歩き・み・ふれる歴史学
お話しをしてくださった方々 立石元次さん 明治44年生まれ 88歳 立石節生さん 昭和17年生まれ 立石巧さん 大正9年生まれ
1AG98133 辻井秀樹 1AG98153 中西亮介
伊万里市東山代町脇野
7月3日 佐賀へ行く前日の午後5時。 以前、脇野の区長 山口良金さんからの返事の手紙は来ていなかった。区長さんに電話を入れてみることにした。しかしながらコールを20回以上鳴らしてもでる気配がない。たんぼへでかけているのだろうと思い、その後、6時、6時30分、7時、7時30分...と30分のおきにかけたが全く出なかった。もう周りも暗くなってきて、たんぼにいるはずもない時刻になったにもかかわらずでない。連絡が取れなければ、明日行ってもいいものやらどうやらわからない。仕方なしに、脇野の組合長、草野紘紀さんに電話してみた。組合長さんは、快く出てくれた。が、組合長さんの口から、驚くべき事実が伝えられた。なんと、脇野の老人たちは、今日から、北海道へ旅行に行ってしまって、誰もいないというのだ。組合長さん自身も、まだ、現役で働いており、昼間にはいないということだ。それでも、誰か残っているだろうと思い、紹介してもらおうとおもったが、最後の思い出、といことで、みんな行ってしまったそうだ。「他の日にしてください。」と言われ、仕方なく受話器をおいた。そのような状況下で調査当日を迎えた。 7月4日 8時15分 六本松集合 8時30分 六本松出発 10時50分 現地到着 バスを降ろされた僕達は、老人がいないのではないか、という不安を抱きながら、脇野へ向かった。その日は、快晴に次ぐ快晴。とにかく暑かった。現地は、ビルなど無く、日陰1つなかった。直射日光が、1歩歩くごとに、僕達の体力を奪っていった。現地は、平野が広がっており、ほとんどが水田で、その向こうに山が広がっていた。脇野川沿いに行けば、脇野に着くだろうと思い、とりあえず進んで行った。10分ぐらい歩いた所で、草刈りしているおじさんに、尋ねてみると、この辺りは、すでに脇野らしかった。脇野は、山の上だと思っていたが、実は、平野と向こう側の山一帯のメッチャメチャ広い範囲だということがわかった。この老人のいない、広い範囲をたった2人で...。僕らは、途方に暮れそうになったが、そこは、僕らのねばりと根性で頑張っていこうと思った。 そのおじさんに、事情を説明すると、違う所で作業している別のおじさんを紹介してくれた。そのおじさんの名前は、立石節生さんといい、作業中であったので、炎天下の中であったが、しこ名のことなど、少しばかり教えてくれた。しかし、まだまだ若かったので、あまり聞く事ができなかった。 そこで、また、別の人を紹介していただいた。その人は、立石巧さんといい、節生さんの叔父にあたる人である。昔、社会の教員をなさっていたらしく、僕らのこともすぐに理解してくれ、外でではあったが、いろいろと教えてくれた。しかしながら、2時から、寺の寄り合いに行かなければならないらしく、昼前とあったので、話を打ち切らざるを得なかった。次に、山の上の方のことを聞こうと思い、きつい山道をのぼっていった。日は、だんだん高くなり、さらに体力を奪っていった。 12時頃、納屋の小陰にて、昼食をとった。しかしながら、この照りつける太陽の暑さで、『西日本一の汗かき』の僕としては、もう限界の状態に達していた。意識も、朦朧としてきて、調査などできる状態ではなかった。 1時15分 我が相棒の支えにより、なんとか調査再開。 1時30分 山をひたすら上り、ようやく、民家に到着。 山口良金さんの家を発見するが、やはり留守であった。猛暑のためか、外には誰もいなかった。仕方なく、直接、家に突撃インタビューを試みたが、老人がいないというのもあり、いたとしても分からないと言って断られた。 2時30分 なすすべなく下山。 山を下りたちょうどその時、再び、立石巧さんに合い、巧さんの兄の立石元次さんを紹介していただいた。元次さんは、この村一番の古老で、88歳らしい。家に伺うと、中に入れていただいた。げんじさんは、節生さんのお父さんで、元次さんと、節生さん夫婦の3人に、いろいろ話しを聴かせていただいた。 3時50分 深くお礼をいって、家を出た。 4時15分 集合場所に到着。 4時30分 出発。 六本松到着 今日は、本当に、立石さん一家に助けられました。人の温かみを感じました。この暑さの中、本当に歩き、み、ふれました。
しこ名一覧 小字 永田のうちに チャアバイ(田原) 永田、東脇野、山ノ口、石橋にまたがって シモコガ(下古賀) 山ノ口に ヒガシンタン ヤマンクチ イホリ、辻谷にまたがって、ニシンタン 東脇野に スタツキ、カミコガ(上古賀) 西脇野に コウツセイリ(耕地整理) 上脇野に オケダ、オケダノツツミ 大王に ジャオウ、ジャオウ坂 白岩に 三百田(サンビャクタ) 引岩に 四百田(ヨンビャクタ) 林前に ヒャーシマエ 堺郷に シゲタニ 天ヶ渕に アンガクチ 遠尾場に ミズナシキ 持田に タカブネ(高船)、イワワキ(岩脇) 烏帽子に ワイノ
・脇野について 脇野は山から平野にかけてまたがっている村である。水路のことを脇野では“しいど”ではなく“すいど”と呼ぶ。道橋はこれといったしこ名はなく普通に「みち・はし」と言っている。井桶はいどいと呼んでおり水門のことだと教えてもらった。堤防のことは『つつみんでい』というしこ名でよんでいる。
・昔の暮らしについて 昔は米以外に長にんじん、大根、キャベツなどの野菜を栽培して収入を得ていた。当時、畑だった所は現在は山になっているのだという。 食べ物は、はだか麦、米を3:7の比で混ぜた麦ごはんを主食とし、白米は病気の時ぐらいしか食べなかった。白米のことを銀めしと呼んでいたそうだ。おかずは、一例に、なすびのみそ漬を挙げてくれた。 家屋はわらぶき屋根で室内と室外の温度差がなかった。昔の水田は、現在のように四角四角してなかった。機械もなく牛馬で水田を耕していた、10人から20人で牛を購入して共同で使用していた。 道は、里道・うさぎ道などの細い道ばかりで、1955年〜1960年に補助整備が行われ、道路や水路・排水路がつくられた。
・米の保存について 昔は、米に虫がつかないように、また品質が落ちないようにかめに入れて保存していた。もみ貯蔵も行われていた。今は低温貯蔵である。昔、外に売ったりする前の籾米は、そのつど商売人が買いにきていたので保存する必要はなかった。今は、農協で共同貯蔵している。
・村の水利について 脇野は、烏帽子山の噴火で土砂が流れてできた所で、水源地が低いから水があがってこなく昔から水の不便な所であった。昔は、水田にかかる水はため池だけであった。現在は、主に湧き水とため池だそうである。村にはため池が7つあり、イワワキ(岩脇)、タカブネ(高船)フカタニなどが例としてあげられる。 用水は、その村がすべて使うことができる単独の用水であった。ミズミチ(水道)がどこからどこまでにかかるか、どこまで水を流すか決まっている水利権が存在する。また、村の下方に水が流れないということから、ポンプの使用禁止を村で取り決めている。 水争いは、過去から現在に至るまで村内で頻繁に起きている。水が不足すると水争いが起き、雨が降ると仲良くなるそうである。 1994年の大干魃は、そんなにひどくなかったが、40年前の大干魃はとてもひどかったそうである。井戸が乾いてしまって水もでなくなり、お話しをしていただいた立石巧さんが当時酒屋をしていてトラックで水を配給したのだという。各家におけを置いてその中に水を入れ回ったのだそうだ。その後、上水道を脇野にまわしてくれるよう市に申請した。それで今は水道が通っているのである。
昔、水に困った時、煙をだして雨乞いして、それでもうまくいかない時は、となりの村に行ってまで雨乞いしたという。脇野では、雨乞いに関する「脇野の大念仏」という行事がある。その事についてくわしく述べたい。
・脇野の大念仏 伊万里市東山代町脇野 佐賀県重要無形民俗文化財に昭和34年 3月20日指定 大念仏、県内では伊万里市の山代郷のみに伝承されている芸能であって、大干魃の際、他の雨乞い手段がなくなった時、雨乞い祈願として青幡神社に奉納される。出演者は、鼓四人、鉦四人、笛の役三,四人で古老七〜八人が随伴する。鼓、鉦は、白衣、白手甲、白足袋 わらじばきで、鼓役は、胸に太鼓を吊り、幌笠をかぶる。鉦役は、地蔵の種字の書かれた笠をかぶり、左手に鉦をさげ、右手にバチを持つ。 社前に男幌と女幌の二本の幌竹および幟を立て、それを中心として、鼓役と鉦役の八人が交互にまじって円陣をつくり、八周する。中央に笛の役を呼び古老が位置する。手の舞い、足の踏み方など厳格な法式があり、打鉦の拍子に合わせて歩調を整え、念仏を唱えながら踊る。一歩二踏ずつで進むが、次第に所作は大きく烈しくなって、足をあげて左転右転する舞踊りと呼ばれる。所要時間は25分程度である。 大念仏は、念仏踊り、または踊念仏と称されているが国の中世に盛んであった芸能の一つであって、田楽とともに近世の芸能の基礎をなすものであり、わが国の芸能史上、重要な地位をしめるものである。
・村のこれからについて 脇野の三百田、四百田は現在荒れている。理由は、米の減反政策と後継者がいないということが挙げられる。米の減反政策で補助整備が行われなかった所もありそうした所は荒廃するのだという。また、後継者がいない理由の1つに、米の自由化で米の値段が下がったということが挙げられよう。米代で生活できないのである。だから、水田を売る人はいても買ってくれる人はいないのである。整備されていない所は、せまく荒れており、労力がかかるから、借りて作ってくれる人もいない。工場が付近に建てられ勤めている人も多く、自家用米ぐらいしか作らない人もいる。 立石節生さんは、現在専業農家で「圃場整備した所はこれからもやっていけそうだ。米の収入の多い人は後継者がいるが、あとは後継者がおらず農地がほとんど荒れるだろう。その事が不安でこの先どうなるのか想像もつかず、考えただけでも恐ろしい。政府はこの現状 についてもっと考えてほしい。」とおっしゃった。
|