佐賀県藤津郡嬉野町上吉地区岩ノ下

                       1EC99243 福島早苗

                       1EC99224 立石直美

●今回お世話になった方々

岩本阿喜良さん・山下恒生さん・谷口竹郎さん(74歳)をはじめ上吉田のみなさま。

●小字としこ名について

村の名前    しこ名(カタカナ)一覧

吉田      田畑:小字「前田」

大字:岩ノ下  ほか:小字「十郎丸」のうちに  コザコ(小坂・小谷)

              ブショウボウ(武将坊) 

小字「本松」のうちに  ナクサコ(中坂)

小字「榎坂」のうちに   ヒコタロウ(彦太郎)

             ウンズー(鬼童丸)

             ダブセキ・ラクセキ(落石)

           小字「横竹」のうちに   ウーサコ(大坂)

                        コーゴイワ(金剛岩)

                        ドンクイワ(どんく岩)

                        ビシャゴ

                        イボシバ(犬干し場)

                        チョウリンボウ

「鬼童丸」は、昔その場所に鬼童丸と言う人が住んでいてそこに彼の石碑が建てられていたことからその名がついた。鬼童丸の石碑は、水害による土砂崩れによって壊れ、今はもう無い。

 「どんく岩」の「どんく」と言うのはかえるのことを指しており、岩の姿がまるでかえるが四つん這いになった姿と似ていることからこの名がついた。

 「びしゃご」とは、とがった岩のことである。

 「いぼしば」は、昔犬殺しがいてそこにいつも犬の皮を干していた。

 

● 村の水利

 岩ノ下地区は、吉田川に隣按していることから、村中にはりめぐらされた水路を通じて農業用水および生活用水を吉田川から引いている。生活用水は、一旦、岩ノ下浄水場で浄化される。1994年の大早魅の年にも、吉田川から水を引いているため、たいした被害は受けなかった。また今年8月、横竹地区にダムが完成することから、この地区の取水にはこのダムが利用されることになる。この横竹ダムは、中尾口橋から赤瀬橋にかかる大きさ(堤高57m;、堤項長249m;、堤体積180000㎥;、総貯水量4290000㎥;)で、かつての横竹地区の住民は立ち退きを強いられた。よって、24軒あった家は、1軒は岩ノ下に、3軒はかたまってダム近くに立ち退いたが、残りの20軒は便利な都会へと移住していった。ダム建設によって、県道皿屋・三河内線は封鎖され、現在山越えの道が新県道となっ

た。

● 村の耕地

 A:福島・立石   B:吉田のみなさま

 A:この田んぼの中にですね,出来が良いとことか悪いとことかありますか?

 B:出来が悪かとこかよかとこや?

 A:はい。

 B:だいたいどの田んぼも一応圃場整備されととるけんね。

 A:あんまり変わりません?

 B:やっぱりこっちの上のほうが上よか下がよか。

 A:こっちのほうがいいんですか?

 B:うん,下のほうが水がちょっと日照時間があの当たってな・こっちが山とかあるけんな,陰になったりするけんが下がよか.

 B:そけ、分かるとはいつもよこでんとこたい。とうがいやったもん。ヒヒヒ(笑)。

 A:とうがい?とうがいって何ですか?

 B:順番に入らんったい。よか田には入らんとたい。順番には。

 B:そいけん、圃場整備する前にはね,地租貸金ちゅーて違うわけたいね。だけ、今こういう風になってしもてさ、土地の評価とか言うもんがさ、それがどこまでと区別してね、そればするっちやなか。それとだいたい上に行けばすべての水の上げの上の田ん中で冷たか水のくるとこは落ちるわけで、下さ下さ中尾口わたってね、もっといったとこにとうがんが田ん中にあったと。オレん田ん中やったもんな。

 AB:ハハハハハ。

 圃道整傭後は、田んぼごとの出来の良し悪しはあまり目立たなくなったが、前田の中でも中尾口橋に近いほうの田んぼは山との位置関係上、山の陰になりやすく、日照時間が少なくなるため、多少の影響は出る。吉田川の下流に行くほど稲の実りは良くなる。実りの悪い田んぼを特に「とうがい」と呼んだ。

 肥料は、いまは化学肥料、戦前は山で刈ってきた草を乾燥させ、または生草のまま田んぼに入れ、牛で耕していた。牛はかつては一家に一頭ずついて、農作業に使われていた。また、馬はあまりいなかったが、いたとしても荷車引きとして使われた。

 周りに水田が目立ったが畑作も行われており、最近は畑作といっても、もっぱら茶の生産ばかりである。昔は、さつまいも(いもがま)・麦・大豆・そばなども作っていた。その際、畑の中で日当たりの悪いような端っこのほうなどに茶を、中央に裸麦などを栽培していた。生産物のほとんどは自家用であったがサツマイモに関しては、半分ほどは軍機の燃料となるアルコールの原料として町に納めなければならなかった。それでも余ったサツマイモはわらに包んで庭に埋め、次の年用にとっておいた。また、軍用には、山で刈った草も出荷していた。

●米の保存

 昔は、しょうじ紙を何枚も重ねたような紙の袋に米をいれたあと、「かます(めっき)」という、わらで作った袋に入れて保存していた。「かます」とは、他の地域では「こうぞう」や「みつまた」と呼ばれている。米を60kg貯蔵できる。そして、かますに入れた米は、ねずみの被害に遭わないように棚を作ってその上に丸太を敷き、さらにその上においた。また、ねずみ対策に、「杉の葉」も添えた(杉の葉はとがっているので、ねずみがそれをかじると逃げていく)。最近では、米の保存には紙の袋が使われている。

 村には、封建的な制度が農地法が出来るまで根強く残っていた。この地域には、大地主が2人いて、小さい地主もポツポツいたが、村の人の大半がこの大地主から

土地を借りていたため、その土地で収穫された作物のうちの半分は地主に納めていた。地主と小作人との関係は絶対的であり、地主は大いに権力を持ち、小作人はそれにさからうことはできなかった。

● 村の祭り

 岩ノ下地区では、8月に八天神社で行われる「八太郎祭り」が年のうちで代表的なものだ。この祭りは、いわゆる「灯篭祭り」のことだ。昔この地域に田んぼを寄付してくれた『田島八太郎』をまつつたものであり、この田島八太郎の石碑もたてられている。

● 昔の若者

昔の若者は、小学生くらいの頃から、草履作りや家の手伝いなどして働いた。小学校を卒業すると、村の男子は皆『青年クラブ』という集まりに入会することになっていた。夜になると、「わっかもん宿」と呼ばれる溜まり場に集まり、先輩たちから社会教育を学んだり、精神修行の場として寝泊りもした。先輩の命令には絶対服従であり下の者に言論の自由はなかった。そんな若者たちの楽しみは年に一度6月に1週間かけて行われる『藤の花見』だった。この1週間はわっかもん宿にずっと寝泊りし、ドンチャン騒ぎした。寝るための布団を繕ったり、洗濯をしに村の娘達がやってくるのも一つの楽しみであった。そこではよく「鯨と玉ねぎの煮物」などをよく食べていた。(当時、長崎・佐世保から鯨の肉を売りにわざわざ商人がこの地域までやってきた)この楽しい1週間の間にも1日、一番下っ端の男子がひざを立て延々と先輩たちから説教を受ける日があった。

 B:精神修行は厳しかったとよ。今のごとね、言論の自由はなかったわけよ。とことんやられよったんよ。目上の人には挨拶をせな、「昨日お前しとらんかったろう」てことになる。

 A:え、それをですね、夜の間に習うんですか?

 B:そ、夜泊まるけんが。

 A‥夜泊まるから。そしたらお昼は働きながら、その夜のときにそういう反省を・・・。

 B:朝早く帰って我が家の仕事をせんば。

 A:そしたら、寝る時間てどれくらいなんですか?短くないですか?

 B:寝る時間とか、そりや、若いときには…(笑)。

 A:え、だってお説教とか。

 B:遊び遊び、よすみしたりしてね(笑)。

 B:あんたら、そこば強う先までつかな!

      AB:((笑))

 B‥おどんときは、もうそがんなかったけん。ほら、強う聞かんば!何でですかって、夜なのに何で寝る時間がなかったんですかー。

 A:(笑)何でですか? 聞かせてください。

      AB:((笑))

 A:興味津々なんで(笑)。

 B:よびゃーはね、九州はおろか全国、沖縄まであったよ。

 A:え、何がですか?

 B:よばいってのはね。

 A:うん、そうですね。

 B:与那国島の人でもちゃんと。

B:先輩達があそこにおなごがおるけん行けて。

A:それは知ってる人のところですか?

A:先輩からの命令で行くんですか?

B:そ、先輩からの命令で行くと。

A‥え、自分は全然行きたくなくても、先肇が行けって言ったら行くんですか?

B:そ、行かんば行かんば。(笑)

A:それって約束とかしてるんですか?

B:そりゃー何回も行きよれば約束事になるたいね。

B:「また来てね」とか。

 私達の考える夜遊いとは性質が異なり、親公認であり、また強制的であった。娘のところに男がやってこないと、寂しがる親もいたほどである。

 

● 村のこれから・日本農業の展望

 最近では,減反政策の影響から思うように米を作らせて貰えないのが現状だ。「もっと米を作らせろ。」と町民達は口々に言った。「農業は,経済活動における根源であるから、農家がうまくいっていれば社会全体が好景気になるはずだ。」しかし、若者の農業離れが進む中で、もし稲の栽培をしたいという人がいても、最近では稲の苗さえ1800円で買わねばならず、何かとJA(農協)にお金をとられる。「苗くらいただで町民にあげれば、もっと気軽に農業に親しめるのに。」と町民達は顔をしかめた。

これからの日本農業の展望について町民達は「大型化」を挙げた。今は、個人個人の田んぼを個人個人で営んでいるが、ゆくゆくはそれらの田んぼも皆一つのものとして大型化され、会社経営のように共同で運営するようになるだろうというわけだ。「そうなると、失業者が増えていくし、いいことなんてない。そのうちきっと大飢饉がおきるぞ。」と複雑な顔で語っていた。

 

1日の行動記録)

1100 現地到着。その足で岩の下公民館へ。

1130 調査開始

1500 周辺調査(前田・ダム建設地など、現地の自然にも触れた)

1600 現地撤収

 

(感想)

 短時間での調査だったので、まだ聞き足りないところ、見足りないところがあった。現地では親切かつ丁寧に色々教えていただき、本当に勉強になったと思う。特にこれからの日本の農業の展望については、我々若い年代にとって考えさせられた。大型化が進み便利になるもの(人)がある一方、極地にさらされる危険を生じるもの(人)もあるのだ。そのようなことをしっかり頭に叩き込み、これからの日本を支え、動かしていくことが、我々の使命だと思うのだ。

 最後に、時間を裂いてまで協力して下さった方々に感謝いたします。



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