【西松浦郡有田町上南山】

水曜4限歴史の認識 現地調査レポート

1LA98195 畠中雄一

1LA98183 永薮泰央

1LA98216 船場和男

 (クラスは3人ともL2−8組)

 

 

聞き取り調査にご協力していただいた方のお名前

志賀明治さん 大正15年生まれ 73歳

志賀さんの奥さん

志賀さんの息子さん

樋口貞雄さん

樋口さんの奥さん

 

<佐賀県有田町 上南山>

しこ名  ナカノハタ  (中の畑)

     マクノトウ  (幕ノ頭)

     サンリョウゴク(三領石)

     カマノモト  (窯ノ元)

     カミナンガワラ(上南川良)

 

使用している用水の名前 南川良川、上南山井手

 

用水源 南川良川

 

共有しているほかの村 

用水自体は各部落ごとに引いているため、共有していない。ただし、川は下流の村と共有している。

 

佐賀県有田町上南山について現地の方から教えていただいたこと

もともとこの上南山という地区は、曲川(まがりかわ)村という村の一部であったが、曲川村は二つに分割され、一方は西有田町に、そしてこの上南山を含むもう一方の地区は有田町に吸収合併されたという。

聞いたところによると、このあたりでは現地特有の「しこな」「あざな」などの呼び方は特に用いられておらず、小字図を見せると、「ああ、それがあざなだよ。」という答えが返ってきた。小字以上の細かい地名を知っている古老の方は、今回の調査では残念ながら見つからなかった。

村の農業については、山間の地区であるため、畑作中心であり、米を作っているのは一部の方だけということであった。かつては米を作っている方も多かったそうであるが、減反政策によりその数は随分減ったという。よって、田についてのしこなを知っている方もいなかった。

しかし一方で、小字など様々なものにつけられた名前の由来を聞くことができた。

上南山の背後に、原明岳という名前の山があるが、江戸時代、この山を境に3つの藩(大村藩、鍋島藩、平戸藩)が存在していたという。それでつけられたのが、「三領石」という小字だという。また、谷にあたるこの地区の中心を1本の通りが走っているが、この通りをかつて大村藩の参勤交代行列が通っていたという。

村の暮らしぶりについて、この地区の用水源は、通りに沿って流れる南川良川(なんごらがわ)であるが、1994年の大旱魃でも、(流量はやや減ったものの)大被害には至らなかったという。その理由を尋ねると、この川の上流は、夏になると地下を流れるようになっており、そのため雨の降らない日が続いても、常に安定した流量を保つことができるようになっているという。また、山の木が根をはっているため、水が枯れにくいそうである。ただし、川の水の量は年々減っており、植林する前の昔の方がより水もちがよかった、ともおっしゃっていた。

村の電気については、話を聞いた古老の方が子どものころ、70年前にはすでに白電灯があったそうである。水道は約40年前、プロパンガスは30年ほど前に来て、それまではかまどを使い、食事や風呂(五右衛門風呂)の支度をしていたという。また、道路が舗装されたのも約30年前である。

農耕牛や馬も、30年ほど前までは実際に利用していたそうであるが、現在は用いられていない。しかし、それらに使われていた飼料について、興味深い話が伺えた。当時、牛や馬の飼料は、鉄道線路の草を入札して手に入れていたという。(金を払って、「切らせてください」というように。)

また、かつてはほとんどの家に井戸があり、大部分の家の前には共同風呂があったという。この地区の井戸は鉄分が多いのが特徴である。

地区の後ろには原明岳を中心に、数多くの木が茂っている。昔はほとんどが国有林であったが、現在は町有林となっている。

その原明岳について、もう一つ興味深い話がうかがえた。この原明岳は、かつては金山だったそうである。鍋島の方は人が所有しており、大正の初めごろまでは掘っていたのだが、含有量が少なくなって採算がとれなくなり、廃止されてしまったという。縦穴や横穴も埋められてしまい、廃止されて100年近く経つという。

ここの特産品について、この地区も他の有田の地区と同様、窯業がさかんである。ただし、陶土は裏の山からとってくるという訳ではなく、有田町の採石場「白地が丘」〔白磁が丘:入力者注〕というところからとってきていたという。また、その陶土をそのまま使うのではなく、天草の石を混ぜて使うことにより、その完成度を高めていたという。窯も昔はたくさんあったが、現在は減りつつある。

 

昔の配水の慣行・約束事 特になし

 

昔の水争いの有無 旱魃でも安定した流量を保つ川であったため、争いはなかった。

 

「幕ノ頭」の由来について

  「幕ノ頭」という地名は、昔、九州を制圧していた源為朝が、この地に幕を張り、黒髪山の天道岩に棲みついていた大蛇に弓を放った、という伝説から由来している。

 

道の舗装について

 昔は砂利道だったが、昭和30年頃から舗装がなされた。

 

夏祭りについて

この地域では、7月25日頃に夏祭りが行われる。通称祇園祭とも呼ばれる。昔は役者を呼び、各戸にあった「ばんこ」と呼ばれる大きな台を持ち出し、この地の神社である天神宮の境内に舞台を作ったそうである。この祭は、現在も行われている。

 

世帯数について

  昭和50年頃、この地には20世帯位が住んでいたが、現在は70世帯位に増加したそうである。この事実は、山村地は過疎で悩む、という現代の法則に反するものであり、我々を驚かせた。増加の要因として、都市部に比べ地価が安いこと、そして車の普及により、生活上の不便さが解消されたことが考えられるようである。

 

秋祭りについて

  昔は、11月頃にも若い衆を中心に、一緒に食事をするなどのことが行われていたそうであるが、今は夏祭りのみだそうである。

 

昔の生活について

  昔の子どもは、基本的に帰ってきたら畑などで手伝いをするのが通例だったそうである。しかし、当時は一輪車などなく、すべてかかえて運んでいたため、かなりきつい作業だったようである。

  また、幕ノ頭付近の山林は、40年ほど前まで国有林であり、冬場、「枯れた木々は取ってもよい」とされていたので、子供達は、山に入って枯れ木を集め、それを一年の燃料としていたそうである。

  魚は魚屋がかついで村まで売りに来ていたが、塩については各戸、町に買いにいっていた。が、戦時中は塩が不足していたので、自ら海に行って塩を作ったこともあるそうである。また、その頃はアルコールも不足していたので、田にいもや麦を植えてアルコールの原料としていたこともあるそうである。

  昔は農業のみで十分生計が立てていけた。が、池田勇人首相が「所得倍増計画」を打ち出した頃から村も豊かとなり、農業以外の仕事に就く人も増えたそうである。

 

水利争いについて

  基本的に下流の地域と水利争いが行われたことはない。国有林であった頃は、山の水もちがよく、水量は豊富であった。が、40年ほど前に町有林に払い下げられてから植林が始まったため、昔にくらべ水もちが悪くなり、そのため、砂防ダムが作られるようにもなった。しかし、5年ほど前の干ばつの際、さほど大きな被害はなかった。

 

今後について

  上でも述べたように、この地域は昔に比べ世帯数が増えており、今後も今同様、もしくはそれ以上の世帯数を有するだろうと考えられている。ただ、それと比例して、この地における農業就業者数が増えるとは考えられず、逆に、その数は減少するのではないかと考えられている。



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