【伊万里市大川内町吉田】

歴史と異文化理解A現地調査レポート

 

1TE98488 木谷義明

1TE98495 國貞直行

話者:吉田区長(氏名不明)

 

私たちは、大まかな目標として、しこ名を調べるために、佐賀県伊万里市吉田を訪れました。吉田は、古い地図で見る限りでは、山ばかりだったので、しこ名を集めることができるかが不安でした。実際に行って感じたことは最後に感想として書くことにし、本題にはいります。

 

 <しこ名について>

まずはじめに私たちは、区長さんのお宅を訪ねるために、区長さんのお宅をきいた古老の方についでにしこ名をきくと、何個かわかりました。その後区長さんから聞いたしこ名と、もう数件のお宅で聞いたしこ名を、名の由来がわかるものと由来のわからないものとで分類します。

 

 名の由来がわかったしこ名

  1・東林山(とうりんさん);東林庵があったから。

  2・いでんはた;いで(=いせき)と呼ばれる、用水を川から引くための場所のそばにあったから。

  3・鮒田(ふなた);鮒がたくさん産卵しにやってきたから。

  4・びしゃもんさん;「びしゃもんさん」と呼ばれる神様がまつられていたあたりであったから。しかし、現在はまつられている場所がすこし移っていた。写真を撮ったので後日提出する予定です。

  5・疫神谷(やくじんたに);伝染病が流行ったときに行くと病気を治してくれるという疫神様(やくじんさん)と呼ばれる神様がまつられている辺り。またこの辺りでは色鍋島と言う焼き物の泥が取れたそうである。昔は車などないので牛馬車で大川内山のかまもとに運んでいた。

  6・牧ん道(まきんみち);牧(牧場)があった方向へ行く道から。

  7・ふけた;川と同じくらいの低い位置にある田で、いつも水気が多く良い田ではなかったのでこの名がついたらしい。

  8・みぞした;川のすぐ側にあった田であるから。

  9・八施割(やせわり);1反の8割程度(つまり八施ぶん)の面積しかなかった田であったから。

  10・公民館まえ(こうみんかんまえ);公民館より家側の田であったから。

  11・公民館うら(こうみんかんうら);公民館より家側と反対側にあった田だから。

  12・堂山(どうやま);堂山池のまわりの田や土地であるから。ちなみに池の名称「堂山池」はずっとかわっていない。

  13・中ん島(なかんじま);中島という人が住んでいたあたりだから。

 

 名の由来がわからないしこ名

  14・大野春(おおのばる);お茶、まほらんなどを栽培していたところ。現在は荒地になっている。

  15・向田(むかいだ)、向田の谷(むかいだのたに);焼き物を焼くためのかまを作るときに使う泥をとっていたところ。

  16・辻浦(つじうら)

  17・ゆだんたん道(ゆだんたんみち);川の向こうにある通学路だった道

  18・大黒いで(だいこくいで);ここから田に水を引くための用水を取っていた。大黒さんと呼ばれる神様がまつられている。

  19・ひろくぼだに

  20・はいさか

  21・谷川(たにがわ)

  22・じんどうみち

  23・中川原(なかがわら)

また、しこ名といって良いか分からないが、各農家では自分の家の前にある田ん中を「前」、遠くにある田ん中を「ちゃーばい」と呼んでいた。

 

 <水利権について>

水利権だけはどんなかんばつの年でも村々が互いにルールを守っていたため、権利は侵されることなく、なんの争いもなかったそうである。各地区にいくつかため池があり、水がひあがりそうな時はその池の水を川に流したらしい。用水路は上の田から田に続いており、上の田や横の田が使用した水は次の田が続けて使用したため、下の方の田にも水がちゃんといきわたっていた。またそのため、どの田もおなじ量の水を使用したらしい。この話をされた老人は、水利権に関してはしっかりと守られてきたことを何度も強調されていた。

 

 <農業等について>

吉田では米の保存は、大きい「かん」に入れたり、「かめ」に入れたりしたそうだ。農作物としては、米、麦、もち米、アワ、ソバ、それに各農家が畑で作る野菜であった。特にもち米は「吉田もち」と呼ばれる有名な特産品をつくるために重要なので昔はたくさん生産されていたらしいが、現在は少量しか生産されていない。麦の種類は小麦を主として大麦、はだか麦(麦飯に使用)であったらしい。たきぎは大野春や辻浦にある自分の山から取っていた。山を持っていない人は鉱山のうれ葉を購入していた。

 

 <川について>

伊万里川にはなまず、うなぎ、どんじょ(どじょう)、どんこがたくさんいたが、なまず、うなぎ、どんじょは現在はほとんどいないらしい。今は、フナ、ハヤ、コイぐらいしかいないそうだ。五本柳からは大黒いでと呼ばれるいでがあり、十三反ぶんくらいの田の水を取っていた。昔は飲料水も田に引く水も全て川から取っていた。飲料水は井戸からの水だろうと思っていたので、かなり驚いた。大黒いでだと思われる用水路の写真も撮っておいたので後日写真ができあがってから提出する予定です。

 

 <かんばつについて>

昭和42年には7月に風水害、9月にだいかんばつに遭い大不作だった。米に保険金をかけていたので多少のお金は手に入ったが、どかたなどの出仕事や、国有林や県有林に日雇いで仕事に行く人もいた。一年中おいしい米も米は食べられず、まずい米を食べていたそうだ。保有米も死に米となった。雨を降らせるために「せんばだき」といって色々な物を燃やして雨を降らせようとしたらしい。また、牛の形をした石を洗う「うしあらい」を行ったり、いのりを捧げたりして雨ごいをした。「うしあらい」の時には決まった量の決まった酒で石の牛を洗った。また、浮立(ふりゅう)と呼ばれる、鉦や太皷をたたくことなどをして雨ごいをしていた。

その後、昭和50年に吉田では区画整理が行われた。

 

 

 感想

しこ名を知っておられた方が思ったより少なく、また昔のことなのでなかなか思い出せないらしく、多くの情報を集められなかったことが残念である。吉田という地区は思ったほど広くなく集められたしこ名も多くなかった。お手紙を出したのが伊万里に行く直前であったのがまずかった。もっと早くから準備をして、たくさんの方にお話を聞けるようにしておけばよかったと思う。このことはこういった調査の時には大切であることを痛感した。吉田では様々な工夫を昔からしてきて多くの困難を乗り越えてきたそうだ。だが、お手紙でのお願いを快く引き受けてくださった区長さんをはじめ、突然の訪問の際にもたくさんのことを私たち教えてくださった農家の方々には大変感謝している。



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