは推測できる。ただ熊谷
の指令の目的は単なる道案内だけではなかった。というのは当時朝鮮国内には首
都漢城に通じる通信網として既に烽火が設定してあったからである。秀吉軍が新
規に「のろし」ルートを設定するに当たり、必ずや先行して存在した朝鮮の「の
ろし」のノウハウを知ろうとしたはずである。
朝鮮時代の烽燧 朝鮮時代の烽火については『世宗実録』『慶尚道地理誌』『新
増東国輿地集覧』『増補文献備考』など多くの文献があり、研究も多い。たとえ
ば半世紀以上も前の研究ではあるが松田甲『日鮮史話』四(1931)所収の
「李朝時代の烽燧」。また新しいものでは南都泳「朝鮮時代軍事通信組織 発達」
(『韓国史論』九・朝鮮後期国防体制 諸問題、1981-12)に付された地図
には、直烽・間烽によるルートが縦横に示されている。この烽燧は秀吉軍の侵略
時には機能しなかったため、低い評価しかなされないことが多い。だが実際に残
るいくつもの遺構は、それが巨額の軍事費を投じて造られた壮大なスケールのも
のであることを端的に示している。

 慶尚南道『慶尚文化財大観』道指定編(1995-12)によると慶尚南道で文
化財指定がなされている烽火台は南海錦山烽燧台、梁山爾吉烽燧台、(蔚山)烽
燧台などがある。写真によればいずれも石を積んだりっぱなものである。ほかに
指定文化財にはなっていないが、巨済島にも多くの烽燧台がある。加羅山烽燧台、
玉女峰烽燧台、江望山烽燧台がそれで、いずれも石積みである。特に玉女峰のそ
れは三段の石積みの上にさらに煙台が載る立派なものである(東亜大学校博物館
『巨済島文化遺蹟精密地表調査報告書』1995-5)。これらのうち国家・朝鮮
王朝が直接設置したものは史書にも間烽として記載される。しかし玉女峰のよう
な郡ないし鎮が設置したものは文献には登場しない。以下に烽火の存在を記す文
献を引用しよう。

第二炬準
(略)廣済山 望晋 鞍*<ヤマヘンにミル・山見>山 角山 台防山(台方山)
 錦山<南海>
南海猿山 錦山 ○弥助項鎮別烽台 錦山 ○泗川三千堡別望

第三炬準
(略)牛山 弥勒山 加羅山
間烽<蛇梁鎮来>晋州角山 佐耳山 蛇梁鎮主峰 牛山 

朝鮮側情報のノウハウの奪取 当然日本軍はこれらに目をつける。むろん漢城
(ソウル)への伝達と、日本軍相互間の伝達では目的も違うから、そのままの利
用はできなかっただろうが、日本軍としては、先行して存在したこの通信情報機
関をしっかりと掌握しておく必要があった。熊谷の書状にあった「さるみ」つま
り投降・帰順した朝鮮人民を「案内者」に仕立てて、現地調査をさせようとした
理由はそこにあった。
 以上をふまえつつ、これらのルートについて戦前に陸地測量部が作成した5万
分の1図(泗川・三千浦・弥助里・尚州里<いずれも大正7年>ほか)によって
具体的に検討してみよう。まず島津氏・泗川倭城のあった船津里の東方、4キロ
弱の標高271メートルの山を烽台山とよんでいる。おそらく文献上の鞍*山<
*はヤマヘンにミル・山見>であろう。次に史料にも見える角山は三千浦周辺の
山(東方の山は標高398メートル)である。双耳峰で西方の標高400メート
ルの山頂に円形の石積みらしきものが画かれている。この地は韓城の所在地でも
ある。「南海猿山 錦山」と記された山はいずれも南海島の猿山峯(標高627
メートル)、錦山(標高631メートル)である。錦山に今も残る烽火台が文化
財に指定されていることは既述した。角山から錦山に至る中間の「のろし」は文
献上は台防山(台方山)とある。該当するものは音の通じる昌善島の大芳山(4
68メートル)であろう。角山、大芳山から猿山峯、錦山。これが南海島への
「のろし」ルートである。
 熊谷直盛が指示した昌善島ののろし山と、現地で実際に設定したのろし山とが
位置が異なってしまい、後者の山のままでは熊谷のいた城からは遠すぎたことを
先に見た。熊谷は固城か唐島(巨済島)にいたはず。もし昌善島守備隊が朝鮮人
の案内によって設定した山が大芳山だったのであれば、東方の島々からは多分見
えにくかったことだろう。
 一方角山は東方への「のろし」の連絡任務をももつ。文献上に角山からの火を
受ける山として見える佐耳山は、角山東方10キロの左耳山であろう。それより
「蛇梁鎮主峰」に至るとある。蛇梁島は今の上島、下島のことで、前者を北蛇梁
島、後者を南蛇梁島という。蛇梁鎮とは上島の鎮里をいおう。それより弥勒島の
弥勒山、加羅島の加羅山に連絡されていた。蛇梁鎮、弥勒山の間は直接結ぶとし
た記録もあるが、間に牛山を経るとしたものもある。牛山は海峡を隔てた北で、
離島ではなく本土である。牛山からは別に北方の天峙、曲山を経て北上するルー
トがあった。これらのうち加羅山烽火台が良好に保存されていることは先に述べ
た。
 以上により日本軍がいくつもの城を築いていた南海島から巨済島にかけては、
朝鮮王朝が敷設していた多数ののろし台のあったことが確認できた。
 他地域の倭城周辺も同様で、順天倭城のあった新城里・倭橋の周辺には海を隔
てた東方およそ4キロに烽火山(404メートル)と旧烽火山(472メートル)
がある(5万分1図・光陽<大正7年>)。蔚山近辺(地図蔚山、長生浦)でも
蔚山倭城の東方日本海側に烽台山、蔚山湾の出口西方に烽台山、西生浦倭城の南
に烽燧台のあったことが分かる。むろんいずれも朝鮮王朝の烽火台であるが、唐

入りを断念し、南朝鮮諸道の軍事支配をめざした慶長段階の日本・豊臣軍は、必
ずやこれを接収し、使用しようとしたはずである。
 慶長三年(1598)六月、朝鮮・明軍の猛攻により日本軍は晋州城より退却
する。その際島津義弘家臣の寺山久兼が、九月までの三カ月に亘り死守したのは
望晋であった(『日本戦史・朝鮮役』補伝)。望晋は烽火山であり、先の烽火網
にも鞍*山<*はヤマヘンにミル・山見>からの火を受け継ぐ台として見えてい
る。この場合は望晋自体が最前線だから通信機能は二の次だったのかもしれない
が、それでも通信網の要地が軍事要地でもあったことをよく示す。
 日本・豊臣軍は朝鮮の通信施設を奪取した。しかし一方、奪った施設を逆に敵
に奪われ、偽烽をあげられたりすれば、日本軍の通信網が壊滅し、徹底的な打撃
を受けることにもなる。烽火山には守備兵をおいて堅持した。くわえて一方で
「のろし」の数などについて十分に相互の連絡をとりつつ確認していた。書簡の
みならず自身が互いに何度も往復して、煙り数の確認を行おうとしていた背景に
はこうした事情があった。

2近世の「のろし」

近世その一 肥前・筑前の「のろし」 
                     (地図5)
 近世には日本は鎖国政策をとった。通信通商をする四国(朝鮮・琉球・清・和
蘭)以外の国とは原則として緊張・敵対関係にあったことになる。外国との緊張
が高まるつど、幕府は「のろし」の整備をくりかえした。最初は島原の乱(16
37〜38)の後、松平信綱の提案によって長崎発着の「のろし」が設置された。
享保四〜五年(1719〜20)にも佐賀藩や天草で「のろし」を再整備してい
る。文化五年(1808)のフェートン号事件。長崎港にイギリス船が入港し、
オランダを襲った。異国船の武力行使に対し、なんらの対応がとれなかった長崎
奉行は責任をとって切腹した。警備責任者である佐賀藩では藩主は逼塞、七名が
切腹した。このショッキングな事件後、海防強化として再び「のろし」が整備さ
れる。長崎の烽火山、琴の尾岳の烽火台など、今日にも立派な遺構が残る「のろ
し」台の多くはこのとき再整備されたものである。
 こうして設定された「のろし」は萩藩の場合は、異国船の警戒以外にも朝鮮通
信使の通行や三家(毛利三家)の通行、そして参勤交代などに際して使用された
(『防長風土注進案』)。
 長崎の防備には佐賀藩と福岡藩が隔年で当たったから、この両藩については
「のろし」の実態が比較的よくわかる。福岡藩の場合は城内に烽火番所を設置し
て長崎からの「のろし」を受信した。この仕事に従事した亀井昭陽の『烽山日記』
(『亀井南冥・昭陽全集』所収)によっても各烽火場の詳細がわかる。
 佐賀藩の「のろし」については、古く紅露生「非常時警報機関としての幕末北
九州烽火台ーー朝日山放火掛合文書の研究ーー」(『肥前史談』一〇ー一、二、
1937)、前掲久保山善映「九州における上代国防施設と烽火の遺蹟」(<
『肥前史談』一三ー六、1939>)、松尾禎作「山烽についてーーー黒船来襲?
のレーダー的役割」(鳥栖市『郷土資料』1956)といった研究がある。前者
の紅露生氏は松尾氏のペンネームという(久保山論文)。氏の関心は『肥前風土
記』に記載された烽を近世の烽火体制の解明から、遡って追跡しようとするもの
である。烽の仕組みや地理的位置については古代も近世も格別の技術革新はない。
近世には長崎から四王子山を経て福岡城(丸尾烽火台)、ないし直接下関、さら
に大坂への烽火リレーがあり、古代にも、肥前各地から肥前国府を経て大野城
(すなわち四王子山)から大宰府、および鴻臚館(すなわち福岡城)、または直
接平城京に伝達した烽火リレーがあった。時代こそ違え、その道筋はかなり重複
している。松尾氏の視点の正しさは確実である。
 松尾氏紹介の史料、「徴古館所蔵佐賀藩政時代諸控文書抜書留書」(著者によ
る)第四巻中の二点をみよう。重要箇所を口語訳する。

A    鍋島寛太夫ほか七人から米倉権兵衛ら三名(長崎警備に当たっている佐賀
藩士か)に宛てた(文化五年)十一月三日の書状

 御領内の烽火を手当する場所について検討した。やはりまず最初に内輪限り
(佐賀藩だけ)の実験をしてみなければどうにもならないということで、先に決
定していた多良岳の「尾ばへ小峰」と朝日山の二カ所(*この二カ所は他領から、
および他領への受け継ぎとして既に長崎奉行・福岡藩と協議し決定済みであった)、
を取り繋ぐ山として、筒名山と岩田村の火ノ隈山に手配をしたことは先に連絡し
たとおり。このつなぎの両所にも、それぞれ高さ一丈余り、四方二間ずつに薪・
柴等を積み立て、去月(十月)二十二日昼夜両度に亘って(四つの山で)焚き試
しを行ってみた。朝日山・多良岳、そして御城下の三カ所で遠見をしてみたとこ
ろ、折節天気も良く、昼も夜も一応見取ることができた。もっとも(我々も見た)
城下からの見取りについていえば筒名山・火ノ隈山はそれほど遠い山でもないの
に、昼は煙ばかりが見え(*「煙斗相見え」とあるから、煙以外の色・本数など
が要求されていたことが分かる)、夜の火もようやく一抱き程だった(二ないし
三の本数の認知が要求されていたものか)。多良岳・朝日山はなおさら遠い場所
だ。出向いていった担当者たちはかすかで、たよりないものだったといっていた。
実験では前々からの規定に書いてあるとおりの分量に薪を積んだはずなのに、こ
んなわずかな火とは。天気が良くてもこれでは、雨や霧の時は行き届かないかも
しれないとは思う。だが、晴天であれば「可也」(かなり)届くことも確かだ。
新しく長崎奉行に着任された曲淵様の用人から、いずれまもなく試し焚きをする
よう命令されるはずだから、筑前の担当役人達とも「得と」連絡を取っておくよ
うに(下略)。
  <追而書>長崎放火(烽火)山では薪の積み方は何とおりほどあるのか、焚き
方も特別のやり方があるのか、昼の燃やし方と夜の焚き方とで違いがあるのか、
そのことを聞き合わせてほしい。この前の内々の予行演習では昼は八つ半(午三
時)、夜は暮れ六つ半(午後七時)だった。元の火(長崎放火山)は焚く時間も
決まっており、先方に伝達すればそれで終わるわけで、一昼夜焚き続けるわけで
はないから、練習といってもきちんと(決められたとおりの分量を燃やすなど)
すべきだと思うのだがーーー。とにかく振れ合い(方向か)など綿密に相談して
ほしい。なお三笠郡天山(朝日山の火を受けとる筑前側の山=宮地岳)について
方位について尋ねられたが、方向は丑(北北東)にあたり、里数は三里半余りに
ある小粒山である。近々そのあたりで筑前藩でも内々の試し焚きをするというこ
とを聞いている。そのことも承知していてください。

B  肥前の烽火<放火>掛から、筑前側の受け継ぎの天山烽火台のある原田代
官に宛てた(文化六年)正月二十日の書状
  そちら様(筑前側)も御当番ご苦労さまでございます。放火の試し焚きについ
ては我が方(佐賀領)も本日二十日の実施で準備ができているのか、と確認の問
い合わせをいただきました。長崎での相談の結果、今日二十日、二十三日、二十
五日の三日の間に一回行うことになっており、佐賀からも指令が来ています。わ
が方では今日二十日申の上刻(午後四時)、養父郡朝日山(鳥栖市)で揚げます。
長崎放火山の「御揚試」は申の上刻と酉の上刻(午後六時)の昼・夜の二度行い
ます。ただし佐賀領内での「移取」の末(最後)になる朝日山から、あなたさま
の(筑前)三笠郡天山にさらに延長して「移合」わす件については、きちんと決
めておらず、連絡しておりませんでした。しかし佐賀城より指示がありましたの
で、筑前にまで延長する手はずをいたします。
 また朝日山の放火の場所についてお尋ねですが、この山は小粒山なので左右の
見極めが難しく、最初は山の頂上と決めていましたが、あなた様の放火場が天の
東の出崎になっておりますから、その見込みですと、中腹(から揚げること)に
なると思います。きちんと佐賀城と相談してお答えすべきですが、(今日の実施
で)もう間に合いませんのでとりあえず連絡します。ほかのことは後から連絡し
ます。

 当日実施直前での手紙のやりとり。こんなドタバタではたして間にあったのだ
ろうか。突然の「のろし」の復活を命じられてあたふたとしている藩の様子がよ
く分かる。佐賀藩の内輪だけの練習が十月二十二日、長崎を出発点とする総合演
習が一月二十日と少なくも二回は実験が行われている。しかし事前の準備もなか
なか進まなかった。そして実際にやってみても結構難しく、佐賀藩の首脳もいか
にも心細く思っていたようである。二間四方の薪という分量は相当に多い。再度
集める手間を惜しんで、全部燃やさなかったのではないか。そんな疑いも確かに
生じたのかもしれない。「のろし」が昼と夜で一度ずつ、演習されていたことに
も注目しておこう。先述した昼の「烽」と夜の「燧」、それぞれに実験したので
ある。これを一日の内に一度でやったとすると、薪集めの労力だけでも馬鹿にな
らない。なお「遠見」を行っていることも注目される。距離が長くなれば、肉眼
のみでの視認は難しく、遠眼鏡も使用したのだろう。紅露生氏の紹介する長崎烽
火山に関する記事中(鍋島文書「長崎御番格」)には「遠目金一挺」とあり、烽
火台の備品に望遠鏡のあったことが分かっている。
 さて長崎からの火を受け継ぐ多良岳は藤津郡多良村、長崎街道粒露坂上方の烽
火山といわれている(前掲久保山論文)。筒名山は同じく長崎街道に沿った佐留
志御番所、堤雄(つつお)神社付近の筒男山に比定される。山中には御用場とい
う字名がある。それより神埼郡日の隈山(先の史料中の「岩田村火ノ隈山」、現
地には山麓に「ジャー場」<台場>の地名がある)、次に養父郡朝日山(鳥栖市
・標高132メートル)を通過する。佐賀平野の周辺丘陵に設定され、近世の長
崎街道に並行するものであった。同時に延喜式の官道、西海道(肥前では筑前縄
手とよんだ)に沿うものでもある。これより東は筑前の天山(標高308メート
ルの宮地岳の中腹)に連絡し、そこからは四王寺山、しょうけ越え、竜王嶽、六
ツ嶽、石峯、と続き、豊前領に入って、小倉城に近接する足立山(霧が嶽)に接
続された。
 筑前領内の「のろし」が比較的高山に置かれたのに較べ、肥前では街道に近い
低山が選ばれる傾向にあった。ところが佐賀藩は、こうした低丘陵の「のろし」
とは別に、背振山地の頂を利用するルートの調査も行っている。すなわち享保四
年(1719)長崎御目付の照会を受けて、藤津郡多良岳から小城郡雷嶽、神埼
郡背振山への見通しを現地で調査している(「吉茂公御年譜」)。雷嶽は雷山
(らいざん、いかづちやま)であろう。雷山は小城郡(明治期まで、現在は佐賀
郡)北山村と筑前国怡土郡の境にあった。この三山はいずれも標高1000メー
トル近いか、それを越える山々である。
 雷嶽、背振山は肥前・筑前国境の山だから、直線的に福岡領に伝達できるルー
トを模索したものであろう。多良岳から雷嶽、背振山への直線距離は50〜60
キロはあり、中継点(おそらくは筒男山、あるいは佐賀城内)を経てのルートの
可能性が探られた。成功すれば、のろし場の数も減らすことができ、経費の節約
にもつながる。もっとも文化年間には従来どおりの朝日山ルートが採択されてい
るから、背振越えルートの開拓は実現しなかったかもしれないが。

近世その2  豊前の「のろし」 
                                            (地図6)
 さてこうした軍事施設としての「のろし」の設定は、民衆生活にもいろいろな
影響を与えた。豊前小倉藩では幕末の征長戦争の際の火災で、藩政史料が残らな
かった。だから「のろし」の詳細は分からない。しかし永沼昌弘氏が『郷土誌さ
いがわ』9に紹介された豊前国永井手永の大庄屋、永井家の御用日記(九州大学
大学院比較社会文化研究科・九州文化史研究所所蔵文書)・文化七年条に関連記
事がある。
  文化七年(1810)といえばフェートン号事件の二年後である。この年の一
月から一帯の村々では恒例の山焼き(野焼き)を始めようとしていた。今も平尾
台などで行われているが、牧草地・採草地の管理のため、山を焼いておく必要が
あったのである。ところが近年設置されたばかりの烽火所との関連で、この年は
いろいろとうるさくいわれる事が多かった。まず一月十四日付で小倉藩仲津郡奉
行の井上輿三左衛門より野焼きの際は烽火の障りにならぬようにせよとの通知が
出されていた。これを受けて一月十七日に庄屋たちが打ち合わせをしているが、
二十日にはさらに具体的な指示が出される。

                         覚

                                 大坂村
                                 柳瀬村
                                大熊村
                                 大 村
右四カ村ハ角田峯尾烽火御備所より西北之間に当り、沓尾よりハ西南之間に当
リ候
                               崎山村
                                 喜多良村
                       鐙畑村
右三カ村ハ角田より西に当り、沓尾よりハ西南之間に当リ候
右村之野焼ハ角田沓尾両所烽火御備所、見掛之山々ニ付、小倉城へ伺致、沓尾、
角田、中津之方江も懸合済之上野焼申付候
                       (中略)
 
           正月二十日
                                               井上輿三左衛門
                        節丸弥八郎殿
            長井堅吉殿

 これらの記事によって、小倉藩ではフェートン号事件以後、瀬戸内海岸、周防
灘に面して烽火台を整備したことが分かる。烽火番所(御備所)の置かれていた
沓尾は今日の行橋市にあり、祓川の河口にあって良港として知られる。沓尾には
海岸近くに標高82メートルの小山があり、久津尾崎城という中世の城跡がある。
おそらくは番所が置かれたのはここであろう。御備所には番人がいた。番人は展
望が利き、かつ周囲からもみやすい地を選んで、自らも烽火を揚げた。もう一カ
所の角田(すだ)は豊前市角田である。「角田の峯尾」については旧角田村のう
ち中村に峯尾(みのう)の字名がある。現地の古老森永律雄氏(大正五年生まれ)
のお話によれば、のろしがあったと伝承する場所は二カ所あり、一つは城が鼻。
馬場城の出城があったところで峯尾とも西峯尾ともいう。城が鼻から馬場城まで
の尾根を西山というが、早がけ道という馬が一頭だけ通れる道があった。もう一
カ所は黒峯尾とも東峯尾ともいうところで台場とも呼んだ。海岸近くに石小づみ
があったという。「大友宗麟の頃はこっちが騒々しかったときいている」とのこ
と。宅地造成の際に黒部古墳三基が保存された。登ってみると前者は薮が多いが、
後者からは受け継ぐ烽火台である北の蓑島(沓尾)、東の雄熊山が明瞭に見通せ
た。
 小倉藩の烽火台としては先述したように、筑前からの火を継承する城下の南東、
足立山(標高598メートル)の存在が知られている。足立山、沓尾、角田と直
線的に烽火番所が配置され、中津領、さらに日出に続いていた。
 一方ここに記された七カ村はいずれも今日の犀川町に属する村々である。この
文書のいうように、それぞれの村はこの烽火番所の西(西南から西北)に位置し
ていた。しかし地図を見れば分かるように番所と村がそれほど近接していたわけ
ではない。距離からいえばおよそ10キロから15キロは離れていた。ただそち
らの方角に当たるという事が問題になっている。        
 こうした野焼きはなぜ「のろし」の支障になったのか。番所相互間はほぼ直線
に配置されている。小倉方面から見た場合には、異なる方角にある野焼きの火を、
番所の火と見誤ることは考えにくい。しかし中津方面からは、角田番所の後方に
これらの村々が位置することになる。くわえて史料には烽火番所よりの「見掛之
山々」とあった。つまり七カ村の方向は、そこから火が揚がれば異変のあったこ
とを意味するものだった。
 小倉藩では海岸沿いの幹線ルートを設定し常備兵としての番人を置いた。同時
にそれに連絡する支線をも用意していた。ただし支線には常備兵の配置はない。
それは随時・臨機応変のものだったから、野焼きの煙が誤烽・偽烽になる恐れが
あった。そのことが懸念されたのであろう。
 なおこの年はそれぞれの手永大庄屋が烽火番所の所在する手永大庄屋にこの旨
を文書で連絡し、つぎに大庄屋が「烽火番人中」に通達をし、さらに野焼実施の
日にちを連絡する体制をとったうえで、野焼きが実行された。つまり番人こそは
配置されていたが、実施に当たっての課題の解決、実際の運用には番所所在の手
永大庄屋を始め、村々がかなり深く関わっていた。烽火体制の維持に、村々の負
担は少なからぬものがあった。

 * 史料中「中津」とあったものは、中津藩領内の烽火台を指す。中津領の 
「のろし」に関しては、藩政史料も残っており、『築上郡史』『中津市史』等に
記述がある。その所在地は上毛郡吉岡村雄熊山、下毛郡野依村清水山、宇佐郡北
山村大蔵山の三カ所である。このうち野依の烽火台は良好な状態で保存されてお
り、中津市指定文化財になっている。吉岡(現新吉富町)のものも煙道口が残っ
ている(『新吉富村誌』、こののろし台作成時の経費を示す史料が中津市立小幡
記念図書館に所蔵されている。半田隆夫「豊築地方の江戸時代の庶民生活」<築
上郡文化財協議会・口頭報告資料>)。小倉藩領内の「のろし」が多く忘れられ
ていることと較べると、旧中津藩領は全体的に保存が良いという印象を受ける。
実際に堅固なのろし台を作ったのが中津藩のみであったのか、あるいは近世の藩
政史料が残るかどうかによって、遺跡の保存にも影響を与えたということか。

近世その三 「のろし」の技術
   以上見てきたところ、および前掲書に述べたところを総合しつつ、中近世の
「のろし」の特色を概観しておこう。
(1)「のろし」には幹線とそれに至る支線があった。幹線には烽火番が常置さ
れたが、支線では一般からの情報提供を待って幹線につないだ(*この場合の報
酬は「褒美」である)。
(2)「のろし」の幹線ルートでは常備兵・専属の人間が置かれたから、定期・
定時の交信が行われた。このことによって「のろし」の有効性が確保された(*
このことは筑前藩の烽火番配置や前掲書に見た米相場師達の「のろし」に明瞭で
ある。ほか対馬の火立の事例にも明らか)。
(3)昼の煙よりは、夜の光(火立)の方が有効だったと考えられる。ただし夜
では民間の協力を得ることは難しかった。
(4)「のろし」は原理は単純で、どちらかといえば原始的なもののはずだが、
実際には確実に情報を通信するためには、技術的な熟達が必要とされた。遠眼鏡
利用はそのひとつで、古代にはなかったが、近世以降に用いられた高度な技術で
ある。
(5)幹線には高い山が選ばれることも多かった。天気にさえ恵まれれば、高山
の方が次への「のろし」台までの直線的な距離は長くすることができた。後方が
空だから煙も見やすかった。しかし低山もそれ以上によく利用された。悪天やア
クシデントの際は、低山の方が有利だった。
(6)距離が延びれば延びるほど、通信技術は高度なものが要求される。煙は遠
くからも認識できるよう、濃く、まっすぐ上に伸び、他の煙と混同されないもの
が必要とされた。
(7)「のろし」の誤報・偽烽をさけるために、相当の広範な領域に野火などの
火を燃やす行為を禁じるといった規制が加えられた。

 最後に「のろし」の技術に関連して、近世にはどのようなものを混入して煙を焚
こうとしていたのか、それが分かる史料、『南路志』闔国之部を引用しよう。

狼糞一升、煙草茎十把(一尺廻り)、焔硝二百目壷入(一度分五、六匁)、鉄砲
明薬三百目(同)、肥松十五貫目、摺りぬか(五斗入)、青松葉、ヒササギ、小
鍋一枚

(丸山雍成「海の関所と遠見番所」渡辺信夫編『近世日本の都市と交通』<河出
書房新社>より)

 このうち狼糞の実態は定かではない。『築城記』や前掲の韓国の文献にも狼糞
はみえる。狼糞は中国、朝鮮、そして日本とアジアの中国文化圏に共通する。原
典は中国の兵法書であろう。永留前掲書に「燃料の少ない砂漠では牛・馬・羊・
駱駝の糞を乾燥させ燃やす。いまもシルクロード沿線の烽にいくと案内者が狼糞
の話をしてくれる」とある。狼糞は大陸内陸部の技術である。日本にはこの技術
は導入しにくかった。『和漢三才図会』は「狼糞雖最佳、難多得、故今不用之」
としている。当然の意見である。もっとも兵法家達は秘伝としてこうした「狼糞」
の入手法などを伝授したのであろう。もしかしたら何らかの薬品が狼糞として売
買されていたのかもしれない。現代の我々の印象ではアスファルト、発泡スチロ
ールなど石油系の物質は濃い煙が出るように思う。アスファルトは既に縄文時代
からやじりの接着剤に使用されており、人々はそれを火中に投ずれば濃い煙の出
ることを経験的に知っていたかも知れない。
 煙草・青松葉は煙を濃くするもの、焔硝・鉄砲明薬は煙に色を付けるもの、松
ヤニの多い肥松(こえまつ・油松)は煙を上方に揚げるためのものだろうとは見
当がつく。
 しかし先の長崎烽火山の番所壁書には「放火ニ用候柴萱之外生柴木等」を用意
して置け、とだけある。実際には多く焚く機会のあったところでは、あまり細か
いことはいわなかった。
 かくして「のろし」は先に伸びて行く。「より早く、より遠く」。これを実現
するためには二つの方法がある。一つは高山を選び、遠眼鏡を置き、遠距離の
「のろし」技術を開発すること。もう一つは逆にこまめに短い「のろし」台を設
置していくことだった。間隔はより短い方が現実的だ。しかし短い「のろし」は
より多くの「のろし」と人員の配置を必要とする。経費は数倍必要となる。
 先に述べた福岡藩の烽火は文化十三年(1816)わずか六年で廃止された。
「のろし」の恒常的な維持には莫大な経費がかかる。天候やアクシデントによる
失敗も軽視はできまい。しかし捕鯨や米相場での「のろし」は、すたれることは
なかった。目的・成果が「のろし」のコストにあうのかどうか。軍事・民事。そ
れぞれの目的とそれをめぐる状況に応じて、「のろし」は廃絶されることもあっ
たし、絶えず維持されていく場合もあった。

 さて本稿は最初に古記録、軍記物ではなく、古文書によって、「のろし」の実

態を明らかにするとした。最後にあたり、ごく簡単に記録の側の「のろし」の世
界をのぞいてみることとしたい。
  『太平記』によると、予期せずして敵地側で戦闘をすることになった脇屋義助
は、越前国鯖江宿の在家二十ヶ所に火を懸け、狼煙を揚げて遠方の味方に合戦の
始まりを知らせた。『政基公旅引付』永正元年四月五日条によれば、根来寺、粉
川寺の僧兵は、敵地に侵入し、「契約の煙」として二宇の在家を焼いた。前者は
緊急事態に際しての、臨機の行為であり、後者は「契約」とあるように、当初か
らの予定の行為であったが、いずれも敵方の家を焼くという手段により、「のろ
し」を揚げた。煙を用いた通信そのものであって、これもまた「のろし」である。
 文書の世界では「のろし」はごくわずかしか登場しない。そこでは常時の「の
ろし」が詳述され、その位置についてもかなり正確に記される。そうした文書の
世界に較べると、こうした記録の世界に描かれる「のろし」は、むしろ臨時的で、
一過性のものであり、非常設のものも多く含まれていた。これらの「のろし」を
焚く行為は、多くは後世の利益には結びつかない。だから文書に記されることは
少なかった。古文書の記述は正確で、詳細であることが多い。正確な記述が、恩
賞につながる場合もあった。一方、記録、軍記物は古文書が叙述しにくい世界を、
古文書では分からない世界を描いている。「史学に益なし」とされてしまった
『太平記』だが、実際は文書が記さぬ史実こそを明らかにしてくれる。『太平記』
に同じく、放火がすなわち烽火であるという、現在のわれわれには想定しにくい
行為を、『政基公旅引付』もまた記録していた。
 最後に当たり、こうした無数の「のろし」が過去の社会に存在したこと、それ
は、けっして古代社会だけのものだけではなかったことを確認して、結びとした
い。

史料追加(090708)
明応八年(一四九九)、清水山にのろしがあがり、清水寺の鐘が打たれる
(『清水寺史』史料編96頁より)。

鹿苑日録 明応八年(一四九九)九月
(二十四日)夜半清水山之上、挙燧、而鳴清水山鐘、至暁未止也、夜已明矣、
鐘声未止、狼煙自山間而上矣、

のろし(狼煙・烽火)については
66  2003年  古代中世の長崎街道        
烽火台にみる長崎街道の軍事的側面--亀井昭陽『烽山日記』および古代烽
86) 2006.3.31 『行橋市史』総説(35〜40頁) 
でも言及しているので参照されたい。

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