【西松浦郡有田町桑古場】

現地調査レポート

氷室健太郎1LA98207

中元祐輔1LA98181

 

 

【桑古場】……昔は桑畑がたくさんあったことに由来する。

戦前60けんあったが、今は200けんある

昔は5区に分かれていた。1.下、2.前、3.中通、4.高見、5.東…しこ名

各班に共同風呂が1つずつあった。風呂に使うまき(区有林から)は当番制で持って来た。

※溝区役…春・秋に各区ごとに溝掃除をしていた。

 

 

【水利に関して】

・村の田は、主に大野原と高山下という田んぼだった

その田んぼへの水利として、村の南にあった堤(村の人達は大堤〔ウート〕という)が利用されていた。堤から井手を通して田んぼに水を導いていた。

当時、堤は3つあった。

一段堤(溝)…高山下の田んぼへ

二段堤(溝)…大野原の田んぼへ

三段堤(溝)

二段堤は現存する。

大野原の田への水利としては、菅野橋の井戸も用いられていたらしい。

 

・水利の話し合い

 大野と桑木場で度々行われていた(実行委員会にて)。

  水利争いのため、徹夜で水番することもあった。

 

 

【村の田んぼの利用】

・主に米と麦とイモを作っていた。麦は裏作ができる田んぼにて作っていた。

 三石飯…麦と米とイモを混ぜ合わせたもの

  麦めし…半分が米で、半分が麦のご飯

 

・麦には小麦とはだ小麦があった。

※隠し畑として、小歩畑(こぜまち)があった

 

・田んぼに用いられた肥料

人ぷんや家畜(牛・馬・鶏等々)のたい肥が用いられていた。牛馬は百姓の家にはたいてい1軒に1匹ずつ飼われていたいらしい。

 

・戦前の年貢米

戦後の農地改革まで続いていた。地主に7割、小作人に3割の割合で米が分割されていた。しかし、年に4俵ぐらいしかとれなかったため、年貢米は相当重かったらしい。

※村には米の価格表があったため、それを見てみたら、戦後、大幅に米の価格が上がっていた。

昭和19年…119

昭和20年…1120

昭和21年…1236

 

 

【祭事】

・氏神を中心に祭事は行われていた。

 

1124日神待祭

出雲大社に全国の神々が集まるため、その神々が帰ってくるのを待つという意味らしい。神待祭では昔から相撲が行われていた。相撲は他所の部落からも青年が来て行われていた。

 

 ・祇園(昔の夏祭り)

  祇園では、部落の違う若い男女が交流できたらしい。

  村には祭りにつく古い鐘(弘化26月)が現存していた。昔はもっと大きい鐘があったらしいが、1番鐘、2番鐘、3番鐘まで戦争に使用するため取られていたらしい。

  〔鐘の絵図〕祭りに用いられる鐘

 

 ・テレビのない時代の若者

  天神様(天満宮)に集まって青年団、女子青年団ごとに月に1回談話をしていた。

 

 ・その他の集会

  青年会…青年男子の集会。太鼓をたたいて、集会があることを知らせていた。

  処女会…結婚していない女子たちの集まり。

  主婦会…結婚している女性たちの集まり。

  ※結婚式の際のお祝い金のことを「ざっしょ」と言ったらしい。

 

 

【村の動物】

 前述した通り、牛や馬が1軒に1匹ずついたらしい。

馬は裕福な家に比較的多かった。

牛は車力(大八車)として使っていた。

馬は荷馬車(主に石灰などを運んでいた)として使用していた。

 

 

【焼物】

 昔はまきや石炭などを使って焼いていた。まきや石炭にさやを加えて焼くといいらしい。

 石炭は汽車で駅まで運んできて、駅からは馬車や車力で運んでいた。

 

 

【水道がなかった時】

 村には井戸がなかったため、清水川(風呂の側にあった)から水を引いていた。

 

 

【電気】

 明治後期には来ている所もあったが、昭和の始めには1軒に1つずつ電灯が用いられていた。電気が来る前はランプが用いられていた。

 当時、電灯は市販されていなかったため、電灯がきれたら電気交換所へ行かねばならなかった。

 

 

【ガス】

 昭和30年代から用いられた。戦前は石油コンロがあったが、石油コンロが来る前には、全てまきで火事を行っていた。

 

 

【村の名前:桑古場】

 <しこ名一覧>

田畑:小字大野原のうちに…大野原(オオノハル)

   小字高山下のうちに…高山下(タカヤマシタ)

   小字善門谷のうちに…小歩畑(コゼマチ)

ほか:小字桑古場のうちに…東(ヒガシ)、中通(ナカドオリ)、前(マエ)、高見(タカミ)、下(シモ)

 

・使用していた用水の名前…一段堤、二段堤、三段堤

・用水源…菅公園内の大堤(ウート)、一段堤、二段堤、三段堤

・共用していた他の村…桑古場ほか2

 

・昔の配水の慣行・約束事

高山下の田が桑古場のもので、一段堤という井手を使用していた。二段堤が大野原のものであり、井手自体を使い分けしていた。川掃除は村総出で行い、欠席する者は相当分の金を支払った。金額には男女で差別が存在した。

 

・昔の水争いの有無

堤を使い分けしていたが、争いは存在していた。詳細は不明。見張りが行われていたこ

とは確かである。

 

 

【調査を行っての感想】

 事前にアポイントメントをとっていた方が所用で不在であったため、公民館で行われていた老人クラブの会合に来られていた方々に話を聞くことにした。急に訪ねたにも関わらず、皆さん親切に応対していただいた。残念なのはその方々のお名前を聞きそびれてしまったことである。大変申し訳なく思っている。皆さん昔のことを、まるで同窓会のように語ってくださったりと、なごやかに調査することができた。

 戦前の教育について、戦前戦後にわたる生活状況について、男女差別について、そして戦争と平和についてなど内容は多岐にわたった。特に生活状況については興味深かった。桑古場という村が1つの強力な共同体で、生活単位であった。青年会、処女会、主婦会、そして祭りを通してその結束は強められ、田圃のための井手さらいやたむしとり、多い年貢を逃れるための隠し畑(小歩畑)を山中に持っていたことから村への依存度の高さが分かった。有田は長崎・大村に近いので、戦争では特攻隊に行かれた方がおられた。特攻隊といえば飛行隊のイメージが強かったが、その方は特攻艇に行かれたそうだ。当時の愛国精神による悲劇、少年兵の集団自決の話を聞いた。それから、平和の在り方、君が代・日の丸問題にまで言及された。あの激動の時代を生き抜かれた方の意見は重かった。

 私も実家が田舎なので祖父からよく話を聞いた。昔から慣れていたし、やはり歴史の授業で習った時代を実際に経験した人の話を聞くことは楽しい。調査のことを忘れて、当時の話に没頭してしまった。こういう体験はそう何回もできるわけではないし、これからは機会も少なくなる一方であろう。今のうちにできるだけ多くの調査をすべきだと感じた。自分もこういった調査は講義よりおもしろいと感じたし、学ぶことも講義に劣らず大変多かった。自分にとって大変有意義であったと感じている。



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