【西松浦郡有田町丸尾】

『歴史の認識』現地調査レポート

1AG98118 竹俣佳世子

1AG98139 藤 良江

調査日:1999710

調査地:佐賀県西松浦郡有田町丸尾

話者:舘林正和氏(S11生まれ、16歳のころより仕事に従事)

 

 

<しこ名一覧>

区分/小字名/しこ名/しこ名の由来など

田/丸尾原/フネンコ(船の子)の田んなか/田の形が細長いため。

田/丸尾原/マツリダ(祭田)/マツリで使用する米を作る田であるため。部落で管理。

田/丸尾原/ゲンダイ橋の田んなか/昔、丸尾川のこの田の前にゲンダイ橋という石橋があったため。※1

井手/丸尾原・小溝原/イデ(井手)/井手=井堰のことだが、単に井手と言うとこの井手を指す。

田/小溝原/ウラ(裏)の田んなか/家の裏にある。

田/小溝原/ごぼう畑/昔、この田でごぼうを作っていたため。

畑/小溝原/ゴゼ谷/※2

畑/小溝原/コバンアタマ(小判頭)/畑の形が小高い丘のように丸いことから。

堤/小溝原/サンダンツツミ(三段堤)/大小段に堤があった。現在は埋め立てられている。

堤/小溝原/ナカンタニ(中の谷)堤/現在は埋め立てられている。

堤/小溝原/ヤケヤマ堤(焼山堤)

井手/小溝原・中野/ミズカミサマ[スイシンサマ](水神様)の堰

田/丸尾原・後口川内/ドンベンヒキ(道面引)

井手/後口川内/ダイシサマウラセキ(大師様裏せき)/ダイシサマの裏の堰。

畑/後口川内/松の高尾/松が尾根筋に植わっていた。

/後口川内/ツチトリバ(土取場)/炉を作るのに使用する土を採取する場所であるため。

堤/後口川内/ドンベンヒキ(道面引)堤

田/中野/ハンノキ井手の田んなか

田/中野/ヤゲンジ(弥源次)/北方にある国有林名の「弥源次」より。

田/中野/中野原の田んなか

井手/中野/スギイワダニ(杉岩谷)

田/中野/スギイワダニの田んなか/スギイワダニの上の田なので。

田/中野/ハンズブシの田んなか/ハンズのすぐ下の田なので。

山/中野/フカタニ(深谷)/谷の切り込みが深い。※3

山/中野/テイ山/厳しい山道。

井手/中野/ハンノキ(榛木)井手/

井手/中野・後口川内/タイソウイデ(体操井手)/昔ここらの川で遊んでいたため。

井手/ゼメキ/〜さんの堰/堰の前の家の人の名前で呼ばれている。

石/中野/ハンズ/ハンズ(=水がめ)に似た23mの穴があいた石

 

一般に小字を使い「〜の田ん中」と呼ぶ。

水路も小字の名を使って「**の水路」と呼んでいた。

 

シュウジ(≒道):大きな道路にでるための小さな里道のこと。

1 ゲンダイ橋は昭和23年の水害により流失。

2 昔のことわざ:「ゴゼと風は10時から」ゴゼに昔住んでいた風俗業の人たちは10時ごろ起きてきてくるのとゴゼのほうから風が吹いてくること。

3 深谷溜池は昭和30年代に作られた。

 

 

<ムラの祭り>

サンヤサン(山夜さん):現在のさんや児童公園に山の神を祭っていた。

夏祭り[8/26

ダイシサン(大師さん):祭り[8/21

カンノンサン(観音さん):[8/18]観音堂は地図上で公民館になっているところ。現在はこの場所に昔の写真を元に957%復元。

 マツリ:稲の収穫後にある祭り。[11/23

     丸尾の部落の祭田(一番米が取れる田)で1年ごと当番の部落が米を作る。昔は朝、学校に行く前に当番の組の班長宅で食事を取っていた。メニューはご飯、豆腐の味噌汁、漬物とあと1品。当番の組は夕食も決まっていた。その内容は混ぜ飯(混ぜぐさ)と魚、あと一品である。

夏祭り(=祇園):部落ごとに行う。芝居やバナナの叩き売りのマネを行った。

 

 

<田・水利について>

昔は必ず二毛作をしていた。現在は田の規模が11コ小さいこともあって米のみ作っている。昔は丸尾には耕地が少なかったために隣の曲川村に土地を求めていった。中野原はそのような事情のため大正時代に耕地整理され、田畑が形成された。

 

参考1≫丸尾耕地整理組合業績

    明治439月 設立

    明治45319日 認可

    大正6310日 竣工

    面積 田 1168

       畑 514

    第一堤(旧堤)、第二堤(新堤)

    総工事費 34324

    組合員  69

 

祭田のような、部落で管理するような田はどうしてできたかというと、子孫が途絶えたものが神さまに献上するという形で田を部落に譲与したとのことである。昔は現在ほど窯焼きさん(窯業をしている人)は忙しくなかったため、手伝いに行っていた。

また、丸尾内に西部が管理している用水路があるが、これは昔、地主が西部に持っていた大きい田のほうに水を持っていっていたことに由来する。

ゼメキ池は昔、下の田のかんがい用に使われていたが、現在は源右工門さんが管理している。

田ん中は良く獲れる田から順に1等田〜5等田と呼ばれている。1等田は丸尾原(56俵)、その後に小溝原(55.5俵)、中野原(4俵)と続き、5等田はドンベンヒキ(3俵)である。終戦後ドンベンヒキは耕作しておらず、現在は猪が出る。

干ばつについては昔はお手上げ状態だったが、昭和37年にはポンプアップが行われた。

 

参考2≫中野耕地整理記念碑・碑文

                           建立日 昭和3312月吉日

中野地区ハ元荒ノ地先人ヨク水源ノ活用二着眼シ当時ノ地主、耕作者和銅一体トナリ耕地整理卜貯水ノ築設オ完成、本日ノ美田オ形成セラル。衣シテ〔「依ツテ」か:入力者注〕茲二先人ノ功績オ譜仰シテ此ノ碑建立スル

 

 

<使っていた動物について>

牛は1軒に1頭おり、その雌雄比は11であった。馬はほとんどいなかった。

昭和30年くらいまでは牛を使っていたが、その後、耕運機に取って代わった。

町内にバクリュウといわれる人が23人おり、しょっちゅうだまされたとのことである。彼らは袖の中に手を入れ値段を隠して示し、売り手買い手の取引が成立すると、かしわ手

を打ちお礼をいった。

 

 

<窯業関係>

築炉のために使う土地はツチトリバより採取する。

炉はトンバイベイ(※端書注:トンバイ。これを利用して作る塀をトンバイベイという)といわれるレンガ(足で踏み固めたのち日干ししたたきじめして作られる)を使用する。窯は登り窯で5軒ほどにある。

焼き物用の土は昔は泉山と有田ダムの北部にあったが、現在は天草・韓国のものを使用。

 

 

<ガス・電気と導入される前について>

ガスは48年前、電気は80年前にきたということである。

ガスがくる前は薪を使っており、自分の山を持つ人はそこでとっていた。山を持っていなかった人は国有林にとりにいった。国有林にはカンニン(管人)と呼ばれる人がおり、入山する人のチェックをしていた。国有林は薪を取る期間が13月いっぱいと決まっており、入林する人は鑑札(終戦頃で30もしくは50円)を持っていなければならなかった。そこでは枯れ木のみ取ることが許されており、生木や大きな木は取ってはならず、鎌のみ使用が認められていてナタやのこぎりを持っていったら没収されるなどとルールがあった。

山へ薪取りに行くときは背中に砂糖としょうゆで照り焼きにしたもちをからって〔背負って:入力者注〕持っていったそうです。

 

 

<村間交流>

あんまりなかった。堤が決壊したとき等は相互協力した。

 

 

<区役(公役)>

草刈や溝掃除を共同で行う。現在も続いている。

家からだす人の人数と耕地の面積より年末決算=区役(公役)勘定を行い金を支払う。

(時間)/(人×耕地面積)で算出する。

 

 

<丸尾の変化・組織について>

大正〜昭和20年まで丸尾の部落班は南組(みなみぐみ・8戸)、中組(9戸)、巣ノ谷組(すんたんぐみ・6戸)、ひらき組(8戸)、赤松井手組(5戸;そこの地区に松があり井手があった)、是米来組(ぜめきぐみ・2戸)の35戸(うち農家は20戸、非農家は15戸)があった。

これらの名称が戦後を境に前者から1班、2班、…と変更された。

昭和26年に町営住宅ができ20戸増え、その後増えつづけ現在は300戸ある。

班の数も元来6班だったが、現在では戸数の増加により16班になっている。

 

 

<共同浴場>

ここには共同浴場があり、最初男女混浴だった。357戸ほど加入していて、毎日1戸ずつ当番が回ってきていた。

昭和35年に新農村建設の助成金をもらいモデルの男女別の浴場ができたが、昭和41年ごろより個々に風呂を作るようになり、加入戸数が10戸位に減り解散した。

 

 

<若者の娯楽>

終戦周辺の若者の娯楽はエアガンなどだった。めったに映画は行くことがなかった。映画は昭和20年代で510円だった。あとは野芝居が楽しみだった。野芝居は旅回りの一座がやってきて、観音堂の前で10日くらい泊まり込んで毎日日変わりの芝居をしていた(510円)。この芝居を参考に夏祭りの出し物に使用していた。また、近所の人と一緒に他の部落の夏祭りを見に行った。

中学生くらいまでの子供はむくろうちやビーダマ遊びをしていた。

 

 

<ムラのこれから>

どこの家でも農業は60歳以上の人が中心であり高齢で、耕地面積が少ないため、残したいという気持ちが強いのだが農業だけでは収入は少なく、また昔からあるから売れないということもあり、後継者がいないことをやはり気にかけておられた。

一番心配しておられたのは、農業を捨てていくことで環境が悪化し荒廃していくことであった。

 

 

<一日の行動記録>

0900 九大(六本木地区)集合、出発

1120 有田町丸尾到着、舘林さん宅へ伺う

1545 昼食をはさみながら調査終了

1600 有田町出発

1830 九大到着、解散

 

 

<今回の現地調査を行っての感想>

有田町といえば陶磁器のマチとして有名だが、私たちが訪ねた丸尾は想像していたよりも緑の多いところだった。生産組合長にこの地域で一番田に詳しい方を紹介してもらうことができ、調査がスムーズに進んだ。今回調査に快く協力してくださった館林さんは私達の少し突っ込んだ質問に対しても、一生懸命思い出してくれ、とてもお世話になった

今床の〔「今どこの」か:入力者注〕農家も心配しているあととりの問題は本当に深刻だと思う。今は管理されていてきれいな緑色をしている田も、あととりがいないといずれは荒れ果てるか、別のものへと姿を変えてしまう。そうなってしまうことは私にとっても悲しいことだ。これからも今のままの丸尾の姿であってほしいと思う。【竹俣佳世子】

 

今回焼き物が好きな自分にとって有田町をその他の目的で訪れるとは思ってもみなかったが、焼き物の店が建ち並ぶところしか通ったことがなかった自分には農業もやっているのかという驚きがあった。今回お世話になった舘林さんには長い時間お世話になった。

よく聞く『自分の先祖代々の田と農業を守るための後継ぎがいないのは困る』ということでなく、『景観が壊れ、農業を捨てていくことで環境が悪化し荒廃していくことが心配』だという話には、普段あまり現在の田がなくなることについての景観面を考えない自分にとって考えさせられた話だった。

今回調査に行って、普段あまり触れることのない大きな自然が人間に対してモノだけでなく精神的な安らぎもくれる、これは残していかなければいけないと思った。【藤 良江】



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