【西松浦郡有田町上幸平】 現地調査レポート 高崎伸也1PS98041 狩浦幸弘1PS98019 梶山芳雄(86歳)大正2年生まれ 田圃は、〜さんのタンナカ(オオカワチさんのタンナカ、タナカさんのタンナカ)というように持ち主の名前で呼んでいた。 カモシ〔カモチか?〕さんという大地主さんがいてこの人が田圃を持っていて、借りていた。 「隠れ道」の裏が田圃、駅の方、「上幸平」の方は焼き物の商業地なので田圃はなかった。 村の水利と慣行 水田にかかる水は「大谷」の方にある湖など、何ヵ所かの湖から引水されている。 単独の用水だった。 旱魃の時は山系の方から流れ込む有田ダムがあり、水が豊富だったので、佐世保の方が断水しても大丈夫だった。 最後の方は時間給水になりかけた。 バルブつけたりして水の量を調節していた。 村の耕地 この辺は土地が良くなく、良い田圃ではなかった。肥料も余計にやっていないため、他の所で1反に10俵獲れていたら、2俵くらいしか獲れてなかった。自分たちが食べる分のみだった。 肥料は肥溜めを使っていて、肥溜めがおいてある所によく落ちたそうだ。 人口が多いので肥料がたくさんあり、自分たちで使わずに隣村に持っていった。 北の方には田圃はあまりなく、ほとんどの田圃が南の方にあった。 陶土を採っていた所 最初は、「泉山」の「白磁ヶ丘」で採っていた。(300年の間) ここがなくなって天草の方から仕入れるようになった。 この土と有田の土を混ぜて使ったりもしていた。 村の発達 6、70年前から電気があった。その前は、灯油ランプだった。 プロパンガスは40年くらい前に来た。 有田では窯の燃料が時代とともに変化している。 薪→石炭→重油→プロパン、ブタン 30年前にプロパンやブタンなどのガス釜になった。 村の生活に必要な土地 ガスはなかったので火は薪だった。近くに山があり、1週間に1度日曜日にきれいに掃除をして、そこから薪や雑木、枯れ木を取ってきていた。共有林ではなく官林だったので入るために許可証を持って山に行った。 村の動物 馬はいなかったが牛はいた。1軒に1匹くらいでオスもメスもいた。 自分の田圃を耕すために自分の所で飼っていただけで、馬喰という牛だけを専門に商売をしている人はいなかった。 村の道 隣村(山内)まで行くには旧道を通っていた。昔はバイパスはなかった。 「泉山」に有田工業学校があり、梶山さんは若い時は隣り村出身だったので隣り村から歩いて旧道を通って学校まで来ていた。 古い道、今の国道35号から旧道を通って隣り村から薪(松の木、燃料には松がいいので)が運ばれてきた。薪は山の地主が売りに来ていた。有田は焼き物を焼くために薪を使っていて、隣り村には大きな山があってそこから薪を運んできた。山内町の他からもきていた。 塩や魚は、伊万里から手に入れていた。伊万里には焼き物を出荷していた。 まつり 、 村の神様は、観音様がある。梶山さんがこの村に来た頃に作った。タンナカを作る人と観音様を立てる人と分担して、観音様は3人で立てた。家庭が狭いので集会所として立てた。 夏は夏祭りで祇園、秋の10月頃は秋祭りでおくんちというものがある。 祇園…各区に祭っている神社(天神さんなど)があり、持ち回りで祇園の時に日にちをずらして夏の時期に1日交代で地区ごとにお祭りがある。 天神さんは菅原道真を祭ってある。 祭りはここは唐津くんちと一緒で、料理などを振る舞って来てもらい、他のところであると自分が行き、コミュニケーションを図った。 商売的な付き合いがあるので、それが円滑にいくための場所としてや先祖の供養として祭りが行われる。 有田町全体で6月1日に山登りという祭りがある。 山登り…朝鮮から来てここで働いている朝鮮人が多かったので、寒い間は外も出れないから、火にあぶりながら、描いたり、創ったりしていた。そして、6月になったら雪が溶けて天気が良くなってから山に登って、朝鮮を頭に浮かべながらお酒を飲んでいた。 昔の若者 夜、昔の若者はお酒を飲んでいた。 女の人は集まっていた。(サンヤマチという)男の人もある。 持ち回りで人の家や集会所に集まっていた。今でも毎月集まっている。 部落同士の意志の疎通のため。10区あって、各区に1つずつ神社があり、そこで集まっている。 谷だったので閉鎖性があり他からは来なかった。 この頃は色々な所からお嫁さんがきたりしているからその人たちは呼んでいるようだ。 部落が集まって、発展のために区長が発言をして村を良くしている。 職人の町だから飲食物で人を寄せて、飲んだり食べたりが多かった。 色々話したり座談会をやっていた。 |