98東山代町浦川内

      調査日:7月4日(土)

・     調査地:佐賀県伊万里市東山代町浦川内

調査者:  1AG98106杉野 麻子

      IAG98113高瀬 文郁

      IAG98130田端 美保子

話者:  前田 琢生さん(60)

     徳永 重利さん(63)

     前田 稔さん (63)

     牧山さん   (74)

 

   しこ名

ウラガワチ・ウラゴチ(浦川内)

 意味  大字・小字ともにある。

1.元禄十四年の伊万里湾が干拓される前の地図によると、浦川内の寺田まで海水が満ち船着き場になっていたらしい。浦は帆を表す

2.昔、京に政変が起きて大宰府に島流しにされた浦内淡路守が移り住んだことから。

3.朝鮮半島から移り住んできた人々が、故郷を懐かしんで朝鮮半島の地名に多い「浦」という文字を使った地名にした。

 

リュウザキ(竜崎・竜岬)

伊万里湾が干拓される前、細長い岬の形をして自然の防波堤となっていたので、縄文・弥生時代に中国・朝鮮半島から渡って来た人々がここに舟をつないだことから名づけられたと思われる。

 

ヨコマクラ(横枕)

開墾地を条里制によって区画する際、山添いであることや河川がある理由で、土地の割り振りが横に長くなった地区。

 

ウメノマチ(梅ノ町)

トオノマチ(十ノ町)

これも条里制における単位「町」の名残。

 

マルオ(レポートにはナヲ)(丸尾)

ここは小さな城祉と思われ、縦堀が残っている。江戸時代以前、室町時代から佐藤家が長住していたと思われる。丸尾、なまってナヲは、この城の一の丸、二の丸、出丸、本丸などの「丸」の字をとってつけられたようである。

 

フヅウ(不通)

ここは和田城という大きな山城に通じる場所である。和田城は倭遥の拠点であったと思われ、関所などの監視の場があり、誰もが通ることはできなかったことからこの名がついたようだ。

 

テラダ(寺田)

今でも寺田は公称地名で、和田城にまつわる7ケ寺の一つである御徳寺があったところであるため、「寺」の字をとってつけられたと思われる。

 

ウシロメ(後目)

浦内淡路守の居住地を守るために見張り番を置いていた居住地の北門があったと思われる場所。この見張り番を後目付けと呼んでいたと思われる。

 

カラスガミ(烏神)

鳥獣の害を防ぐためのほこら(猪塚)

 

ホウシヤクジ(宝積寺)

鎌倉初期、山代松浦党二代目党主源道が建立したと伝えられている寺で、寺領4町8反を寄進したと伝えられている。

 

シロヘビヤマ(白蛇山)

宝積寺奥院で、高さ10m、横幅40mはどの岩陰洞窟を持つ。その岩肌には石仏が多数彫ってあり、中央ほどにある社の中には岩肌に彫った大きな薬師如来がある。ここには昔白蛇が棲んでいて、村人達の願い事をかなえてやっていたという伝説からこの名がついた。

また、昭和44年に、話者である徳永さんがこの社の足元を掘ったところ、先土器時代の遺物が発見された。この後、県の調査により、13mほど下まで掘ったところ、13層の地層が見つかり、約13000年前の地層であることがわかった。

 

      白蛇山の伝説

 黒髪山の天童岩に七巻半した大蛇が、口から火を吐き夕日に向かって咆哮していた。この大蛇は、時々麓の村を襲い牛馬人間までも呑み込み、恐れられておりました。時は、仁平二年(1152年)京都を追われた鎮西八郎為朝が、肥前の国に来ていることを知った領主有田栄は、大蛇退治を請願しました。村人達の苦しみを救うためにはと快諾して、十人力の重藤の弓を満月のごとく引き絞り、「ひょう」と放てばキラリと夕日に輝きながら大鏑矢が、音をたてて飛んで行きました。見事大蛇の脳天を貫き天童岩から転げ落ちて、龍門の洞穴に逃げようとしたとき、待ち樺えていた為朝に討たれたそうです。

 この山にはもう一匹大蛇が住んでおりました。それは輝くばかりに美しい、心のやさしい白蛇でした。これが実は奥さんで、夫が討たれた後自分も捕らえられて殺されるのではないかと心配して、地中深く穴を掘り潜んでおりました。ほとぼりがさめた頃現れて、西の方角へと夜陰にまぎれて逃れてきて、浦川内の上に大きな洞穴を発見してここに住み付き、一生を終わったそうであります。この白蛇は、夫の悪業を悔い自身も仏に許しを請い、一心に精進していたら、薬師如来が姿を顕し、今日から人間に化身させてやるから、病に苦しむ人々を助けてやれよと言って消えたそうです。夢からさめると人間に化身していました。そして仏に感謝して尼となって修行し、多くの人を助けたそうであります。これを聞いた近郷近在の人達が続々と参拝するようになりました。そして、何年かする内にこの尼もよる年波には勝てず、自分の寿命を悟る時が来ました。ある日、村人達に今夜は夫の命日であるから、自分一人でお祈りをしたいと言って、早

く村人達を帰しました。不思議に思った村人達が、よく朝早く行ってみると尼の姿は忽然として消えて、後には白い大きな蛇の抜け殻があったそうです。

 これを見た村人達は、黒髪山の大蛇の奥方であったのかと、みんなびっくりしましたが、尼の徳を偲び薬師如来を建立して、無病息災の祈願所としたそうです。その如来様が今でも伝わり、八百年のながきにわたり人々の信仰を集めております。

 

      明星桜の由来 

 古老の伝える伝説によれば、京都の公家で浦内淡路守惟久(永保二年壬戊八月十六日白川帝御宇)が康平年間に阿部宗任の乱に連座して京都山城の国壬生を追放され、松浦久公を頼り一族を伴って松浦の地に来て、浦川内に住み着きこの地を開墾したとき、望郷の念

に駆られ山城の地名と明星桜と梅と大念仏踊りを伝えたといわれています。宝積寺創建史によれば、『京都山城ノ秘密念仏卜明星桜卜梅トヲ以テ脇野浦川内ニ伝エ栽ユ……既二梅ハ枯レタリトイエドモ、明星桜ハ当代ノモノ尚現存シテ、三四月ノ頃ニハ観客袖ヲ連ネ…

…其ノ国名京都山城ヲトリテ此地ヲ山城郷卜公称ス……』とかいてあります。この様に山城の地名発祥は浦川内であります。

 明星桜は普通の桜と異なり、花弁が小さく固まって咲くのが特徴で、夜樹の下で焚き火をすれば花がキラキラと星のように輝き神秘的なところから明星桜と呼ばれています。今は四本の株立ちからなり一番大きいもので目通りの周囲が2m、全体の株周りが6m、枝張りが25m、高さが15mであります。春、花が満開すれば、山代郷はゆうに及ばず遠くは伊万里湾対岸の瀬戸の里びとにまで、ウリ、ナス、カボチヤなど春野菜の蒔き付け時期を知らせ、それから春耕、カシキ切り、田植えの準備が始まったそうです。花が多く咲けば豊作、少なければ不作、上のほうに花が多ければ風は無し、下の方に多ければ風年といわれています。このように作物の蒔き付け時を、豊凶を、春を900年ものながきに渡り里人達に告げてきた桜であります。

 

 

      花嫁桜

作詞  徳永 重利

作曲  濱寺 友寿

1.明星桜の 花咲く丘に

 村の祭りの 笛太鼓

 きれいきれいと はしやいだ娘の

 幼なあの日が 目に浮かぶ

 今日は門出の 花嫁姿

 桜峠に 父娘の名残

 

   2.明星桜の 花咲く下で

     箪笥 長持 祝いうた

     母の背中で 揺られるように

     シヤンシヤン馬子で 越えて行く

     花嫁衣裳の 晴れ姿

     桜峠に 父娘の名残

 

*水利と水利慣行

  水があるときは川から取り入れる。水田の水を分けるために「あしだ(川の幅に合わせて切った丸太に2カ所きり口を入れたもの)」を川の底に埋め、自分の田に水を引けるようにする。旱魃のときは堤をとって水役が平等に用水路に流す。また、「あしだ」によって川を流れる水の量を少なくすることができる。水田にかかる用水はすべて浦川内区で使うことができた。しかし過去には水争いは頻繁にあった。「脇野・浦川内水門争い」は有名である。現在でもこの2つの村では水争いがあるが昔ほどではない。それは米が余っているからである。戦争は金よりも米だったのだ。また、村内でも水争いはある。例えば、「あしだ」の切り口に石をならべて相手の水田に水が流れないようにして、自分の水田に多く水を流す。それらに関する苦情はすべて水役が管理する。1994年の大旱魃では汚水処理場のタンクからくんできた。農業は自然に支配される。雨が多いときは水害、少ないときは旱魃になるのでどうしようもない。

 

*むらの耕地

  浦川内では比較的よく米がとれる。泥の集積度が高いところがよくとれる。山の方や海岸に近いところは乾燥していて砂地であまりとれない。

 

*むらの道

 道に名前はつけていない。なくなった。

 

*むらの過去

 現金収入には、芋、大根、畜産、みかんなどがあった。野菜はどの家でも作る。子牛を売ったりもする。

 

*米の保存

  ねずみや虫の被害を防ぐため、10俵はど入る大きなかめに保存した。現在、米を連ぶとき丈夫な紙の袋に入れているが、昔は俵だったので虫が入ってきた。そこで外に売りに行く前の籾米は「もんぶつ」と呼ばれるもみ倉に保存していた。

       もんぶつ:湿気があがらないように床が高い。

            内部は板が打ちつけてあり、隙間から虫が入ってこないように新聞紙で目張りをする。泥壁。

 

    むらのこれから

  徳永さんは、日本農業への展望もないし、浦川内がこれからどうなるのかも分からない、とおっしやつた。これまで農業を続けてきたのは夢とロマンがあったからだそうである。戦後、製品を輪入していた日本には輪出するものとして農産物しかなかった。現在米は余っているが将来必ず食糧難はくるだろう、やはり国は農業に頼るしかないだろう、とおっしゃっていた。

     <1日の行動>

7月4日、土曜日、快晴。私たちは佐賀県伊万里市へ調査に行くため、8時15分に六本松に集合し、バスに乗り込んだ。私たちの行く浦川内の区長さんとは事前に電話連絡をし、調査に大変協力的な方だったので安心していた。

  

10時30分頃 バスを降り、浦川内へと向かう。

  

11時ごろ、浦川内の区長さんである前田琢生さんの家に着くと、区長さんの他に前田稔さん、牧山さんがいらっしゃった。少しおくれて徳永さんが現われ、昔の地名について語ってくださった。

 

 12時10分頃、区長さんの家で「あしだ」と倉を見せていただいた。その後、明星桜と白蛇山を見せに、区長さんが連れて行ってくださった。 

 

13時30分、区長さんのお宅に戻ると、奥さんがお昼を用意していてくださったので、ありがたくいただいた。区長さんらがビールで大変もてなしてくださった。このように農村の方とふれあうことも大切だと思い、すすめられるままにいただいた。区長さんは大変よく飲む方で、ビールを焼酎で割って飲んでいらっしゃった。60代、70代の方とは思えないほど、次々と楽しいお話を聞かせてくださり、時にはまじめに今の農村について話してくださった。

 

 15時30分、楽しいひとときを過ごした後、来年桜の咲く頃にまた訪れる約束をして区長さんの家をあとにした。牧山さんの車で町を案内していただいた。

  

16時20分、バスに乗り込む。

18時50分頃、大学に到着。

 


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