「歩き・み・ふれる歴史学」 調査レポート

 

調査者: 木村壮太郎(1EC98047)

中間葉月(1EC98112)

村の名前:波多津町田代

話者:谷崎寿昭さん(昭和16年生まれ)、啓子さん(不明)

   福野定治さん(不明)年は教えてくれなかった。

しこ名一覧

田畑 小字 火ノ口原のうちに イワミチ、オトシロヤマ

      下ノ原のうちに  シタンマ

      中ノ原のうちに  ミゾノウチ、ノウテ、マエダ、トンモト

      大平のうちに   ゴンゲンサマ、カミサマノウチ、アカイヒゲ、

アラハラ、ハッチャバタケ

      上ノ原のうちに  キシノシタ、シラキ

      柳ノ内のうちに  ナクリシ

しこ名

田畑 小字 フウズキ木場のうちに シャーレン

      白木のうちに シラキ

      守戸のうちに カクラザカ、カンネガサク

 

ほりについて:ほりについて尋ねていたが、よくわからないという返事が返ってきたので、結局情報が集まらなかった。

しいどについて:しいどについて具体的な名前はよくわからないと言われた。現在では、しいどは工事によってポンプ化してしまったそうである。また、使用にあたっては、田代と他の2部落で、共同使用をしているらしい。

道・はし・井樋について:具体的なしこ名についてはわからなかった。(どうも田以外は名がわからないようである)道は戦後の工事によってかなり変わってしまったということである。

1994年の大旱魃について

 この地域も、1994年は大きな被害を受けたという。最初は村のどこにおいても水が不足

する事態に陥った。そこで、飲料水の確保の目的から、ボーリングを村の多くの場所で行ったそうである。このボーリングのおかげで飲料水を確保することができ、その一部は田にも接続して、農業用水としても使用したという。また、この村は田代堤という伊万里市でも有数の池があって、この堤のおかげで、田に用いる農業用水の大部分を確保することができたそうである。

 この村では飲料水は水道水に頼らなかったという。時間給水は行わなかったらしい。

田代堤や大規模なボーリングにより、多くの水が確保できたからである。犠牲田という

のは作らなかったが、他の分野においては、みかんが、安値になってしまったため採算

が合わず、栽培することをやめてしまったそうである。

 ・40年前に起こっていたらどうなっていたか?

 40年前であったら、ボーリングを行う機械や技術がなかったため、なすすべもなかった

だろうと話しておられた。

 

村の水利について

 この村には田代堤(伊万里市の中でも有数の規模)があるため、他の村との水争いもなかっ

たという。また、水の確保においてもそんなに困ることはなかったという。池をコンク

リート化することはできないそうである。

 

村の耕地について

・良田と悪田について

 土壌と日照時間によって、良田、悪田では全く収穫量が違うのだという(米で言うと、俵

が何俵と言うくらいにかなり量が違ってくる。)村のどこが良田で、どこが悪田かというこ

とを尋ねてみると、いくつかの場所を教えてくれたので記してみたい。

 良田:中の原一帯(米が非常によくとれる一等地)

 悪田(そこまで悪くない田も含む):フウズキ木場、柳ノ内一帯(山沿いのため米少ない)

                 シモノハラ(湿田で、米がほとんどとれない)

・肥料について

 今から約30年ぐらい前を境にして、化学肥料を使用するようになったという。生産

力が大きく異なってきて、多くの収穫が見込めるのだが、土壌の汚染などの問題、人体

への影響などの問題など課題点も多いそうである。

 化学肥料を使用する以前は、堆肥や牛の糞などを肥料として使用していたという。

30年以上前は、農村では牛やニワトリ、ウサギなどを飼っていて、それらの家畜の糞を

肥料として使用していて、またそれらで十分の量であったそうである。

 農業技術の革新によって、現在ではほとんどが化学肥料を使用しているらしい。

 

・入会地について

 昔は田代堤の近くに入会山があって、杉を植林して林業を村で行っていたそうである。

ところが戦後、近年になって、杉の価格が暴落してしまった。杉というのは、下草刈りや

間伐など、手間や費用がかかる作業が多く、そういう作業を含めると、とても採算の合

うものではないらしい。というわけで、管理・手入れなど次第にしなくなり、荒廃して

しまったという。今では所有を希望する個人に分けてしまって入会山はなくなったそう

である。

 

・燃料の薪について

 ご飯をたいたり、風呂をたく燃料にする薪は、おもに先ほど記した入会山などから確

保していたらしい。

・村の道について

 道については、地図の上に記しておいた。興味深かったのは、学校道について尋ねた

時に、話の一部として学校の合併の話が出てきたことである。今も昔も、田代には学校

はないので、村の隣の地区まで通ったらしい。昔は板木の方に学校があったのだが、合

併して現在は筒井の方に波多津東小学校がある。(新しい、綺麗な校舎であった)

 なお、縄手という道があったかどうか尋ねてみたのだが、残念ながらまたよくわから

ないと言われた。

 

・米の保存について

 昔はわらのかますの中に薬を入れ、木の箱に入れて保存し、ネズミや虫の被害を防い

だそうである。他に、直接俵に入れて保存したケースも多かったらしい。

 

・精米について(米の保存のついでに教えてくれた)

 昔(とはいっても戦後)はモーター機器を自宅に置いていて、自宅で精米していたそうで

ある。今は農協に行けば10kgあたり100円で精米してくれ、しかもその方が自宅精米

よりも安いので、今ではすべて農協に依存しているとんことである。

 

・他の農業について

 この村では、米の他に、みかんやなしも栽培していたそうである。ところが、近年の

道路工事や1994年の大旱魃によって大きな被害を受け、全体として下火になっているの

が現状であるという。谷崎さんの家に、工事が行われた後の村を写した写真が飾られて

いたが、工事前とはかなり大きく違っていた。その際に消滅した農地もあったそうである。

 

・村の他の産業について

 入会地の項目でも述べたが、山林の仕事が昔は高い収入が見込め、盛んに行っていた

らしい。しかし、現在は木材価格下落などにより衰退している。

 

・村の生活文化などについて

 風呂は、昔はゴエモン風呂が中心で、燃料に薪を使っていたらしいが、現在は灯油を

燃料としていて、ガス風呂もあるそうである。村では定期的に集会を開いていて、祭り

も年3回あるということである。祭りは、昔は村の豊作や安全を祈願する儀式のような

ものであったが、今では形式的なものになっているそうである。

 

・村の現状と将来への展望について

 日本のほかの農村と同様、この村が置かれている状況は非常に厳しいものがある。

 この村に住んでいる農家のほとんどは兼業農家であり、専業農家であるのは谷崎さん

の家を含めて3家しかいないそうである。先ほど書いたように、農業の他に仕事を持た

ないことには、とても生活していけないらしい。農業用機械の購入費や維持費、肥料代

などの様々な経費を支払っていくと、農業だけの収入では良くてギリギリの生活、悪い

場合赤字の生活になってしまうそうである。

 この村では過疎化、高齢化が非常に進んでいて、(実際村に若い人はほとんどいなく、

高齢者が多かった)若い人はどんどん都市部に働きに出てしまうらしい。村の若い人口を

増やしたいのだが、経済的に苦しいので、子供もなかなか生むことができないそうであ

る。谷崎さんの家では、息子を、将来は農村に帰ってくるといる条件で都市部に行かせ

ているそうである。

 村で最低限の生活をしようとしたら、1人1台は車が必要なのであるが、その経費も膨

大で苦しい。消費者が農産物を選び、価格を左右するので大変であると言っておられたが、

日本の農業問題を考える上で欠かせない問題の一つであると思った。



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