【西松浦郡有田町境野】

歴史の認識レポート 水曜4限服部教官

1AG98049 加治屋貴之

     1AG98013 石澤 進

 

調査場所:佐賀県有田町境野

調査実施日:718日(日)

聞き取りをした方:岸川八郎(大正9年生まれ)

 

 午前9時に福岡を車で出発し、ほとんど迷うことなく目的地である佐賀県西松浦郡有田町境野(但し、手紙を出した方の住所は西松浦郡有田町中部甲になっていた)に約束の時間である正午過ぎに着いた。手紙を出した方は岸川義美さんであったが、むらの昔のことはあまり知らないということで、事前に古老の岸川八郎さんに頼んでいただいていたので、すぐに話を聞くことができた。現地調査を先に済ませた友達から有田町の様子を聞いてみると案外街だったといっていたので、そのつもりで行ったら、実際境野の村に着いたときは、かなり田舎だったので、驚いた。境野は山の谷間に家がぽつぽつとあるようなところで、今回の現地調査をするにはまさに最適な場所だと思った。僕たち自身はこのような村に行くことは初めてだったので、とても良い経験になると思った。

 

●しこ名

 まず、しこ名についてたずねたところ、私達のいうしこ名というものはほとんどないと言われた。それでも何とか聞き出したところ2つ教えてもらった。あとはしこ名と言うよりも、小字が発音が少し違っているぐらいのものだった。

 

村の名前

 有田町境野 田畑 小字 道面谷のうちに シンナシ

小字 長野原のうちに ウチヤガイ

ほか 小字 長野原を    ナガンバル

小字 狩立を     キャーダテ

小字 持内台を    モチッダ

小字 本川内を    ホンゴテ

 

 

●むらの水利について

 村の水利は、すべて溜池によってまかなわれている。この溜池の水は基本的には農業用水のためのもので他の用途はほとんどない。境野の土地は出水(でみず=湧き水)があまりない。これは山林が広葉樹から針葉樹になったために、針葉樹では地下に水が溜まりにくいからだと説明してくださった。飲み水に関しては特に干ばつの時は困るそうだ。水があまりない境野の村では昔からなるべく水を使わない生活をしていたようで、たとえば洗濯の時は最後のすすぎの時だけ軽く水で流すといった生活だったそうだ。

しかし、水の少ない境野の土地でもよその村との争いはなく、あったとしても個人的な争いに過ぎなかったそうだ。

5年前、1994年(平成6年)の大旱魅の時は、水田用の水は穴鹿倉溜池から道面谷溜池や本川内溜池にポンプで水を送り、飲み水には区長さんがほかの部落に水をもらいに行かれた。もし、50年前にこのような旱魅があったら成り行きに任せるしかないとおっしやった。なお、昔は黒切手溜池が水利の中心だった。

 

 

●むらの範囲

黒切手溜池より東の部分で、小字では穴鹿倉、持内台、広切より東の部分になる。

 

 

●むらの耕地

 田んなかの場所による米の収穫の差はあった。場所としては山に近い田んなかや山かげにある田んなかでは米があまり取れなかった。理由は、山に近い田んなかでは水の温度が低く、山かげにある田んなかでは日照時間が短いということで米があまり取れなかった。

麦作りについては、境野の田んなかは谷間を埋めて作ったから、水はけ等の条件で手間がかかった。また、少し粘土質が強い土地なのでやはり麦作りには適していない。昔は麦は作られていたが、今はあまりない。ただ、話をしてくださった岸川八郎さんのお宅は1アールの田を78枚しか持っていないために、人と違う仕事もしないといけないということで、現在でも麦作りをしている。実際、岸川八郎さんのお宅で昼食をごちそうになったが、その時いただいたものが麦飯だった。岸川八郎さんのお宅ではずっと麦飯だったそうで、今では白いご飯は味がなく食べられないとおっしゃられた。

 

 戦前の肥料としては主に緑肥(山から刈り取った草をそのまま撒く)といったものや、人糞や尿が中心だった。戦後、化学肥料が広まっていくと、人糞や尿は浄化場で処理されるようになったのだが、昔は人糞や尿を田んなかに肥料として撒くことで、田んなかが浄化場の役割をしていた。また、昔、肥料としてはわためかす(ニシンの油をしめたかす)なども使用されていた。

 

 有田町境野の村では、農業を戦後に学んでいった。麦作りに関しては有田の街まで人糞や尿を取りに行っていたそうだ。また、良い田と悪い田の差は分からなかったが、岸川八郎さんの田はほとんど悪い田だとおっしゃられた。なお、良い田と悪い田は地図に示してある。(佐賀県立図書館所蔵)良い田は○、悪い田は×。

 

 

●むらの発達

 境野の村に電気がきたのは、昭和3年である。一見遅いようだが、村の存在する場所等の条件を考慮すると早いとも思える。プロパンガスがきたのは都会(有田の街)と同じぐらいの時期である。電気より後(戦後)にガスはきた。昭和3年以前の生活は、電気の代わりとして石油ランプを使用していた。石油ランプとは、ガラスの器に石油(灯油)を入れ、それに布を浸して、布に火をつけるといったものである。原理は今の灯油ストーブに似ている。

 

 

●村の生活に必要な土地

 入り会いの山は境野の村にあった。場所は小字の道面谷がそこに当たる。山に住む人は山でとれた薪を売りに行った。山から遠いところに住む人は街で薪を買い、そのお金が村の人の生活費になっていた。しかし、今では街からむらにプロパンガスがやってくるので村の人が街の人にお金を払うというふうになっており、昔とはお金の流れが逆転してしまっている。また、田に入れる肥料等の草を刈る山は特定の山ではなく、周りの山から刈っていたそうだ。

 

 

●米の保存

 農協に米を出す前の時代、境の野村では小作人(小作農)は地主に米を必要な分だけおさめて、残った米を自分の物としていた。一方、自作人(自作農)は自分たちで作った米を直接米屋や米商人に売っていた。米商人とは農家から米を集めて米屋に売る人たちのことである。

 家族で食べる米のことは特に兵糧などという言い方はせずに飯米(はんまい)といっていた。保存法としては俵に米を入れ乾燥させ、虫が寄りつかない様にしたり、きづき(和紙のようなもの)に入れて保存したりしていた。種籾の保存としては別にこだわった保存をしなくてもあまり悪くならなかった。鼠対策は天井から米をつるしたりしたが、これは各家庭ごとにさまざまな方法を取っていた。50年前の食事における米と麦との割合はひどいところでは1:1の割合だったが、平均的なところでは73の割合だった。稗は主食にすることはなかったが、粟は今でも作っている。境野のあたりで今でも麦を作って食べているのは岸川八郎さんのうちだけだそうだ。

 

 

●村の動物

昔は各家庭に1頭ごと和牛がいた。牛がいなかった家庭には馬がいた。牛は基本的に農業用であり、食用ではなかつた。牛は雄雌関係なかった。仕事ができなくなったら食用になることもあった。博労(ばくろう)といわれる家畜の行商も12人はいた。彼らはやはりロが達者な人がやっていた。それで彼らにだまされた人もいた。

 

 

●村の道

 昔の隣の村に行く道は、ダム(古木場ダム)建設によってダムに沈んでしまった。

境野のあたりではノウテに該当する道はなかった。

昔、現有田駅の辺りに伊万里から魚が持ってこられて、そこから古い道を通って境野に持ってこられた。無塩魚(ぶえんざかな)、つまり生魚や塩魚、両方持ってこられたのだが冷蔵庫が無かったため、無塩魚は早く売らないと行けないので塩魚のほうが多かった。昔は冷凍などできなかったので、魚に蛆虫がわいたりすることがあっだが、それでも魚を焼いて箸で岨虫をはらって食べてもいたが、病気になることはまず無かった。

 

 

●祭り

祭りは夏祭や正月など色々あり、全員参加だった。村の神様は観音様である。

 

 

●村の若者

 昔の若者は、境野の場所からしてあまり町に出ることができなかったので、青年集会場と呼ばれるようなところに夕御飯の後みんなで集まり色々と話し合い(馬鹿話もしていたそうだ)をしたり、泊まったりしていた。女の人のところに行く人もいた。

隣の部落の人たちが夏祭等に遊びにくることはあったが、普段はみな若い人も農作業などで働いていて時間が無かったので、一緒に遊んだりすることはなかった。

昔は糖尿病になる人がめったにいなかった。これは上に書いたようにみんなが力仕事をしていて、過剰に栄養を摂っている人がいなかったためである。

 よその村の人が村に入ろうとした時に妨害をするようなことはなかった。恋人がよその村にいる時、酒を持っていって村に入らせてもらったとかいうようなことは、かなり昔はあったのではないかということだ。

境野の村は谷間に存在に存在し、生産力がやや乏しい土地なので、戦前から青年が村を出て都会に行く傾向があった。現在、小さい子供が減り、兄弟も減った。

 

 

●岸川八郎さんの小さいころの話

岸川八郎さんは小学校23年のころから家計を支えるために田や山に入って仕事を手伝っていた。学校を休んで働いたこともあった。自然と年中付き合って生活していたので、今の子供が夏になるとカブトムシやクワガタを取るが、岸川さんたちは虫をとるという考えすらほとんど持っていなかった。昭和初期などは戦争の影響か、戦争ごっこもしていた。

 

 

●現在の村の姿

岸川さんが特に強調されていたことの1つに山林が広葉樹から針葉樹になったということがある。広葉樹(クヌギなど)が減ったことにより、カブトムシやクワガタが減った。また、川に流れ込む栄養が減ったので、最近はドジョウがまったくいない。また、ニガブナ(タナゴ)がタニシに卵を産んでいたが、どちらもほとんど見なくなったそうだ。I

最近はブラックバスやブルーギルといった外国から持ち込まれた種の魚が在来種を食い尽くすために魚が減ったそうだ。共存できないものか考えている。

 

 

●日本の農業への展望

 今のような農政では日本で農業(特に田んぼ)をする人がいなくなるだろう。戦前は米が足りなかったが、今は外国からの食物の輸入や食生活の変化によって米が余るようになった。減反させる代わりに外国からの食物を輸入することは間違っているのではないか。

 結局、農政にもっとよく考えてもらわないとどうしようもない。減反などをせずに米を作らせ、それでも足りない時に輸入をしていけばいいのではないか。

 また、農学部である僕たちにもっと日本の農業のことを勉強してほしいとおっしゃられた。実際のところ、僕たちは農学部に入学しているのだが最近はバイオテクノロジーのようなものばかりが農学として認識されがちだ。しかし、日本の農業の底辺を支えてきた境野のむらのような農業を、もっと農業にたずさわる人たちが考えていかないといけないと思った。

 

 

●今回の現地調査を終えての感想

 今回の歴史の認識の授業および現地調査を終えて、とてもいい経験ができたと思った。歴史は今まではただ、年表を覚えるだけだと思っていたが、特に今回の現地調査をしてみて、教官がいつも言われているように、一番大事なのは実際にその土地を訪れ自分の目や耳で確かめることだと思った。境野の村は現在人口が減ってきている。このような村の記録を少しでも後世に残すことも大事なことなのではないかと思った。

 予定より早く現地調査が終わったので境野の村やその周辺を車ですこし散策してみた。車1台がやっと通れる位の道ばかりで大変だったが、普段福岡の街で生活している僕たちにとってはとても新鮮だった。実際にそこで生活をするとなるととても大変だと思うが、また訪れてみたいと思った。

 最後に、突然の訪問にもかかわらず、見ず知らずの僕たちに親切に村のことを教えてくださった岸川八郎さんやその奥様、岸川義美さんに感謝いたします。



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