東山代町長浜

 

歩き・み・ふれる歴史学

<調査者>

  ・1EC98132平野 陽一

  ・1EC98194菊次 慶祐

<話者>

川内照夫(大正14年)多久島 隆一(明治42年)

牧瀬武四(大正15年)松永 和子(昭和7年)

藤川千里(昭和4年)多久島寺衛門

藤川繁 多久島竜美

末永鉄治

< 字 >

  ・六本松・本日尾・本日尾ガラミ・崎山

  ・久左衛門山・長浜1・長浜2・長浜3

  ・シンガラミ1・シンガラミ2・シンガラミ3・浜田

  浜頭(ハマガシラ)・中土居・北土居・奥浦

下山     ・深谷・下り松・白橋

上白幡1  ・上白幡2・勝田1・勝田2

上原1   ・上原2・割山・立部

新浜    ・上土居ガラミ・祐造時・御上谷

 

<通称>(しこ名)

 ・くずの鼻   ・シモ(下) ・カミ(上)

 ・ワンドウ(湾道)・クジュウクタニ(九十九谷)・ランカン橋

 ・シガジンジャ(志賀神社) ・耳の神様

 ・ウゲジマサン  ・タドイチガラミ

しこ名の由来とその説明

<神社>

・小字浜田のシガジンジャ(志賀神社)

   シガジンジャとは、日峯神社の別名で、塩田業を創始した際に技師を筑前姪浜から迎えた為に福岡の志賀島にちなんで名付けられた。

・小字上土居尾ガラミのウゲジマサン。

   ウゲジマサンとは、ウゲジマ神社を呼びやすくする為に名付けられたしこ名。

・耳の神様(ウゲジマサン)

   ウゲジマサンと同様に、ウゲジマ神社のことを示しており、そのウゲジマ神社は岩で囲まれていて、昔、長浜の一部が海であった頃にその岩が波によってうちつけらけ、岩が耳の形のように穴があいたのでこのように名付けられた。

<山>

・小字割山のクジュウクタニ(九十九谷)

   99もの谷があるという事でこの名がつけられた。

<橋>

・小字浜頭のランカン橋

   特に由来という由来はなく、いつのまにかこのように呼ぶようになったという。

<地名>

・小字長浜2、新浜、上土居尾ガラミのワンドウ(湾道)

   昔、まだ長浜の一部が海だった頃につけられた名前。

・小字長浜3のシモ(下)

   単に土地的に見た上で、つけられた名前。

・小字長浜1のカミ(上)

   シモ(下)と同様につけられた名前。

・小字長浜3のくずの鼻

   鼻の形に似ているのでついた名前。

・小字上土居尾ガラミ、新浜のタドイチガラミ

   特に由来という由来はなく、いつのまにかこのように呼ぶようになったという。

 

<村の歴史>

  伊万里市東山代町長浜は、元和元年に旧藩主の鍋島直茂公が、技師を筑前姪浜から迎え、中尾六左衛門に奥浦の地で製塩業を創始させたことが発展の引き金となった。その直茂は、長浜を25の小字へと分けた。昔の製塩業において、塩を取り出す為には薪が必要不可欠であった。そこで直茂は、3つの山を六左衛門へと譲渡した。その山の1つが奥浦山であり、六左衛門は更にその山を25人へと割譲した。そして彼らはそれぞれ、その受け取った土地を利用して製塩業を発達させていった。

長浜という名の由来は、昔、長浜の一部が海だった為に、長い浜辺という事でついたということである。更にこの辺りは昔、長崎だったという事だ。明治23年に古賀総衛門が長浜の地図を作ったという文献があったが、今ではその地図は残っていないそうだ。

 

<塩田業について>

 長浜発展の第一要素であったものが、塩田業であった。長浜の地が水に乏しく、農業に向いていなかった事もあったようである。

 昔の塩田業は、旧道近くの、ほりから水を引き、辺り一面を海水で浸してそれを干す。この動作を何度も繰り返す事で、塩分濃度を上げ良質な塩へと変えていった。長浜の住民に長浜の昔の事を聞くと必ず塩田の事を語ることより、昔の長浜の住民にとっていかに塩田業が大切なものであったかということがわかる。

 

<村の干拓>

 長浜は干拓によってできた村であるので、むらのあちこちで堤防を見ることができる。村の人たちは、昔、現在の本日尾の辺りで泳いでいたというから驚きである。

 

<村の道>

 204号線が出来る以前は、隣村へ行く道や学校へ行く道は主に小字長浜1・2・3に沿って通っている旧道を使っていた。その道を使って村の収入源の塩が運ばれていた。昔、旧道には馬車も通っていたそうだ。

 

<村の水利>

  昔の長浜は、コバヅツミから水をひいていて、昭和に入りダムができてからは、新堤から水を取っている。ダムが出来るまで水不足が激しかったために、下水曲りの水を水田に引かなくては農業をやっていく事が出来なかった。水不足が激しいという事で村同士とまではいかないが、個人個人の争いは生じていたようである。現在水を引き上げる方法としては、ポンプが一般的になっているが昭和35年までは、足踏み車で水を引き上げていた。しかしそんな中、佐賀平野ではポンプが普及していた。

 

<村の耕地>

  長浜の農業に関して、戦前の肥料は金肥を使っていて、ガスが普及する前ご飯を炊いたり風呂を沸かす燃料となる薪は、主に入り会い山である勝田から取っていたが実際薪だけではとてもじゃなく足りなかったので、カヤなどを補足分として用いていた。

  

<村のこれから>

  現在企業による村への開発に対して、長浜区長の川内さんは最初反対していたが、昔は働き場もなく家族と離れて出稼ぎに行かなくてはならなかったのに対し、現在は家族とはなれる事もなく村に介入している企業で働く事が出来るのを考えると、返ってよかったのではないかと話している。実際村の過疎化が叫ばれている現在、長浜の人口は増えてきているということだ。今後の日本農業の展望に対しては、現在外国からどんどん安い作物が輸入されるようになった為、普通の農村ではとてもたちうちできるとは考えられないという事である。

 

<米の保存>

  村で取れた米は、俵に入れて保存していた。

<村の過去>

  50年前の村の米・塩以外の現金収入は、野菜栽培による収入や、近くの村や町への出稼ぎによる収入や、炭鉱による収入がほとんどであったようだ。

 

(平野陽一談)

 私の−番の感動は、村の人々とふれあえた事だと思います。自然の中で走り回るなんて何年ぶりだろうと昔の記憶を呼び戻しながらの調査であった。その日に会う人とこんなに話すなんて一生に一度出来るか出来ないかの体験である。

 村の事を言うと、最近開発が進んでいるそうで私たちが村に辿り着いたときに、まず目に飛び込んで来たのは建設中の住友シチックスの工場であった。地元の人々の自然を破壊されたくないという思いと、働く場所ができてうれしいという思いの葛藤がどことなく哀しく感じた。しこ名以外に昔の事や田舎の事がわかって得したなと思う。

 

(菊次慶祐談)

 初め長浜区長の川内さんから、村の範囲を聞いて長浜の大きさに正直驚いた。マニュアルに書いてあったとおり村の人達にしこ名を教えて下さいと言っても「わからない」とか「そんなものはない」と言われた。実際長浜は、しこ名がそのまま小字になっている所が多いらしく、しこ名を説明して理解してもらった上で質問しても、小字と重複しているところが何力所かあった。明治42年生まれの多久島隆一さんは村一番の古老で、土地の名前などを質問する為に訪れた所、若い頃戦争やらで他の地へ派遣されていたというで、昔の事はほとんどわからないとおっしゃられた。実際村の男性の中にはそのような人が多くて、しこ名に詳しいのは当時から住んでいる女性に多かった。調査後、自分なりに理解した事は、村にはその村だけの歴史が多くあり、その歴史1つ1つに対してもまた歴史があるという事だ。今回の調査にあたって、人生の中でとても貴重な体験をしたと思う。

 

 


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