【西松浦郡有田町下南原地区】 調査日:7月10日(土) 1EC97070 国分周一郎 1TE98580 橋本由樹子 昭和30年、その当時西有田町曲川であった上南川良山、下南川良山、南川原、青木が合併して有田町十区西部(仝所帯800戸)となった。十区には、十区区長、上南原総代、下南原総代、上南山総代、下南山総代が存在している。 十区とは、上南川良原(かみなんがわらばる)、下南川良原(しもなんがわらばる)、東小物成(ひがしこものなり)、西小物成(にしこものなり)、三代橋(みだいばし)、青木(あおき)、小溝(こみぞ)、清六(せいろく)、上南川良山(かみなんがわらやま)、下南川良山(しもなんがわらやま)のことである。はじめの4つは、上南原に含まれ、残りは下南原に含まれる。 それぞれの小字は、上南川良原が上南原、下南川良原が下南原、西小物成は開田(ひらきだ)、耕地整(こうちせい)、三代橋は三代橋田原(みだいばしちゃばる)、小溝は小溝田原(こみぞちゃばる)、清六は清六、鍬さき(すきさき)、穂波ノ尾(ほばのお)となっている。東小物成、上南川良原、下南川良原の小字は不明に終わった。 なお、田んぼ1反1反の名前として、清六に、カヤキリ、清一、天神田(てんじんでん)、 熊吉屋敷(くまきちやしき)などがあることが分かったが、他の場所は不明に終わった。
次に、有田町における水路のことであるか、清六はこの地に多数あるため池から、また 南川良原田原、小溝田原は有田川から、東小物成、西小物成は南川原川からくみ上げていた。有田町には、有田川、上南川良川、黒牟田川、丸尾川の4つが流れており、有田は有田ダム、古木場ダム、猿川ダムが、上南川原川は上南原ダムが、黒牟田川は黒牟田応法ダムが、丸尾川には丸尾ダムが、それぞれの水源となっている。そういうわけで、有田町は旱魃に苦しむことはなかったが、過去に2度大水害に襲われている。
特にひどかったのは、昭和23年9月11日に起こった水害である。前日から佐賀地方を襲った大型台風の影響で、夕方頃から雨足が強くなり、翌朝までに300ミリを超す集中豪雨となった。そのため、有田川が満水となり、加えて上流の大谷ため池の堤防が決裂し、 猿川流域の民家20数戸が避難する間も無く一瞬のうちに押し流されてしまった。家屋の流失により下流の橋が次々と流され、南川良原橋も頑丈なコンクリートの橋脚であったが、材木がたまり、支えきれなくなって流失した。それが橋桁とともに鉄橋にたまり、ダムのように水をせき止め南川原は水浸しとなった。 この時、岩崎橋を除き、有田川流域の橋は下流の川東橋(伊万里市にある)まですべて流失し、交通は寸断され陸の孤島となった。翌日、水が引くと同時に早速行方不明者の捜索が始まり、地元消防団、青年団は総動員であった。南川良原橋の下にも砂に埋まった遺体が2体掘り出された。行方不明者の遺体は田んぼや川底、杉の木の上、工場の中からまで発見され、その数は23体にものぼり前代未聞の大惨事となった。これを23水と呼んでいる。その他、西有田町の蔵宿や夫婦石でも家共々流された人がいて、「川東付近で写真を撮れば亡霊がうつる」とまでうわさがたつほどであった。水害後直ちに復旧工業が始まり、仮橋がかけられ交通網の確保が図られた。国道35号線南川良原橋が完成したのは、昭和25年5月10日で、その日、東有田町、曲川村の合同の落成式が行われ、地元の西山藤右衛門夫妻が紋付き袴姿で渡り初めをした。原宿婦人会踊りも繰り出され完成に華をそえた。 <後日新聞発表の被害状況> 死者・行方不明者 有田町24人/曲川村11人 倒壊家屋 34戸/ 半壊家屋 32戸/30戸 流出家屋 32戸/26戸 床上浸水 332戸/308戸 橋梁流出 40橋/16橋 道路決壊 46ヶ所/ 山崩れ 56ヶ所/60ヶ所 工場流出 26棟/ 鉄道不通 5ヶ所/ 政府米被害(600キロ入り) /600俵 <若者の遊びについて> 昔我々のような若者は、夜、青年会場という現在の公民館のような場所に集って、笛や浮立という踊りの一種の練習をしていた。夏祭りも、毎年8月25日に南川原天満宮で行われる通称天神(でーじん)さんの祭りというものが行われていた。これは、上南原、下南原、下南山と毎年順番に家所を中心に行事を行っており、負担金を等級制で集めるなどの仕事をおこなっていた。その祭りの際に行われていたことをそれぞれ書いていきたいと思う。 《幟旗(のぼりばた)と提灯》 幟旗は、東小物成の消防小屋(消防器具格納庫)から、下南川良原山までの沿脇に23日から並んでいた。また、箱提灯とは、参道の入り口とお宮口に掲げた長方形の提灯で、今も竹を組んで掲げるものである。表には「御神燈」と書き、裏側には絵描きによって、見事な梅の絵が描かれている。梅の絵は、天満宮の神社紋が梅であることに由来している。 《花火》 下南川原由では8月23日頃から天満宮に集まり花火作りがはじまっていた。花火の原料となる硝煙は発火性が高く製作中に爆発する危険性もあったが、あまり娯楽のない時代、祭りには欠かせないものであった。また、大掛かりな仕掛花火も作られた。各地で行われたこの花火も次々に姿を消したが、西有田町大木の龍泉寺で行われる十八夜(8月18日)では今でも昔どおりに行われている。 《浮立》 浮立の稽古は2ヶ月前から公民館で行われていた。下南川良山の浮立は有田地区と同じで、南川良原の浮立は曲川浮立である。昔は24日に通夜(とうや)浮立を行い、25日に部落内をまわり次の家所に打ちこんでいた。今は通夜浮立のみが行われている。 《芝居》 祇園が近づくと3ヶ月も前からその準備が始まる。まず芝居の出し物がきまると、公民館で毎夜遅くまで青年男女を中心に芝居稽古か続く。座敷席は、真ん中から半分ずつ南川良原、南川良山と分け、場所は上納金(出し銭)で決めており、当初はこの金で費用をまかなっていた。 《祇園まんじゅう》 祇園の朝には、どこの家でも米粉の小麦粉でまんじゅうを作り、親戚や親しい人に配っていた。この配達係は子ども達の役目であり、行った先ではお駄賃をくれるので、この楽しみも大きかった。また、このまんじゅうの下に敷く葉っぱを採るのも子供たちの役目で、この葉は、まんじゅうの形をしているので「おまんじゅうの葉」とも呼ばれているが、この地域では「ガンビシャ(ガンビャ)の葉」という。 <一日を振り返って> 09:00 本館前集合 11:15 バスを降りる 12:10 島田さん宅に着く ・小字について ・若者の遊びについて ・郷土史をいただく 14:30 炎の博覧会跡を案内してもらう 16:00 バスに乗る 目的地に着き、バスを降りて私達が初めにしなければならなかったことは、「島田さん宅」を見つけることだった。この町には、島田という名前は多いらしく11件もあったため、かなり探すのが困難だった。島田さんに伝えていた時間より少し早めについたため、島田さんの家の前で、うろうろしていると、私達を見つけた島田さんが中に入るよう言ってくださった。すると中には、前もって島田さんがその地域に詳しい大串さん(島田さんのお義兄さん)を呼んでくださっていて、2時間ほどお2人にお話をしてもらえた。 また、貴重な郷土史の原稿までいただいた。そのあと、島田さんの奥さんに家のすぐ近くにある「炎の博覧会」跡に連れていってもらい、1時間ほど散歩した。その道中、先ほど述べた「まんじゅうの葉」も見ることができた。 丘の上から見える佐賀のきれいな町並みを堪能して島田さん達にお別れした。 忙しい中、私達のために話をしてくださった皆様に感謝の気持ちでいっぱいだ。 私たちが調べた泉山では(地図オレンジ線の内部:地図は佐賀県立図書館所蔵)地図の青磁、泉山、年木谷、泉町、釈迦谷、境松、隠道、隠谷の部分にあたる。この泉山には田畑がほとんどないため、しこ名はあまり集めることができなかった。 1)地元の人の間で通じる地名や道の名前について @楠木谷‥・年木谷と泉山の境あたりの谷をこう呼んでいる、この谷に楠木があったため、このように呼ばれるようになったと考えられる、 A地蔵町…泉山、中樽あたりを指す。実際この付近には地蔵がいくつもあった。このあたりに流れる小川に架かる橋を地蔵橋という。 B白磁…採石場から釈迦谷付近をこう呼ぶ。これは、この付近で白磁鉱が発見されたからである。それに対し、青磁では青磁鉱が発見されていたためこういう名前がついた。 C新道…釈迦谷、境松と中奥、隠道、隠谷の境となっている道は新しく作られたのでこう呼ばれている。 D泉山の磁石場…採石場のことを指す。 2)小字の由来について ・泉山…その名の通り、昔から水の湧き出る泉が多かったためこういう名称がついた。実際に今でも小川が多く流れていた。今は水量が少なくなってしまったが、昔はこれらの小川には水車(カラウス)があり、水車(カラウス)の力で石を砕き磁器を作っていたのだという。 ・青磁…先ほどの白磁に対してこのあたり一帯では青磁鉱が発見されたためこう呼ばれるようになった。 ・境松…このあたり一帯は隣町との境目であったためこうよばれるようになったという。昔は「境」ではなく「堺」という宇を使っていたらしいということだ。 ・隠道、隠谷…江戸時代には有田の磁器が不正にもれたりしないように、見張りをしたり取り締まりを行う口屋番所というのが有田のいちょうの木付近にあった。そこに見つからないように隠れて陶磁器を運ぶ人たちがこのあたり一帯を通っていたためにこういう名前がついた。しかし、「隠れる」という宇があまりいい意味ではないため、現在では朝日町と呼ばれているそうだ。 3)水について 泉山はその字の通り昔は泉が所々湧いていたという。そのため陶磁器をつくるときに使う水や生活用水にも困ることはなかった。また水がきれいなことでも有名で、全国の名水で第19位にも選ばれたそうだ。 また、町の所々には井戸もあり、弁財川や鬢毛川など、小川も数多く流れている。小川に架かる橋の名前は地蔵橋や上幸平橋、釈迦谷橋というように地名がそのまま橋の名前となっている。 4)町の境界について 町の境界には主に山の尾根、谷、小さな川などによって定められているものばかりだった。隣町である山内町との境界は山の尾根となっている。また上幸平町との境は上幸平橋によって分けられている。 5)泉山の史跡について E石場神社…泉山磁石場にあるこの神社は、焼物の原料が産出する石場の守り神であり、地区の氏神様でもある。また境内には焼物の神様である高麗神は泉山の先祖の方々が遠く韓国の神を崇拝した石碑で、朝鮮から渡来した人たちの子孫は毎年春に例祭をしていたといわれている。 F弁財神社…泉山の弁財神社は泉山地区の氏神神社で、地区の人たちはこの弁財神社を親しみをこめて「べんじゃーさん」と呼んでいる。弁財神社の境内には有田のイチョウ、公孫樹(天然記念物)が堂々とそびえたっている。 G六地蔵…子安地蔵、子育て地蔵、身代わり地蔵など呼び方は豊富。六地蔵のほかにもこのあたりには地蔵が多くみられたためこのあたりを地蔵町と呼んでいるそうだ。 H口屋番所跡…江戸時代、陶石の運搬の管理や絵描きや細工人などの流出を防ぐために口屋番所は有田内山にはその東西の出入り口である泉山と岩谷川内の2か所にあったという。 I唐臼…昔、磁石場より運ばれた陶石は水の流れを利用して唐臼に打たせて粉にしていたという。江戸時代から明治時代にかけては有田町泉山、中樽、白川、岩谷川内の渓谷には一時百数箇所も唐臼があったそうだ。泉山の弁財川、鬢毛川も今と比べ物にならないくらい水量が多く、この川辺にもいくつかの唐臼がまわっていたらしい。 6)有田焼について 有田焼は磁器とよばれる焼物で陶石を砕いて原料にしている。陶器にくらべて素地そのものが白くて固い焼物である。1610年ころ、豊臣秀吉の「文禄・慶長の役」の時に連れ帰られた朝鮮人陶工・李参平によって泉山で陶石が発見され、日本で最初の磁器生産が始まった。現在の泉山の磁石場からとれる石には硫化鉄が含まれており、焼くと黒いぶつぶつが出てきてしまうため、天草の磁石によって焼いているそうだ。 1616年、李参平によってこの磁石場が発見され、天草磁石に転換されるまでの約310年間、有田の窯業を支えたのはこの石場であった。明治23年には有田焼の生命源である泉山磁石場の所有権を巡り、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村の間で「石場騒動」が起こった。これは原料を仰ぐ窯焼を区別するために決められた内外皿山の騒動である。内外皿山とは有田山を内山といい、外尾山、黒牟田山、応法山(新村)、南河原山(曲山村)、広瀬山(大山村)、一の瀬出(大川内村)を外山と称したものである。明治24年の弁明書の中に藩主は石場を内外山中へ下としたが、内山に所有権を与え、外山に使用権を与えないのは差別であると唱えた。この騒動は明治27年6月に「内外皿山規約書」を締結して5ヵ年に渡る石場騒動は解決した。 7)窯業について 泉山の窯跡は「登り窯」と呼ばれる様式のものである。登り窯とは3つの窯が山野斜面などを利用して少しずつ段に作られたものであり、下の窯から順に素焼き、本焼き、色塗りが行われた。この窯は山の多い泉山に適した形である。また登り窯跡の付近には物原と呼ばれる失敗品の捨て場もあった。今も残る泉山の登り窯跡は次の通りである。 J年木谷1号窯 K年木谷2号窯 L年木谷3号窯 M泉新窯 N楠木谷窯 O枳薮窯 P泉窯 登り窯は順に上の方へ焚いていくので、登り窯をたきはじめるにあたってはその登り窯全部の窯が同時に積み入れを完了する必要がある。そのため、1つの登り窯の窯焼きは全員が集合して焚きはじめる3期目を決定し、その決定に背かないことの連判を行った。これを火入れ連判といい、火入れの期日が確定するとこれを皿山会所に届け出た。これを火入れ注進といった。これを怠った場合には隠れ火入れとして厳重に処罰されたという。 8)現在の泉山について 現在の泉山は中国の景徳鎮、韓国の慶州、ドイツのマイセンと焼き物による国際交流として姉妹都市を結んでいる。また小学6年になると泉山の磁石場で陶石を発見した李参平の故郷である慶州に町でお金を出してお参りに行くことになっている。このように泉山では焼き物を通していろいろな国際交流を行っている。 |