【西松浦郡有田町上本村地区】

歴史の認識現地調査レポート

 

歩いて歴史を考えるレポート(上本村地区)

○レポート製作者:1MD99029 川上覚

         1MD99093 村田秀樹

 

○聞き取り対象者:岩崎 虎次(72歳)

 

○ しこ名について………

小字下舞原:ヒノクチ(火ノ口)、マツヒラ(松平)、ハンノヤシキ(半ノ屋敷)、

ドンツジ(堂辻)、コバンクビ(小伴首)

小字中原:ナシノキ(梨ノ木)

小字上舞原:ユダンタニ(湯段谷)、コバンクビ(小伴首)

→昔、温泉が湧いていたことに由来する

その他(小字中十里):マイノウチ(舞ノ内)、タカノス(鷹ノ巣)

 

○用水・水利について………

 ・基本的に水が豊富で用水らしい用水はなく本村川から直接水を引いていた。そのため用水の分配をめぐっての争いはなかった。

 ・1994年の大旱魃では被害は出なかった。

 ・1967年に大水害が生じ、その後7月9日〜10月16日に雨が降らずに大旱魃となった。山手は田が真っ白で、ため池も井戸も空っぽになり川に穴を掘って溜めて汲んだ。

   田にはポンプを利用して水をくみ上げたが、水不足の影響で大被害を受けた。しかしこの辺りはブドウの産地であったのでそれを出荷してしのいだ。

 

○Q&A

Q:その他の災害は?

A:1968年2月に大雪が降り電線が切れて1週間停電した。

 

Q:上本村の中心地はどこですか?

A:下舞原の道路沿い(宿場町であったなごり。江戸時代に火事で全焼した。)

 

Q:村の変遷について

A:約30年前までは農業(専業農家)が中心……生活程度が低かった。

  次第に隣町で栄えた焼き物に手をつけはじめ、今日では農業以外にも職を持つ兼業農家がほとんどである。

  昭和50年頃に舞原団地が形成されはじめ住宅が増えた。

  区画整理が行われて中原・野下・上ノ前へと続くアスファルト塗装の道路ができた。

 

Q:電気はいつ頃来たか?

A:大正12年9月

  それ以前はランプを使用していた(電気が来ても使う家が多かった)

 

Q:子どもや若者は何をしていたか?

A:コマなどをして遊んでいたが、ほとんどの時間を家の手伝いに使っていた。

  (山仕事、牛馬の世話、共同風呂の掃除・準備など)

  若者の中には新天地を求めてブラジルや満州に移った人も多数いた。

  (成功者もいた)

 

Q:海から離れたこの地で魚類はどうしたか?

A:魚は鮮度が著しく落ちるのでほとんど口にすることはなかった。

  (祭りや祝い事のときだけは食べていた)

しかし鯨は塩もみにして売りに来ていた。塩は俵で売りに来ていた。

 

Q:農業以外の収入は?

A:野菜を有田町へ売りに出ていた。また焼き物用の薪も有田に売っていた。

 

Q:この地区で多い名字は?

A:岩崎……20軒、岩永……20軒

 

○舞原団地の作られた経緯

 農業だけで生計を立てていくことは難しく、舞原団地に土地を持っていた者が焼物作りに転換する資金のために土地を手放したことがきっかけとなった。

 

○まとめ

 今回の調査で小さな歴史の調査にも多大な時間と労力が必要とされることを、身をもって学びました。ご協力してくださった岩崎様に感謝したいと思います。

 我々は更なる情報を求めて同地区における古くからの家をたずねて回りましたが、残念なことに有力な情報を得ることができずに一日を終えてしまいました。福岡に戻って電話で問い合わせなどをしましたが、しこ名について知っている方を紹介していただくことはできませんでした。

 この講義を通じて、歴史が従来の記憶するだけの科目から、自ら動いて情報を集めて知られざる歴史をまとめる科目へと認識が変わりました。受身的な講義が主流の大学のカリキュラムの中で自らが積極的に参加する「歩いて歴史を考える」は非常に面白かったです。

 最後に多岐にわたってご指導してくださった服部先生に感謝します。ありがとうございました。



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