【西松浦郡有田町戸矢地区】 歴史の認識現地調査レポート 1LA98131 杉本真昭 SU-19 1SC98112 高原博行 SU-27 1AG98221 丸谷一郎 L2-11 1EC98078 高木祐臣 訪問日:7月10日(土) 訪問地:有田町戸矢 ◎訪問地戸矢(とや)の由来 昔、古上山に大蛇が現れた。この大蛇を退治に出かけたヤマタノオロチが大蛇めがけて射た矢がはね返ってきて、この地区の家の戸に当たったことから戸矢と名付けられたということだ。 ・現在の戸矢の状況 人口500人(約170世帯) 若者の8割は県外に出て行くということ。→深刻な労働力不足。 有田町人口約13,000人全体でみても年100人ペースで人口減。 大方は農業を営んでいるが、そのほとんどが兼業農家。 ・有田の発展 有田の本町付近は豊臣秀吉が朝鮮征伐の際、朝鮮から陶工を連れ帰ってきて、この地に住まわせたのが発展のきっかけ。 ◎しこ名の収集 戸矢では田んぼ一つ一つにはしこ名にあたるものがないとのこと。 戸矢一帯を細かく分けた、各集落の名がそれに当たるのか?ということで、別紙地図にそれらを書き記す。(地図省略:佐賀県立図書館所蔵) 以下にその他のしこ名にしき地名を挙げておく。 ・化粧町……かつてこの地に遊郭があったことから。 ・コモダ(狐藻田)……漢字は明確ではない。現バス停「戸矢」の位置。 ・ハサミ(波佐見) ・竜宮……水の神様がいたのかもしれない ◎村の水利 かつて ・この辺りは石田川から引水していたため、他村との水の取り合いはなかったようだ。 ・田んぼ(水利)組合の指導のもと、水は石田川からいったん溜め池に溜められた後、各田んぼへ分配されていた。 ・水の分け方 →木で堰き板を作って、一番上の田んぼから順番に田に水を入れた。 ケンカが起こることも度々あったらしい。 ・きんどの堤 →いったん川の流れを堰き止めて、溜め池へ水を流すための堤。 干魃のとき ・ポンプで川から直接田んぼへ引水。 ・生活水は堤づてに貯水場へ引水。 ・堤の水も例年より少なくしか使えなかったので一斉に水田に水を流し、溜まったらすぐ止めるといった具合にしていた。 ・また、昔は浮立(祭り)で太鼓をたたいたり火を焚いたりするなどして気流を変えないように努力していたらしい。 →効果の程はさだかではないが、神からの御利益を求めてのこと。 しかし、干魃の際も何とか小さな被害で収まっているとのこと。 ◎村の発達 ・電気 上野(うえんの)は終戦後までランプ(ナタネアブラ)のみの生活だった。 16色ワットの灯火で勉強。 日没後、遅くまで起きていることはあまりなかったそうだ。 ・ガス 昭和30年頃まで薪を使っていた。 薪……自己調達。入り会い山のものでなく、個人の山のものだったが、枯れているものなら誰でも採集してよかった。 40年過ぎにガスが入ってくる。が、今でも各家庭ともにプロパンガス。 (農家) ◎人々の生活 昔 ・レンコン畑……戸矢一帯はかつて一面ハスが生えていたそうだ。 ・主食は麦飯。栄養価は高い。米は滅多に食べられなかった。 ・各農家にはたいてい牛が一頭飼われており、貴重な労働力であった。 馬はほとんどおらず、近隣の地域との行き来に用いられていた。 ・輸送手段には他にトロッコも使われていた。 ・ばくりゅうはいた。牛、馬の仲買人。 松尾カメジさん(昭和30年過ぎ) タオル(コタツ)の下で取り引きを行っていた。 商売がら多少ぞんざいな方だったようだ。 ・農民はたいてい朝早くから夜遅くまでせっせと働いた。→労働力の割に収入は低い。 ・農民は4度の食事をとっていた。 ・肥料の代わりに人糞を使っていた時期もあった。当時人糞はそれだけで野菜と交換してもらえるほど高価なものであった。 ・魚はめったに口にしなかった。ほとんど鯨。塩鯨にして保存していた。当時イワシ5斤で10銭もした。 現在 ・一反の水田から1俵から1俵半の米がとれる。 ・ ほとんどが自分たちの食糧。 ・ オール専業農家。 ◎昔の若者 ・男は小学校卒業と同時に青年会に入会させられた。 ・青年会……軍隊の予備軍のようなもので、絶対服従。結婚と同時に退会。 軍隊教育 「人の家から物を盗ってこい」 目上の人には逆らえない 「おしかばんた(食べて下さい)」 説教、罰の連続……割り木など。 ・袴に藁草履で学校へ通っていた。 <以下別の学生によるレポート> ・戸矢という地名にまつわる伝説 昔、戸矢の近くにある黒髪山に大蛇が住んでいた。その大蛇は町の人々に迷惑をかけていたので、源為朝という人がその大蛇めがけて矢を射た。しかし、大蛇の鱗が厚く、その矢ははね返り、現在の戸矢の辺りにあった家の戸にささった。というところから戸矢という地名がついたらしい。 しかし、昔の地名は戸矢ではなく、遠矢だったらしい。明治になってから伝説に基づいて戸矢という地名がついたということだった。 ・電気はいつごろきたのか? またそれが来る前はどのような生活だったのか? 電気は大正10年頃にきた。またその当時は電気のメーターはなく電気の使用は個人に任されていた。電気がくる前まではみんなランプで生活していた。戸矢の中の上野という部落には昭和20年頃まで電気はきていなかった。 ・ガスはいつごろきたのか? またそれが来る前はどのような生活だったのか? ガスは昭和30年頃まできていなかった。当時は薪(まき)がガスの代わりをしていた。山士(ヤマシ)という薪を売る人もいたが大抵の人は近所の山から自分たちで薪をとってきいた。薪をとるのをやめてからマツクイムシが増えて松が減ったということだった。 ・米は農協に出す前の時代は、いつ誰に渡したり売ったりしていたのか。 昔はとれた米は半分以上地主さんに渡していた。一つの田につき5俵くらいの米しかとれていなかったため、売ったりする余裕などなく、米はほとんど食べなかった。 米を作った後の田んぼで麦を作り、主に麦を食べていた。 農家の人がよかったのは食料が不足していた戦後の2年間ぐらいで、それ以外は農家は厳しい生活をしていた。農家の仕事はきつかったので、少ないながらも1日4食食べていた。 ・牛や馬はいたか。各家に何匹いたか。雄だったか、雌だったか。 一家に1頭ぐらい牛がいたらしい。34年くらい前まで博労という人がいて、牛や馬などの仲介人をしていた。「とうとうけしけし」というかけ声で牛をあやつっていた。 とう→左へ行け。けし→右へ行け。わあ→止まれ。という意味。 ・塩や魚はどのようにしていたか。 塩は前田商店という店で売っていたらしい。どのようにして仕入れていたかは不明。魚は港が遠いので重宝された。イワシでも宝のようだったらしい。主に保存ができる塩鯨が売られていたらしい。港から直接売りに来ていた。 ・田によって米の収穫量に差があったのか。 田によって収穫量の差はあまりなかったが、水の取り合いでケンカになったりしたらしい。農家の人は田んぼにマムシが出たりするのでカマを持って出掛けたらしいが、カマを片手にケンカをしたりした人もいたらしい。。 水は川からではなく、堤(溜池)から引いてきていたらしい。有田川を境にして南戸矢と北戸矢とに分かれていたらしいが、現在ではあまり関係なくなってきているということだった。有田川には北戸矢と南戸矢とを結ぶ南北橋という橋が架かっている。 ・戸矢番所にあった石碑に書いてあったこと 江戸時代、大村藩との間に番所があった。寛延4年(1751)の郷村帳には「戸矢番所あり」と記されている。また安政6年(1859)の絵図には番所の風景が描かれている。ここには皿山代官所の役人である「有田皿山陶器土見かしめ」が駐在した。明和6年(1769)「申渡帳」には「戸屋 八百右衛門」という人が陶器土見かしめに任命され、御小物成所より飯米を一人前毎歳一石八斗ずつ渡され、片時も油断することなく勤めるようにと藩からの命令を受けその仕事にあたったと記されている。 ここでは主に陶石の藩外持ち出しを取り締まっていたが、他に人の出入りや有田焼きの技術保存、密売防止などにも監視の目を光らせていた。今は番所の跡はないが、その名残は「番所浦」という字名で微かにその存在を確認できる。 [若者たちについて] 昔は小学校に上がる前から畑仕事の手伝いなどをして丸山会という青年会(地元の集まり)の青年部のような所に、15か16ぐらいでほぼ全員が入り、村の仕事や祭りの手伝いをしていたそうです。 また今では考えられないことだが、お話をして下さったかたの話では、戦前や戦中は軍隊のような集団で上下関係などもかなり厳しかったらしいです。(今ではそんなことは全くないそうでずが。)農村らしく、俵上げとかをして力比べをしたこともあったらしいです。 最近では村の若い人たちの8割くらいは村から出て行ってしまうので、今では丸山会という会自体が休止状態だそうです。(しかし、青年会はやっている。) [祭りについて] 浮立(ふりゅう)という10月に行う祭りがあるらしいです。10月だから収穫祭ではないでしょうか。 内容は黒髪山の神をたたえるもので、丸山公園と管野神社を大きな鉦(かね)を鳴らして、神輿を担いだり踊ったりして往復するそうです。しかし、最近では上にも述べたように村の若者層の減少により神輿を担ぐかつぎ手がいないそうです。祭り好きの僕はなんてもったいないことをと思いました。 また、今でこそ毎年10月の1回だけになった祭りですが、、祭りは干魃などのときにも雨乞いのような形で浮立をしたそうです。 今年も神輿のかつぎ手がいないのであれば担ぎに行ってみたいと自分がいるのはなぜでしょう。 [遊郭?について] いや、地元では結構有名らしいんですけどね、まあなんていうんですか、遊郭っていうんですか、そんなのがあったらしいんですよね。「円山」っていうところらしいんやけど、この地名が長崎の「円山」っていう地名の語源らしいです。つまり、どっちの「円山」にも遊郭があったってことですね。僕も一度行ってみたかったですね。とのことです ・しこ名に関して 戸矢でははっきりとしこ名と分かるような名前はありませんでした。しかし、現在の方々のお話を聞かせてもらううちに、しこ名とも受け取られるような地名がいくつもありましたので列記します。 ウエンノ(上野)……小字山神谷内の地域 ナカウエンノ(中上野)……小字山神谷内の地域 イワンウエ(岩上)……小字長野、下野、山神谷内の地域山神谷の3つにまたがる地域 ニシノウラ(西ノ浦) ……小字下野内の地域と小字山神谷の一部の地域。ただしこの地名はずっと昔から言い伝えられてきたわけではないそうです。いつの時代から呼ばれているかは分かりませんでした。 次にあげる地名は戸矢内で一種の行政区画として「〜組」と、ある地区を呼ぶ際に使われる地名です。この地名をしこ名かもしれないものとして扱うのは、昔からの呼び名を使った名前だと、戸矢の方に聞いたからです。 ・コモダ(狐藻田)……小字西田原(ニシタバル)から番所浦(バンショウラ)にかけての地区。狐藻田という漢字ははっきりとしたものではないようです。現に平仮名表記をさしていました。(入力者注……以下「管」「菅」の混用アリ) ・イワトウゲ(岩峠)……小字西田原(ニシタバル)から番所浦(バンショウラ)にかけての地区。 ・ナカ(中)……小字番所浦内の地区。 ・カナヤマ(金山)……小字番所浦内から金山田にかけての地区。 ・ヒガシ(東)……小字菅元から薬師浦にかけての地区。 ・ヤクシノウラ(薬師浦)……小字薬師浦内の地区。 ・タニ(谷)……小字薬師浦内の地区。 ・イデノウエ(井手上) …… 小字菅元内の地区。 ・スガノ(管野)……小字菅元から薬師浦にかけての地区。 ・ナガノ&シモ(長野&下)……以前は2つあわせて下と呼んでいたらしいが、現在は2つに分かれています。小字長野、下野、菅元にかけての地区。 今回お話をうかがった方 岡本一男さん T4 松尾輝次さん T5 松尾勇司さん T8 (区長) 松尾静さん S5 岡本一行さん S31 また、今回、我々を上記の方々に引き合わせてくださった中山さんご夫妻、車で食事に連れて行って下さったりお世話をしてくださったりした松尾さん、この場を借りてお礼申し上げます。 [感想] SU-19 1SC9811 高原博行 今回の調査に行く前は非常にやる気がなくはっきりいってグループ行動でなければ行っていなかったと思います。しかし、実際に村に行って、村人の話を聞いたり、もてなしを受けたりしている内にかなり楽しく調査ができました。また、今回のような狭い範囲での歴史を調べ、学ぶことなど、自分の今まで考えていた歴史という分野の学問ではなく、全く想像もつかなかったことだったので、とても新鮮でしかも楽しかったです。 今回の調査をしてみて感じたことは、農村という場所が考えていたとおり、その生活に農業が密接に関係していることです。溜池や道の呼び方など、自分は「堺」という結構特殊な街で育ったので、自分の育った街とこの村の違いがよく分かりました。やはり、今回調査した村がジャパニーズ・スタンダードなのではないかと思います。 色々と学べたし、村の人たちは良い人ばかりで本当によかったです。自分の生まれ育った町でも今回のような調査をしてみたくなりました。 SU-27 1AG98221 丸谷一郎 私たちはアポをとらずに突然押しかけたにもかかわらず、戸矢の方たちはとても親切にいろんなことをくれて感激しました。 L2-7 1LA98131 杉本真昭 事前のアポもとらず臨んだ今回の調査。終わってみれば現地の方々との協力に助けられた。本当に厚かましいながらも有意義なものであった。マニュアルにガチガチに縛られたものではなく、自由にその土地の人たちと話したい! そう願っていた僕たちの期待に戸矢の方々は大いに応えて下さった。もとろん授業の一環であった今回の趣旨は外さなかったつもりだ。 しこ名は思っていたほど集まらなかったものの、これも我々の訪れた戸矢の一面かもしれない。バスから目的地まで水田が広がる道を歩きながら久し振りに開放感にひたれた。日本人なのだと再認識しました。 しこ名をはじめとして昔からの地名、伝統、しきたりが徐々に消えかかっている。それらをつなぎとめるのが今回の目的だったのだが。それと足並みをそろえるように戸矢の若者たちは外へと出て行っているそうだ。もはや彼らを彼らの土地につなぎとめておける力はどこにも無いのだろうか。古きよき時代とはよく言ったものだが、それに気づくのが遅ければ遅いほど、それは影を薄めていく。今回、この授業をとったことで、また戸矢へ足を運んだことで、自分のごく身近で起きている静かながらも確実な時の流れに気づかずにはいられなかった。 L2-11 1EC98078 高木祐臣 今回は、私たちのアポ無しの突然の来訪にも、迷惑な顔ひとつすることもなくあたたかく迎えて下さった戸矢の方々に感謝の気持ちでいっぱいである。事前の連絡を取り損ねたこともあり、気の乗らなかった今回のフィールドワークを、喜びに満ちたものにしてくれたのは、まぎれもなく戸矢の方々のおかげです。ありがとうございました。実際にフィールドワークをやってみて、人々との触れ合い、そこに住む人の暮らしや習慣、言葉遣いなどを実際に感じられ、とても有意義なものでした。自分の故郷について、同じような調査をしてみると、きっと面白いだろうと思います。 |