【伊万里市大川内町乙正力坊】 歴史と異文化理解A現地調査レポート 1TE98570 西野 耕輔 1TE98574 野崎新一郎 村の名前:佐賀県伊万里市大川内町乙正力坊 話者:山口 定一さん(区長) ;昭和3年6月生まれ 山口 一之さん(郷土史研究家) ;昭和2年1月生まれ 注)正力坊では「山口」姓の家が多いらしい。今回の話し手も同じ山口だが、特に兄弟だとかいう訳ではない。
<しこ名一覧>(ただし、この地方には「しこ名」に当たる言葉は無い) 古地名 字名 備考 ツキノカワ(月の川) 三本柳・二 セイジンタン(青磁谷) <同上> イセゴエ(伊勢越) 三本柳 ドウシュウ 四本柳・一 マトバ(的場) <同上> ホタチ <同上> カリマタ(狩又) 四本柳・二 ニタンマ(二反間) <同上> ヨコマクラ(横枕) <同上> ナガオ(長尾) 六本柳・一 シロイワンタン(白岩谷) <同上> カッセンジョウ(合戦場) <同上> シンガリ(新狩) <同上> 田地 ムジナ <同上> 田地 タカトリ(鷹取) 六本柳・二 ニダンタン(仁田ん谷) <同上> イラタン(刺谷) <同上> ホンタン(本谷) <同上> アラヒラ(荒平) <同上> スガフタ 杣麦(そまむぎ)・一 サカキンタン(榊ん谷) <同上> シミズンタン(清水ん谷) <同上> オオマガリ(大曲) <同上> キョウゲンジョウ(狂言場) <同上> ウードシ(大通し) <同上> カジノオ(梶の尾) 杣麦・二 ムカイツキノカワ(向月の川) <同上> チョウジュウ <同上> ユダンタン(湯田ん谷) 二本椎 ムカイダ(向田) 三本椎 カミナリツジ(雷辻) 四本椎 ヘーゾウ(平蔵) <同上> ハスワ <同上> ウバノツクラ(婆の懐) 五本椎 デケツチ <同上> オオタン(大谷) <同上> サンダンマ(三反間) <同上> 田地 ヨコデ <同上> 田地 チョウチュウオトシ (チョウチュウ落し) <同上> タカミ(鷹見) <同上> マンコバ(豆小場) 大谷 セメ <同上>
注)古地名と字名の両方に「大谷」があるが、これは別のものであり記入ミスではない
<水について> 水は、正方坊の真ん中を南北に通っている現在の伊万里川から引き、溜め池に一旦留めてから、必要に応じて使っていたそうだ。 主な溜め池は、ハスワ溜め池、長尾溜め池、大谷溜め池、上大谷溜め池である。 正力坊は隣に大川内山が位置していて、しかも、これが高い山であるために水が溜まらず、雨が降っても四、五日すると川の底が見えるほど水量が少なくなってしまうのだそうだ。 その理由から、溜め池が作られたのだが、正力坊とその周辺の土地との間、また正力坊の内部でも、水争いが絶えなかった。その解決策として、水当番をつくって、よその部落とバランスをとっていたそうだ。そのため、溜め池の水は周辺の部落と共同で使われた。ここで言う「周辺の部落」とは、主に吉田である。特に水利が強い部落というものはなかったようだ。 また、川の上流に位置する大川内山の部落とも争いがあったという。原因は、正力坊が大川内山より下流にあるため、上流で水を使われると困る、といったものだった。これに関しても話し合いがもたれたようだ。 だが、話し合いをし、当番をつくって順に水を田に入れることになっても、やはり規則破りが現れるなど、争いはなくならなかったそうだ。
<産業について> 大川内山は、320年ほど前には、鍋島藩の御用焼の磁器をつくっていて、それ以前にも朝鮮焼がつくられていた。廃藩置県のあと、藩そのものがなくなった後も、企業がはいることでその後も続いた。 そのため、正力坊では、農業よりもむしろそれに関連する産業のほうが活発であったようだ。特に、焼き物を焼く際に必要となってくる燃料、すなわち薪をつくる林業が盛んだったようだ。 村の主な現金収入は、この林業でまかなわれたようだ。農業は、米や麦を自分たちで食べる分と、わずかに収入の一部にする程度につくり、薪を売ることで現金を得る、というのがここのスタイルであったようである。だから米の保存に関しても、米そのものを売り物にすることは多くはないので、そこまで神経質にはなっていなかったと思われる。
<農業について> 当然ではあるが、林業のほうが盛んではあったとはいえ、農業が廃れていたわけではない。 まず、正力坊の中で最も米がよくとれていたと思われるところは、横枕である。これは話によると、「横枕」という名前自体、良田とかそういうものを指していう言葉であるようだ。逆に、あまり米がとれないところは、特に地名はわからないが、山のふもと、谷にある田、いわゆる山田だそうだ。米の生産が盛んなところと言うと、大体が平野部であることを考えれば、まあ、これは当然のことだろう。ちなみに、良田と悪田の差は、およそ2倍ぐらいだそうだ。 肥料に関しては、戦前は主に「かしき」を使っていたそうだ。今の六本柳のあたりにあった「かしきり場」でその素となる草木をとっていたらしい。 その後、化学肥料が入ってくると、農業が大きく変わった。具体的にどういう事かというと、まず、収穫量が大幅に増加した事。そして、「かしき」を使っていた時には、草木が腐って肥料となるのに一ケ月かかり、しかも腐ったときに出てくるガスが完全に出切ってしまうまで苗を植えられないという状態だったが、化学肥料をつかえば一ケ月待つ必要がなく、田植えの時期を変えてしまうなど、影響は大きかったようだ。 米の保存については、俵詰めして、天井の上に「ねだ」を通して、間隔をおいて保存した。こうすることで乾燥をよくし、ネズミや虫による被害を防いでいたそうだ。 最後に米と麦の割合だが、収推量において、米7:麦3、収入において、米8:麦2、だそうだ。ちなみに、ひえは作られていなかったということだ。
<ガス、電気について> 村に電気がきたのは、だいたい大正9年。ガスがきたのが、昭和40年前後であったそうだ。 ガスが普及する以前は、ほぼ村の全体の各地で、燃料の薪をとって、使用していた。もともと林業が盛んなところなので、燃料の確保には事欠かなかったそうだ。
<その他> 古道を通って運ばれたもの:燃料、行商用の品、焼き物の原料 村のシンボル:ニギメシヤマ。握飯山である。その名の通り、おにぎりのような見事な三角形の山である。遠くからでも見えるので、正力坊の目印として、よく知られていたそうだ。
<村の姿の変わり方、村はどうなったのか? という質問に対して> とにかく生活が良くなった。個人の収入が増大した事が一番の理由だろう。貧富の差はなくなった。林業も、昔は収入を得るために誰もがやっていたが、今は一人がしきってやっている。今は村の外で勤務して得るのがほとんどで、村外からの収入ばかりである。そのため、当然、専業農家はほとんどいない。
<これから村はどうなるか? という質問に対して> 当分は、現状のまま続いていくだろう。若い人は、村の外に出て行くか、出稼ぎをして数年後に戻ってくるか、といったところだろう。
<今後の日本の農業への展望> 今の農家の人は、自分で農業をやるという気持ち、そして、先祖からの土地に対しての執着心、愛着心といってもよいが、これがつよく心に残っている。しかし現代において農業とは、肥料、機具などのコストと農業収入の利害を考えると、けして割に合う職業ではない。いずれ小さい農家はいなくなり、商売用の米は作らなくなり、自分の家で食べる分だけのためにする農業になるだろう。そして若い人の時代になったら、利害のことを考えて自分の家の分も作らなくなり、買って食べるようになるだろう。
<感想> 福岡にきて三ケ月、久しぶりに田園風景を目にした。調査当日は、晴天にも人にも恵まれた。訪問した山口さん宅ではいろいろと良くしてもらい、もちろん、調査についてもこころよく質問に答えていただいて、実にスムーズに事が進んだ。いろいろな話も聞けて、僕ら自身、とても勉強になった。あとで聞くと、ほかの地区に調査にいった人の中には、散々な結果だったところもあったようで、それを知って、なおさら感謝の念が強まった。 今回の調査では、勉強になることがたくさんあった。今後、それを糧として一生懸命に頑張っていきたい。 |