若木町川内

1TE99272 梅田樹

1TE99258 市澤豪

村の名前:川内  訪問先:藤川節さん

 

 私たちの訪れた川内区は「八幡岳中腹に東西に広がる武雄市最北の区」。このような説明や前もって手に入れていた地図から川内のある程度の様子は窺い知ることができていたが、バスから降ろされると、のどかさは予想以上のものであった。コンビニエンスストアはおろか店など一軒もない。「昼食はどうしよう」と困惑しつつもこうしていては始まらないと思い、川内の公民館を目指すことにした。地図で見たところによると幸運にもバスから降りた場所から公民館は非常に近い。早速、公民館の方へ歩いていくもののそれらしき建物がない。地図に示されている場所には民家がある・・・と思いきやその民家のような建物には看板があり、そこには「公民館」と書かれている。玄関から声をかけるが応答は無く、人のいる気配がない。あきらめて一番近くにある民家を訪ねた。事情を説明し、川内の歴史について詳しい人を紹介してもらった。その人の名前はフジカワタカシさんというらしい。教えられた通りに道を行くと藤川さんの家に到着した。外に藤川さんの奥さんらしき人がいらっしゃったので再び事情を説明すると、藤川さんはいま仕事で外出しているということだった。奥さんに畑の場所を案内してもらい、ようやく出会うことができた。その日はみかんをもいでらっしゃったらしく横にあったトラックには陽を浴びて輝きを放つたくさんのみかんが積まれていた。仕事中ということもあって恐縮だったが、川内の歴史について話して欲しいと頼んだらいろいろ答えてくださった。

 

 このあたりには昔から造り酒屋や質屋が多かったそうだ。また、村の歴史は農業の歴史と結びつきが強かったようだ。戦前はまだ化学肥料などなかったので、草を肥料にしていたそうだ。その草も八幡岳に朝から取りに行っていた。またその頃は地力、すなわちその土地の質も場所によってかなりの差があったそうだ。しかし、戦後から化学肥料の導入によりその差もほとんどなくなったらしい。

 話を少し聞いたところで藤川さんが家で話してくれるとおっしゃったのでお言葉に甘えて連れて行ってもらった。軽トラックの荷台にみかんと一緒に乗り、藤川さんの家までいった。家ではお茶やお菓子を出していただいた。本当に親切にしていただいた。

 話の続きを聞かせていただいた。米作りでは昔から共同でもみ抜き機械などを購入し、みんなで使用していたそうだ。また少しでも水があるところでは水路をつくろうと若者が中心に努力したそうだ。そんなわけもあって土に小便をしていかにも水があるように見せかけたという笑い話もしてくださった。いま、ダムができているところは昔の米の一番取れる場所だったらしい。田は棚田が多かった。

 出稼ぎに行く人は今はほとんどいなく、前は唐津炭田などに行っていたそうだ。炭焼きが一番の現金収入だとも聞いた。川内から離れる人はほとんどいないというのは意外だった。

 これだけ山の奥にある集落では魚などの海産物をどうやって手に入れていたのかと質問したら魚屋さんが自転車で決まった日に山を登って運んできていたということだった。やはり、日持ちするように塩物が中心で鯨が多かったそうだ。(週に1度くる)

 昔の子供たちはお年寄りから話や物語をしてもらうのを楽しみにしていたそうだがそれも昭和30年代くらいから少なくなってきたらしい。また、先ほど書いたように若者たちには開墾することも日常生活の大きなことだったらしい。貧富の差はほとんどなく、ほかの村との交流も比較的あったそうだ。

藤川さんの家もそうであったが、犬を飼っている家が非常に多かったので何か特別な利用があるのではと質問してみたが、特に理由はないが、昔は猟をやる人が飼っていたということだった。水事情については竹蓑というものをひいて、各家庭や田などに水を供給したそうだ。竹蓑というのは、竹の筒に穴を所々にあけたものを使い、高いところから低いところへ水を送るもののことらしい。電気は大正ころ、プロパンガスは昭和30年代〜40年代そしてテレビは東京オリンピックの前の年あたりから普及したそうだ。男女の出会いに関しては佐賀の城の方の地域に行くなどしていたそうだ。食事は78割程の家は戦中主にあわ、麦しか食べたこともない程で白米などとんでもなかったそうだ。いま、ダムとなっている部分は全て田だったらしく、今は記念して祭りをしていると聞いた。

また、このような人の少ない社会では金でものを業者に頼むのではなく、協力社会だそうだ。これ以外にも藤川さんは「共同」や「助け合い」などということを強調していてそこには古き良き日本人の慣習が感じられた。思わず私は「こんなところに住みたい」とつぶやいてしまった。都会などには見られない良さが本当にたくさんあった。

藤川節さんは歴史について非常に詳しい方で、以前「広報武雄」の19996月号に川内の歴史について執筆されたほどの方だった。それを見せていただいたところ、川内辺りは昔、佐賀城と筑豊を結ぶ交通路の中間地点として栄えたそうで、寺や神社も多かったそうだ。また、溜池が多いことについても教えてくださった。

いろいろなことを教えてくださった節さんや親切にしてくださった奥さんにお礼を言い、川内をあとにした。歴史のことは勿論のこと、人の温かさなども感じられた良い調査となった。まさに教師というのは大学だけにいるわけではないということを改めて認識させられた。



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