【西松浦郡有田町上南川良原】 歴史の認識レポート 1AG98242 山下千妃呂 1AG98254 渡辺千紗
<聞き取りした方> 馬場昭三郎さん(昭和3年生まれ) 大串政治さん(聞き忘れました) 大串さんの息子さん(聞き忘れました) 注:私たちの訪れたこの上南川良原町は窯業一色で農業は行われておらず、しこ名を知っている人はいませんでした。 <有田郷の生まれ> 有田の地名は、この付近は山々に挟まれた谷間であることから「間(あいだ)の谷」が「アリダ谷」となり「有田谷」となったのではないのかといわれる説と、弥生時代に稲作の技術を待った人々が移り住み次々と開墾したことから「新しい田」が「アラタ」となり、時代の経過と共に「アリタ」と転化したのではないのかといわれる説とがある。 <地名の起こり> 朝鮮全羅南道南原群(ナンゲングン)の「南河原(ナンカゲン)」の韓人が最初に移住したことから名付けられたであろうと言われている。今では「南川良」と書かれているが、旧書物には皆「南河良」と書かれていた。 <窯業の始まり> 有田郷は元々農村地帯であったが、安土・桃山時代の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、朝鮮陶工たちが日本へ連れてこられ、そのうちの一人の陶工である‘李参平(リサンペイ)’、後の‘金ケ江三兵衛’が小溝原で窯を焼いたのが窯業の始まりとされる。以降、農業は衰退し、窯業一色となったため、上南川良原では農業は行われてはいなかった。 <窯業の発達> 佐賀藩は有田の陶業を藩の産業として取り上げ、本格的にその経営に乗り出した。有田で生産された磁器は伊万里まで運ばれ、ここで諸国から集まった商人と取り引きされ伊万里港から積み出された。輸出はオランダ貿易がよく知られている。オランダは中国の焼き物を台湾で買い付けて本国に送っていたが、中国が戦国時代となり、焼き物が生産できなくなり、仕入れが困難となったため日本の有田焼に注目したのであった。「有田焼」は伊万里港から積み出されたので「伊万里焼」とも呼ばれるようにがった。この有田町から有名な柿右衛門式磁器も生まれたのだった。 *柿右衛門式磁器 乳白の素地に赤を主とした蒲洒(しょうしゃ)な色絵文様を施したもの。 <当時の人々> 当時、窯業中心のこの町は、雇い主と雇われていた者との貧富の差は大きかった。しかし焼き物自体高い値で売れるため、差はあっても雇われていた者ですら他の農夫よりも裕福で、苦しい生活を強いられることはなかったのであった。 <三柿右衛門> 上南川良原には有名な陶工として三人の柿右衛門が存在していたと言われている。以下はその三人である。 ・酒井田柿右衛門 初代柿右衛門である。始め喜三右衛門と言って21才の時に南河原に移住し半島渡来の人達に混じって磁器の制作に従事していた。その後、磁石を発見し磁器の製法(青華磁器)に成功し、さらにこれに新工夫を加え濁し手焼を創作した。 喜三右衛門はある秋の日、柿の実が色づいた自然の赤に魅了され、赤絵付けの法を習得しようと苦心した末に成功した。このことから柿右衛門と改名したと言われている。 ・樋口柿右衛門 上南川良山の代表的な窯で樋口窯とあるが、この人物からきたのだと思われる。樋口家の何代目が柿右衛門なのかははっきりしないが、この地域で火事が発生した後、他の窯は焼き物の生産ができなくなり多くの職工達は外山へ仕事を求めたにもかかわらず、樋ロ窯は焼き物の生産を再び起こし、生産が増加し大いに栄えた。樋口家は別名「焼き物学校」と呼ばれ、南川良山の多くの職工達はここで轆轤(ろくろ)や絵付けをはじめ、焼き物の 技術を習得したと言われている。 ・馬場柿右衛門 馬場柿右衛門の子孫は一人もいないため詳しいことはわかっていない。しかし、柿右衛門の墓の側に百貫西窯があり、ここから染付椀や柿右衛門様式の皿が出土している。このことと、馬場柿右衛門の戒名が「本染」ということより馬場柿右衛門は絵付け師としてこの窯に深く関わっていたのであろうと思われる。 <民俗> ・天神さんの祇園 8月25日は天満宮の夏祭であり昔から部落にとっては大きな行事であった。東小物成の消防小屋から下南川良山までの沿道の両脇に23日から旗竿が立ち並び、祇園が間近に迫ったことを伝えていた。参道の入りロとお宮ロに掲げた長方形の箱提灯は今でも竹を組んで掲げる。表は「御神燈」と書き、裏は絵描きによって見事な梅の絵がかかれている。梅の絵は天満宮の神社紋が梅であることに由来する。下南川良山では8月23日から花火が始まる。 各地で行われていた花火も今では次々に姿を消したが、西有田町大木の龍泉寺では今でも昔通りに行われている。浮立の稽古は2ヶ月前から行われていた。鐘、太鼓などは部落のものであったが笛吹きの笛はすべて手製で自分の口、指にあわせて作った。南川良原の浮立は曲川浮立である。この浮立も戦時中は中断したが、戦後経済が復興し道具を買えるようになってから復活した。各家々では米粉と小麦粉でまんじゅうを作り、参道の両脇には夜店がずらっと並んでいた。 ・お葬式 葬儀の当日早朝から男性は飾りのお供物作りをする。部落によって多少違いがあるが、作るのはソーメン溝、野菜溝、ダンゴ溝や紙花などである。ソーメン溝はソーメンをいろいろな色紙で編み込み、ダンゴは49個を串にさし束ねる。家人はこれらを77忌まで祭壇にお供えする。この風習は昔の土葬時代の名残である。昔は葬儀の際は部落の人たちがみな集まり葬儀一切を行っていた。今では葬儀社が一切行うためだいぶ簡素化されてきたが、祭壇飾りを作る習わしだけは今も受け継がれている。女性は炊き出しといって葬儀の日、遺族や集まった親戚、手伝い人の昼食を作ったり、ダンゴ溝のダンゴを作ったりする。 ・その他南川良特有の年中行事をあげておく 11月23日「神待ち相撲」 10月は神無月で神が出雲大社へ出かけてしまうので、翌月神社の境内で奉納相撲をして神の帰りを待つ行事で、夜たき火をしながら、部落の力自慢の子供たちが技を競う。この日は男の幼児の土俵入りも行われ、幼児の無病息災を祈願する。 11月25日「下南川良山のまつり」 下南川良山では、天満宮の奉納田畑があり、その収穫を祈って部落全員がこの日家所に集まり朝飯をとるしきたりである。ご飯は「白飯」で味噌汁やおよごし、自家製の漬物などであった。今から考えると質素な食事のように思えるが、当時はとても待ち遠しい行事であった。昭和31年頃まで続いたが、その後人口が増えたり、次第に時代にそぐわなくなり規模が小さくなり、今では「おにぎり」を天満宮にお供えし、参拝客に振る舞うようになった。 **1日の行動** 11:15 バス停到着 私たちは前日に調査の断りを受けたためとりあえず年配者を探すため、上南川良原へ向かって歩き出す。色々な人に上南川良原の位置を教えていただく。 11:45 上南川良原到着 上南川良原が着いた辺りかどうかを聞くため「馬場商店」に入る。そこで「私でよかったらお話ししますよ」と快く引き受けてくださった馬場さんに会う。ラッキーなことに馬場さんは前区長さんでもあり、後でいただいた郷土誌の編集者でもあった。馬場さんから多くのお話をうかがい、さらに大串さんを紹介していただき馬場商店を後にする。 13:30 大串さん宅到着 紹介していただいた大串さん宅に到着。しかし政治さんは居られず、息子さんに話をうかがう。 13:45 町を歩き回る どこかでお昼を食べようとお店を探す。探している間、上南川良原の町を見ながら歩く。 14:15 昼食をとる 手頃な喫茶店で昼食をとりながら、いただいた南川良原郷土誌を参考にして上南川良原について色々詳しく調べる。 15:15 再び大串さん宅を訪れる 大串さん宅を再び訪れ、話をうかがう。 15:30 調査終了 調査を終え集合場所のバス停に向かうため上南川良原の町を後にする。 **感想** 今回、調査の前日に断りを受け不安を抱きつつ調査に向かいました。とにかく人を捜そうと町を歩き、本当にたまたま入った店で運良く町のことに詳しい馬場さんに出会うことができ、なんとか調査を行えました。行きと、昼食のために町を歩きながら町を眺めていると、水田の少ないことに気づきました。また、道路沿いには多くの窯の煙突や磁器を売っている店が有り、ここは本当に稲作ではなく、窯業でずっと成り立ってきた町なんだと深く実感しました。昨年も服部先生の授業に参加させていただき、訪れた村は農業一色でしたが、今回は窯業一色と全然違った町を訪れ、色々な村があり、その歴史に触れ、その村を直接見ることが出来、日頃送っている生活では決してできないような体験が出来、本当に良かったと思います。(山下 千妃呂) 話をうかがうことのできる方が決まらないまま村に向かったので最初は調査がうまくいくかどうか不安だったが、たまたま道をうかがった方が前区長さんであり、その場で南川良についていろいろな話をうかがうことができて、本当に運が良かったと思う。しかも南川原村郷土史という本を出されており、その本をいただくことができた。その本には南川原の地名の起こりから、郷土人物、民俗行事にいたるまでさまざまなことが細かく載っており、レポートを作成する上でとても役に立った。佐賀には行くことがほとんどなく、有田町という町がある事すらよく知らなかったが、南川原について調べるにつれ親しみが持てるようになった。田が所々にあり、その間を鉄道が通っており静かでとても良いところだった。本当に狭い範囲しか見ていないが、時間があればもっと南川原全体を歩き回りたかった。(渡辺千紗) |